輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった―   作:あすらりえる

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第51話:泉に揺蕩う歌声

 薔荊蛇(しょうけいだ)の偵察を終えた海里たち三人は、その棲み処とエルフの里の中ほどに位置する、樹々に囲まれた泉へと移動した。

 

 水は深く澄み渡り、樹々の隙間から差し込む光が青い水面に降り注いでいる。水底へ吸い込まれそうな錯覚を覚えるほどに、光の粒が水面でキラキラと揺らめいていた。

 

 静寂の中で聞こえるのは水のさざめきだけ。海里は、泉から少し離れた大樹の根元に腰を下ろした。

 

 視線の先では、リュカが休息もそこそこに、アルベールから回復魔法のコツを聞いている。熱心に学ぼうとする姿を視界の端に収めながら、海里はゆっくりと目を閉じた。偵察の緊張から解放された安堵と疲労が重なり、意識は心地よい微睡みへと沈んでいく。

 

 眠りに落ちる間際、

 

「あれ?海里、眠っちゃった?」

 

 というリュカの声が聞こえた気がした。

 

 

 □■□■□■□

 

 

 

 暫く眠っていたのだろう。海里が瞼を開くと、リュカとアルベールの姿はなかった。代わりに、少し離れた場所から透き通った歌声が聞こえてくる。

 

 

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 海里はその旋律に誘われるように、声の主を探して泉の方角へと歩き始めた。近づくにつれ、歌詞が樹々のざわめきに混じり、はっきりと形を成していく。

 

『壁は蔦模様

 屋根は葉っぱの傘

 私の小さな世界

 平和な箱庭』

 

 エルフの里という安らぎを慈しむような穏やかな調べ。だが、旋律は次第に切なさを帯びて揺れ始める。それは森の境界に立ち、外の世界を覗き見るような、未知への期待と広い空への憧れを紡ぐ歌だった。

 

(この歌を歌っているのは誰だ?)

 

 海里は声の主のもとへ歩を進める。最後に、一際高く、祈るような歌声が泉全体に響き渡った。

 

『風よ運んで

 私の願いを

 まだ見ぬ世界へ

 羽ばたきたい

 小さな箱庭

 愛しいけれど

 いつか外の世界

 冒険の旅へ』

 

 音を辿り、行き着いた先で目にしたのは、泉で水浴びをするリュカの姿だった。

 

 服を脱ぎ捨て、生まれたままの姿で目を閉じ、ひたむきに想いを口ずさむ。泉の光を受けた白い肌が、水面の揺らめきとともに輝いていた。

 

「リュカ……」

 

 海里の口から、無意識に名前が漏れる。

 

「え!?か、海里!?眠ってたんじゃ……!!」

 

 リュカはバッと振り向き、両手で身体を隠した。みるみるうちに、その顔が火の出るような赤色に染まっていく。

 

「俺は、綺麗な歌声を聞いて歩いてきたら、リュカがいて……」

 

 その時、視界に飛び込んできた光景が、海里の思考を真っ白に塗り潰した。

 

 リュカの胸元にある柔らかな曲線。

 

(え?リュカって……女の子、なのか……?)

 

 ずっと少年だと思っていた。一人称は僕で、弓を引く姿は凛々しく、森を駆ける身のこなしも素早くて。

 

 脳内の混乱を嘲笑うかのように、記憶の断片が次々と繋がっていく。

 

 アルベールが最初からリュカ()()()と呼んでいたこと。

 

「彼とは良い友人になれる」と言った時、リアムが含みのある笑みを見せたこと。

 

 リュカは少年ではなく少女だった。

 

 それに気づいていなかったのは自分だけだった。目を逸らさなければと思った時には、もう遅かった。

 

「まじまじと……」

 

「え?」

 

「僕の身体を見るなああああああああああああああああッ!!!」

 

 顔を真っ赤にしたリュカから膨大な魔力が膨れ上がり、その奔流が真っ直ぐに海里へと放たれた。

 

 リュカの魔力が直撃した海里は吹き飛んだ。

 

 

 

 □■□■□■□

 

 

 

 リュカが身体を洗うと言い出した際、アルベールは気を利かせて木立の奥へと離れた。

 

 偵察で塗りたくった樹液がこびりついたままでは、不快感を覚えるのも無理はない。

 

 あの薔荊蛇の棲み処に漂っていた異質な気配は、アルベールの内側にも微かに残滓を留めている。だが、今の彼の意識を占めているのは疲労ではなかった。

 

 白衣の内側に仕舞った魔法袋を、指先で確かめるように触れる。中には、薔荊蛇から剥がれ落ちた棘と鱗が収まっていた。

 

(麻痺毒の無効化は、リアムさんと組めば可能だろう。問題はその先だ)

 

 アルベールの指が、袋の上で止まる。

 

(あの魔物は生物の魔力を吸い、森を侵食するほどの力を持っている。もし、その生態を解明できれば……いや、解明に留まらず応用できれば、魔力そのものに干渉する新たな手段を生み出すことも……)

 

 そこまで思考を広げ、アルベールは我に返って小さく息を吐いた。

 

(何を考えているんだ。私は医者だ。異形の魔物の生態を知りたいのは、治療に応用するため……それ以外の目的などではない)

 

 だが、指先は魔法袋から離れない。棘に宿る魔力の残滓が知識欲を静かに揺さぶっている。医院を訪れた素性不明の患者。設楽(しだら)が残したルカンの氷像。あれに触れた時も同じ感覚があった。もっと知りたいという根源的な渇望。

 

(ジュノアちゃんをはじめ、ルカンの毒に侵された人々を救う。そのために私の持ち得るすべてを使う。そう……それだけだ)

 

 アルベールは自分にそう言い聞かせ、ようやく魔法袋から手を離した。

 

 その時、泉の方角からリュカの絶叫が響いた。

 

(――ッ!?何だ?)

 

 慌てて駆け出しながら、アルベールは声を張り上げる。

 

「リュカちゃん、どうしたんだ!何があった!?」

 

 すぐに返事が届く。

 

「ア、アルベール!?だ、大丈夫だから、ま、まだ来ないで!」

 

「ん!?……ああ、分かった。もう少し待つよ」

 

 要領を得ないが、ひとまず危機ではないようだ。暫く待ってから、アルベールはリュカの元へと歩き出した。

 

 

 

 □■□■□■□

 

 

 

「うっ、ぐおおおおお……」

 

 リュカの魔力に吹き飛ばされた海里は、樹の根に背中を強く打ちつけ、暫く呻いていた。肺の空気が絞り出され、焼けるような痛みが背を走る。

 

 だが、痛みよりも深く海里の胸を占めていたのは別のことだった。

 

(また……やってしまった)

 

 ジュノアと初めて会った時のことを思い出す。気になって追いかけた先で、ルクスの死を悼んで一人泣いていた彼女の姿を見てしまったあの時だ。動いた結果が無神経にしかならない自分に、嫌気が差した。

 

(歌声が綺麗だったから歩いていった。それは本当だ。だけど、声をかける前に状況を確認すべきだった。それが出来なかった)

 

 今すべきことは呻くことではない。背中の痛みを奥歯で噛み殺しながら、海里はリュカのもとへ向かった。

 

 

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 泉の手前に戻ると、異変を聞きつけてやって来たアルベールの背後に、素早く服を着たリュカが隠れていた。

 

「うー、うー」

 

 アルベールの肩越しに顔を覗かせるリュカは、海里を潤んだ瞳で見つめたまま、喉を鳴らして威嚇していた。

 

「ふー、ふー、ごふっ、ごふっ」

 

 小動物のような威嚇が、次第に血に飢えた獣のような唸りへと変化していく。

 

「ごめん!本当に、ごめんなさいリュカ。覗いたことは勿論、君を男だと勘違いしていたことも……」

 

 海里は地面に額を押しつけ、謝罪の言葉を重ねた。

 

「……海里君」

 

 アルベールが呆れたように問いかけた。

 

「……はい」

 

「君は本当に、リュカちゃんが女の子だと気づいていなかったのかい?」

 

「……はい」

 

 絞り出すような返答に、アルベールは大きくため息をついた。

 

「いいかい。たとえ意図せずとも、無防備な姿を見てしまった以上、彼女が憤るのは当然のことだろう」

 

 海里は額を地面に押しつけたまま、声を絞り出した。

 

「俺に出来ることなら、何でもリュカの言うことを聞く。だから……許してほしい」

 

 海里の必死な訴えに、リュカの唸りがぴたりと止まる。アルベールの背中から離れ、海里のもとへと歩み寄り、そのすぐ前でしゃがみ込んだ。

 

「……本当に、何でも聞いてくれるの?」

 

「ああ、俺に出来ることなら何でもする」

 

「……じゃあ、まず一つ」

 

 リュカはそこで言葉を区切り、何かを考えるように首を傾げた。それから、アルベールの方をちらりと見る。

 

「アルベール。僕が回復魔法を使えるようになるには、実践も必要だよね?」

 

「……ああ、そうだね」

 

 意図を察したアルベールの口元に苦笑が浮かんだ。

 

「海里君、君さっき吹き飛ばされた時に背中を打っただろう?」

 

「……はい。結構、痛いです」

 

「丁度いいかな」

 

 リュカがにっこりと笑った。そこには先ほどの怒りはなく、どこか悪戯めいた色が宿っている。

 

「海里、動かないで。僕の回復魔法の練習台になって」

 

「……練習台?」

 

「アルベールに回復魔法を教わり始めていたけど、練習する相手がいなかったんだ。海里が怪我をしてるから丁度いいよね?」

 

 丁度いいという言葉の響きに、海里は反論の余地を見つけられなかった。何でもすると言ったのは自分だ。

 

「……分かった」

 

 海里が観念したように頷くと、リュカは嬉しそうに手を叩いた。

 

「よし。じゃあ、アルベール先生、お願いします」

 

「ふふ、先生はつけなくていいよ、リュカちゃん。じゃあ、海里君。上着をめくって背中を見せてくれるかい」

 

 言われた通りに上着をめくると、背中の右側に赤黒い強打の痕が広がっていた。リュカはそれを見て、一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに唇を引き結んでアルベールの方を向いた。

 

「まず基本からだ。回復魔法は、己の魔力を相手の身体に流し込み、再生を促すものだ」

 

 アルベールが静かに語り始めた。

 

「攻撃魔法とは根本が違う。魔力を外へ放出して相手にぶつけるのではなく、相手の身体の中に入り込んで、傷を内側から癒やす。だから、必要なのは威力ではなく繊細さだ」

 

「繊細さ……」

 

 リュカが呟いた。

 

「傷口に手を当ててごらん。そこから、魔力をゆっくりと流し込んでみるんだ。川のように流すんじゃない。一本の糸を丁寧に通すようにね」

 

 リュカは小さく頷き、海里の背にそっと手を当てた。

 

 手のひらの温もりが肌を通して伝わり、リュカが目を閉じて集中する。数秒の沈黙の後、海里の背中に微かな熱が広がった。が、それだけだった。

 

「……アルベール、何も起きないよ」

 

「いや、悪くない。魔力は通っている。ただ、まだ傷に作用できていないだけだ」

 

 アルベールはリュカの手の上に自分の手を重ね、魔力の流れを確認するように目を閉じた。

 

「魔力の質は、むしろ回復向きだ。弓を引く時の集中力が活きている。ただ、傷の状態を魔力で感じ取らなければ、治すべき場所が分からない。内出血の範囲や傷の痛み、そういうものを読み取る力は経験でしか身につかない」

 

 リュカは唇を噛んだ。

 

「……じゃあ、今の僕には無理ってこと?」

 

「今すぐには、ね。でも、初めてで魔力を通せたこと自体が大したものだよ。私が初めて回復魔法を試みた時は、魔力が全く流れなかったからね」

 

 アルベールは苦笑した。

 

「焦る必要はない。里に戻ってからも練習を続けよう」

 

 リュカが手を離すと、海里が振り返った。

 

「……温かかったよ。傷は治ってないけどリュカの魔力は温かかった。ありがとう」

 

 リュカは一瞬きょとんとした後、ふいと顔を背けた。

 

「……お礼を言われることじゃないよ。僕が吹き飛ばしたんだから」

 

「そうなったのは俺が悪い」

 

「……うん。海里が悪い」

 

 リュカはジト目を向け、小さく不満を漏らした。

 

 アルベールはそのやり取りを見守りながら、リュカの魔力の性質を思い返していた。

 

(あの子の魔力は確かに回復に向いている。もう少し鍛えれば基礎的な治癒は出来るようになるだろう)

 

 それは彼自身の経験則であり、種族の異なる教え子の才能を確信した瞬間だった。

 

 

 

 □■□■□■□

 

 

 

 ひとしきり騒ぎが収まった後、アルベールが海里の打撲痕の治療を行い、三人は休憩を切り上げて里への帰路につく。

 

 泉を後にしてしばらく経つが、先頭を行くリュカの背には、あるはずの長弓も矢筒も荷の詰まった背負い袋もない。それらはすべて一歩後ろを歩く海里が一人で担いでいた。

 

「……ねぇ、海里。本当に全部持つの?重くない?」

 

 リュカが首を傾げて振り返る。その仕草は相変わらず少年のようだが、事実を知ってしまった海里の目には、細い首筋や整った顔立ちの端々に少女の線が重なって映る。

 

「ああ、大丈夫だ。これくらい、リュカを男だと勘違いしていた俺への罰に比べればなんてことない」

 

「ふーん……。じゃあ、これも食べていいよ。ほら、携帯用の固いパン」

 

 リュカが差し出したのは保存用のパンだった。石のように固く味気ないことで知られる代物らしい。海里がそれを受け取り一口齧ってみると、がりり、とおよそ食料らしからぬ音が響いた。

 

「……っ、本当に固いな、これ」

 

「あはは!でしょ?それを食べてる間は僕の裸を見たことへの文句は言わないであげる。……見られたのは僕の不注意でもあるんだけどさ」

 

 リュカは海里のすぐ隣まで歩み寄ってきた。そして、彼が担いでいる自分の荷物の革帯を指先で少しだけ整える。

 

「……やっぱり荷物、半分持とうか?交代してあげてもいいよ」

 

「いや、いいよ。最後まで俺が持つ。何でもするって言ったからな」

 

 海里が頑なに首を振ると、リュカはふいと顔を背けた。その長い耳の先が泉の時と同じように赤くなっているのに海里は気づいた。

 

「……あんまり頑張りすぎると男の人だって意識しちゃうじゃないか……」

 

「え?何か言ったか?」

 

「何でもない!ほら、さっさと歩く!」

 

 リュカは足早に駆け出し、海里は「待ってくれ!」と重い荷を揺らしながら、その後ろ姿を追いかけた。

 

 里への距離が縮まった頃、リュカは不意に口を開いた。

 

「ねぇ、海里。ジュノアって人はさ、どんな人なの?」

 

「ゼファーさんが率いる白銀騎士団所属の騎士だよ。俺の命の恩人ルクスが、亡くなる直前まで大切に想っていた人なんだ。ルクスに報いるためにも、助けたい」

 

 リュカは少しだけ首を傾げた。

 

「海里にとっては?」

 

「俺にとって?」

 

「ジュノアのことを話している時の海里はすごく真剣だったよ。ルクスに報いるって言ったけど、それだけなら、あんな必死な顔にはならないと思うんだ」

 

 海里は言葉に詰まった。リュカの言葉は、彼自身が蓋をしていた何かを正面から突きつけてくる。

 

「俺はジュノアを助けたい。彼女に何度も助けてもらった。俺のことを知っても受け入れてくれて……」

 

 海里はそこで口を閉じた。

 

(ルクスに報いたいから助けるのか。それとも……俺自身がジュノアを失いたくないのか)

 

 その問いにさらに別の影が重なる。

 

(鏡花は……俺にとって大切な幼馴染だ。でも鏡花は今、俺のことを認識してすらいない。俺は……)

 

 ジュノアへの感情の正体を探ろうとすると、そこに鏡花の姿が重なる。二人への想いは質が違うと直感しているのに、それを言葉にできない。

 

「……ごめん、リュカ。俺にはまだ分からないんだ」

 

 海里の声は素直な困惑そのものだった。

 

 リュカは暫く黙って歩いていた。海里が何に悩んでいるのか、その正確な感情を、ジュノアには会ったことがないリュカは捉えきれていない。それでも分かることがあった。

 

「……僕はさ、ジュノアって人を知らないから偉そうなことは言えないけど」

 

 リュカは前を向いたまま言った。

 

「さっきも言ったけど、恩に報いるだけの相手なら分からないって悩んだりしないと思うよ。分からないって思えること自体が答えの手前にいるってことなんじゃないかな」

 

 それは解決ではない。ジュノアを知らないリュカに正解が出せるはずもない。だからこそ、その言葉は海里の胸に小さな棘のように残った。

 

「……ありがとう、リュカ」

 

 海里はそう言って、ルクスのことを考えた。彼が大切に想ったジュノアを救うことは彼への義務なのか、それとも海里自身の渇望なのか。答えの出ない問いは重い荷物よりも海里の肩に食い込んだように思えた。

 

 少し離れたところからその様子を見ていたアルベールは、誰にも聞こえない声で「やれやれ」と独りごち、二人の様子に優しく目を細めた。

 

 

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