輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった―   作:あすらりえる

70 / 71
第68話:戒律を定義する

 湖面から突き出た腕が、震えながら岸辺の泥を掴んだ。

 

 エーリッヒは咳き込みながら湖から這い上がり、地面に顔を押し付けた。濡れた黒曜の鎧が鉛のように重い。水を吸った布が肌に張り付き、歯の根が噛み合わないほど全身を震わせていた。

 

「ごほっ、げほ、ごほっ……はあ、はあ……。溺れ死ぬかと、思いました」

 

 激しく咳き込みながら水を吐き出す。魔力を奪われ続ける倦怠感が、鎧の重さを増幅させていた。

 

 里の方角から響く咆哮や魔力のうねりから、異常事態は察していたが、彼の意識は自身の懐へと向いた。

 

 震える手でまさぐり、収まっているものの感触を確かめる。何の装飾もない魔法袋。エーリッヒが各地で価値あるものを仕舞い込んできた相棒。

 

「……よかった。拝借したものは無事ですね」

 

 呟きながら袋を胸に押し付け、立ち上がろうとした瞬間、森の茂みから獣じみた唸り声が響いた。

 

 エーリッヒの身体が強張る。

 

 茂みから姿を現したのはマッドエイプ。全身に毒々しい薔薇が咲き乱れ、腕の先からは赤黒い蔦が這い出している。左の眼窩には花弁が咲き、右目だけが焦点を失ったままエーリッヒを射抜いていた。

 

「ひっ……これも、あの薔荊蛇の仕業ですか……ッ!?」

 

 マッドエイプが咆哮を上げて襲ってくる。

 

 湖に落ちた時点で短剣はすでになく、エーリッヒは残り少ない魔力を絞り出した。周囲に霧が噴き出し、みるみる白い壁が広がっていく。

 

「視界さえ奪ってしまえば、どうということはありませんッ!」

 

 霧の中で身を低くし、その場を駆け抜ける。マッドエイプが薔薇に覆われた腕を振り回す音が背後から聞こえたが、それに構わずエーリッヒは森の外へ向かって駆け出した。

 

(このままリグリアに戻ったとて……。それなら森を抜けてからアリーナポリスへ逃げればいい。あちらなら、これの中身を買い取ってくれる闇市にも心当たりがある)

 

 黒曜騎士団の行いでエルフの里が蹂躙されようとも、自分には無関係なことだと考えていた。生きてさえいればいい。そう思い、口元に微かな笑みを浮かべた時だった。

 

「おや?生きていらしたんですね」

 

 その声は何もないはずの背後から聞こえてきた。

 

 エーリッヒの足が止まった。

 

 穏やかで、柔らかささえ感じる声の主が誰かを、エーリッヒは理解した。振り返らなければならない恐怖が、彼の首を強制的に回させる。

 

「……ゼ、ゼイロン……ッ!?」

 

 喉から引きつった声が漏れた。霧の向こうから、金髪の男の輪郭がゆっくりと浮かび上がってきた。ゼイロンの唇には、知人に偶然再会したかのような微笑があった。

 

「あなたの同僚二人は里の上層で戦っていますよ。まさか、お一人で逃げられるのですか?」

 

「……ぅ、ぁ……」

 

 問いかけは穏やかだったが、エーリッヒの背筋を撫でた冷気は、湖の水よりもなお冷たく感じた。

 

「ご、誤解です。わ、私はただ、この貴重な古文書を然るべき場所に届けることを優先するために……!これは教団の役にも立つことでしょう!」

 

「古文書?」

 

 ゼイロンの視線が、エーリッヒの握る魔法袋へ向けられた。微かに首を傾げて目を細めるが、発せられた言葉はエーリッヒの期待を裏切った。

 

「それは不要ですね」

 

「な、何故!?」

 

 混乱するエーリッヒの足元で、影が音もなく広がった。それは幾筋もの触手のように形を変え、足首から腿、胸へと這い上がり、一瞬で彼の全身を拘束した。

 

「な、何を……!?」

 

 ゼイロンは軽く首を振った。

 

「黒曜騎士団には既に十分に貢献いただきました。薔荊蛇を里に連れ込んでいただいたおかげで、海里さんの力は見ることが叶うでしょうし、ついでの治験も行えました。なので、あなたの役目はもう終わっています。仲間を放って逃げようとする者の後始末くらいは私が済ませましょう」

 

「ッ……!」

 

 ゼイロンが静かに片手を掲げると、足元の影がぐにゃりと揺らいだ。そこから一本の長柄が浮上してくる。黒曜石を思わせる材質で、鈍く湿った光を放つ長大な柄。柄の先端には、ほの蒼い刃が付随していた。大きく湾曲し、ただ武器としての機能だけを帯びた大鎌。

 

 それが影の内側から生まれ出るようにゼイロンの手元に収まった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 エーリッヒの瞳孔が極限まで開いた。

 

「ま、待っ」

 

 大鎌の一閃は音がせず、彼の周囲の霧が刃の軌道に沿って切り裂かれた。エーリッヒの頸部が断たれ、影の拘束に吊られるように胴体が傾く。魔法袋は支えを失った手から滑り落ちた。

 

「教団が求める知識は、星蝕の地(せいしょくのち)の瘴気を払える手段です。五十年前の戦いの影響で発生した瘴気を払う方法となると、いかに叡知(えいち)を持つエルフ族であろうと知っているはずがない。そんな都合のよい書物が存在するのなら、各地に散った星蝕の欠片(せいしょくのかけら)を集める必要などないのですから」

 

 エーリッヒが聞いていても理解できない内容をゼイロンが語る。彼は屈んで、落ちた魔法袋を丁寧に拾い上げた。

 

「随分と手癖が悪かったようですね。これは返却していきましょう。さて、薔荊蛇との戦いも大詰めとなりそうですね」

 

 彼は魔法袋を影に収めると、地面に倒れたエーリッヒの亡骸に最後まで視線を向けることなく、影の中に消えた。

 

 

 □■□■□■□

 

 

 

 里の下層へ落下した薔荊蛇は、巨躯をずるりと捻らせ、緩慢に身を起こしつつあった。逆鱗を穿たれた傷口からは、どろりとした黒い体液が滲み出している。

 

「……まだ動くのかよ、あいつ」

 

 土魔法を纏わせたメイスを担ぎ直し、レンが吐き捨てた。

 

 周囲では、寄生されたマッドエイプの群れが広場の外縁を包囲するように押し寄せている。森の奥から途切れることなく新たな個体が樹々を掻き分けて現れる状況に変化はない。

 

 ただ一点、明確な差異があった。魔力を奪い続けていた薔薇の侵食が、目に見えて衰えていた。

 

 逆鱗を貫かれた本体が、領域の維持能力を喪失し始めている。完全に消失したわけではないが、脅威は確実に減少していた。

 

「リズ、まだいけるか」

 

「もちろん。これを逃したら次はないわ」

 

 レンは腰の革袋から魔力薬を抜き取り、一息に煽った。喉から胃の腑へ熱が走り、魔力を回復させる効能が全身に染み渡っていく。

 

 リズも同様に薬を飲み干すと、口元を乱暴に拭った。魔力回復の効力は平時の半分に満たない。それでも、火球を絶やさぬだけの底力は確保できた。

 

「リズ、どんだけ群れが来ても、全部ここで止めるぞ」

 

「ええ。海里たちのところには、一体も行かせないわ」

 

 地上に伏した薔荊蛇のもとへ、海里とリュカが樹上から降下してくる気配があった。

 

 彼らの背後へ群れをなだれ込ませるわけにはいかない。今、地上で前線を死守する意義は、それだけで十分だった。

 

「来いよ、魔物ども」

 

 レンとリズは己の成すべきを果たすべく、迫り来る寄生体の群れを迎え撃った。

 

 

 

 □■□■□■□

 

 

 

 里の上層で、もう一つの戦いが続いていた。

 

 レナートの死体が、薔薇の蔦に繰られて鉄球を引き摺り、枝の上を這うように移動する。動きは緩慢だが、決して止まらない。

 

 バルトロメオは二十歩ほど離れた太枝の上に立ち、両手剣を構え直した。薔荊蛇が地上へ叩き落ちたあの瞬間から、魔力を奪われ続ける圧迫感は消えていた。重石が取れたような感覚はあったが、余裕に変わるほどではない。目の前の亡骸は、そんなことには関係なく動き続けている。

 

 剣身に魔力を集束させて衝撃を放ち続けた。

 

「カミラ、右脚だ!」

 

「分かってるわ!」

 

 声だけが宙から返ってきた。カミラの姿はどこにもない。隠蔽魔法で気配ごと消えた彼女は、亡骸の死角を縫うように動き続けている。

 

 宙から走った鋼線がレナートの右脚を絡め取り、そのまま足場から引き剥がして重心を強引に崩した。見えない場所からの拘束に、亡骸が対応できない。バルトロメオは生じた隙へ向けて衝撃を解き放った。

 

 身体を這う蔦が無理やり体勢を立て直し、レナートの膨張した両腕が鉄球を振るう。薔薇の蔦が球体に絡みついて棘を広げ、唸りを上げながら飛んでくる。激しい風圧にバルトロメオの髪が乱れ、彼は咄嗟に剣を縦に構えた。衝撃が腕を伝い、後退を余儀なくされる。

 

「はあ、はあ……」

 

「バルトロメオ、無理しないで!」

 

「……無茶をしないわけには、いかないんだ」

 

 低く呟き、再び構える。

 

「せいッ」

 

 放たれた衝撃の刃が、レナートの胸を斜めに走り抜けた。

 

 鎧を突き破り咲いていた薔薇が弾け飛び、亡骸の身体が大きく後方へ仰け反る。だが、断たれた蔦の端から間を置かず新たな蔓が伸びていく。再生の速度に対し、斬撃がわずかに遅い。

 

「……っ、しぶといな」

 

 呼吸を整えながら、バルトロメオは剣を握り直した時、鉄球を引き摺っていたレナートの首が、不意に別方向を向いた。

 

 バルトロメオたちではなく、その先。樹冠の枝の上を見据えていた。

 

「……シルフィアさんたちを狙う気か」

 

 カミラが息を呑んだ。

 

 バルトロメオが枝を蹴った瞬間、レナートの膨張した両腕が鉄球を担ぎ上げていた。標的を転換し、蔦の張力を利用した投擲体勢に入る。

 

「カミラ、縛れ!」

 

「ええ!」

 

 二方向から鋼線が同時に走り、レナートの両腕を肘と手首で縫い止めた。見えない場所からの拘束に、亡骸は投擲の予備動作を止めるしかない。

 

「そっちには行かせない!あんたの相手は俺たちだ!」

 

 バルトロメオの両手剣が、横薙ぎに振り抜かれた。

 

 剣身に宿した衝撃魔法が、拘束され無防備となったレナートの脇腹を捉え、その身体を真横に弾き飛ばした。

 

 レナートの身体が枝の上を転がり、引き摺られた鉄球が太枝を砕きながら宙を跳ねる。亡骸は枝に蔦を絡め、里の上部から落下する寸前で辛うじて止まった。

 

「はあ、はあ……」

 

 バルトロメオの切っ先が自然と下がっていく。振り抜いた腕には痺れが走り、一撃ごとに魔力の残量が削り取られていくのを痛感していた。

 

「バルトロメオ」

 

 どこかから、カミラの声が届いた。

 

「これ、あと何回保つかしら」

 

「最後まで……保たせるしかないな」

 

 短く返した。それ以外に言葉はなかった。亡骸をこの場所から自由にさせないこと。それだけが、今の二人に課せられた役割だった。

 

 

 

 □■□■□■□

 

 

 

 里の上部で、シルフィアとエヴァンの父娘は束の間の休息を得ていた。

 

 地上へ落下した薔荊蛇(しょうけいだ)は、里の下層で身を起こしている最中であり、二人は完全に狙いから外れた。

 

「……お父様。平気?」

 

「ああ」

 

 シルフィアは杖を握り直した手を僅かに緩めたが、その視線は地上を油断なく見据えていた。

 

「お父様、薔荊蛇が何かしようとしているわ」

 

「ああ……魔力の震えが、ここにいても伝わってくるな」

 

 エヴァンの声には、拭えぬ疲弊が滲んでいた。

 

「次で決める気ね」

 

「……ならば、こちらも準備せねばな。若いリュカと、外から来た海里たちだけに任せるわけにはいかんからな」

 

 エヴァンが立ち上がる傍らで、シルフィアの杖先には氷の粒が音もなく結晶を成していく。だが、二人よりも早く、地上の薔荊蛇が異様な動きを見せ始めた。

 

 

 

 □■□■□■□

 

 

 

 地上に降り立った海里は、リュカを背に庇うように半歩前に出ていた。重力魔法を纏わせ直した剣の柄が汗で滑る。

 

「海里。あいつ、僕たちのこと見てる」

 

 背後で、リュカが矢筒の中身を確かめながら呟いた。

 

「ああ」

 

 返した声が、僅かに掠れた。

 

 地上で身を起こしつつあった薔荊蛇の視線が海里とリュカだけを見ていた。執拗に狙ったシルフィアには、もう視線は向いていない。

 

 標的は、自らを樹上から叩き落とした二人だけ。

 

 薔荊蛇の全身の鱗が、内側から持ち上がるように反り返り、その下から新しい皮膚が露わになっていく。その新たな皮膚は、本来の緑からかけ離れた、赤黒い光沢を帯びていた。

 

「……脱皮してる?」

 

 リュカが矢を番えながら呟いたが、海里は首を振った。

 

「違う、これは……」

 

 それは脱皮という言葉では表現しきれず、変態しているといったほうが正しかった。

 

 全身に咲いていた薔薇の花弁がねじれていく。花弁が硬化し、棘が伸び、ねじれて縒り合わさりながら、幾百幾千もの赤黒い棘刃へと姿を変えていった。

 

 巨体の表面に、これまでとは比べ物にならない量の棘が形成されていく。一本一本が長剣ほどの長さがあり、その先端から毒々しい滴が垂れていた。吸収していた魔力を込めた棘刃が放たれようとしていた。

 

 ぎしゃあああああああああ!

 

 里中を揺るがす咆哮と共に、薔荊蛇の巨体がぐぐっと身を縮め、射出の瞬間を待っていた。

 

「海里、あれ使わせたら、僕たちだけじゃない。皆やられちゃうよ」

 

「ああ」

 

 海里は憑想(ひょうそう)を使うべきかどうか悩んでいた。ヴェノム・ルカンの半身を吹き飛ばした一撃を放てば、止められるかもしれない。だが、止めを刺しきれなければ、動けなくなった後に確実にやられる。

 

 薔荊蛇が全身の棘刃を一斉に宙に解き放とうとした瞬間だった。里の大樹から発した光の紋様が、里中を覆うように広がり始めた。

 

「これは?」

 

「リアム様!?」

 

 呟く海里の隣で、リュカが顔を上げた。

 

 樹上の書庫の方角から、リアムの声が里の隅々まで届いた。

 

 声が里全体に張られた光の紋様を伝わり、言葉そのものが里を満たした。それはただの声ではなかった。

 

 

 

 

戒律(かいりつ)を定義する」

 

 

 

 

 

 里の上部で、リアムが構えた杖の先端が白い光で輝いていた。

 

「異形の薔薇の魔力に侵されしものたちよ、その場から動くことを禁ずる」

 

 その言葉は、耳を通り過ぎただけでなく、身体の内側にまで届いてきた。命令でも懇願でもない。ただ、そうなると決まったという宣言だった。

 

 里全体に光が満ちると同時に、状況が変化した。

 

 棘刃を放とうとした薔荊蛇の巨体が痙攣した。

 

 樹上で薔薇に寄生されたレナートの亡骸が動きを止めた。

 

 里に雪崩れ込んできた寄生マッドエイプの群れが、一体残らず硬直した。

 

 薔薇を纏うものたちが、等しく、リアムの戒律の対象となった。

 

 薔荊蛇は棘刃を射出しようとして、できなかった。傷つけられたからでも、魔力を奪われたからでもない。

 

 リアムの定義した戒律が、そうあることを許さなかったから。

 

 

【挿絵表示】

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。