輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
リーファに促され、医院の裏口をくぐった海里は、表通りを避けて、狭い通りを駆けていた。
陽の光が十分に届かない通りに人影はなく、石畳を蹴る自分の足音だけが、やけに大きく反響していた。
背後の医院からは、白銀騎士団の呼びかけがまだ続いているのが聞こえる。リーファが、身を挺して時間を稼いでくれている以上、立ち止まることは許されなかった。
逆賊。
そんな言葉を投げつけられた理由も、アルベールが消えた理由も、何一つ分からない。分からないまま、リーファ一人をあの場に残して背を向けた。その事実が、走るほどに重くのしかかってくる。
昨日、リズたちに転生者だと打ち明けたばかりで、隠し事をしなくて良い相手が増えたと思えたところだった。
それが一夜明ければアルベールはいなくなっていて、白銀騎士団が自分を逆賊と告げてきた。彼ら自身も迷いがある様子だったが、それでも騎士という立場である以上、手心は期待できなかった。
どこへ逃げる? 闇雲に走り続けるわけにはいかない。普段、滞在している冒険者用の宿には戻れない。そうなると、あとはシモンの道具屋を頼るべきか。考えを巡らせながら、とにかく人目のない場所へ移動しようと足を速めた、その時だった。
背後で、バチバチと空気が裂ける音が響いた。
「なんだ?」
反応する間もなく、凄まじい速さの何かが、海里のすぐ横を通り抜けていった。空気がびりびりと痺れ、うなじの産毛が逆立った。
それは、海里の数十歩先で背を向けたまま立っていた。
見覚えのある白銀の鎧と長槍。すらりと伸びた背筋と佇まい。見間違えるはずのない、その姿に海里の足も自然と止まっていた。
「ゼファー……さん?」
呼びかけに応じるように、ゆっくりと、その人影が振り返る。それを見て、海里は引き攣ったように息を詰まらせた。
「そんな……」
こちらを向いたゼファーの双眸は白く濁っていた。ルクスの記憶にある弟を慈しみ、部下を率いる男の面影はなかった。ただ虚ろなだけの両の目が、海里を見ていた。
それは初めて見る光景ではなかった。傀儡魔法で操られた魔物とは、これまで幾度も戦った。意思の消えた瞳のまま、命令だけで動く抜け殻のような存在。
つい昨日、シモンたちから聞かされたばかりだ。意思を奪い、道具として使う傀儡魔法の悪辣さを。本来は戦力差を埋めるために魔物を操る魔法を、躊躇なく人間にも使う男がいるという。
宰相イディウス。思えば、アウロラの森の一件も、会ったこともないその男が背後にいた。シモンたちが話していた少年王だけでなく、恩人の兄にまで悪意を向けていた。
点と点が最悪の形で線になる。
「こんなことを……シルフィアさんが許すはずがない」
この場には彼を愛してやまないエルフの女性はいない。彼女はどうしている? このことを知っているのだろうか?
答えの出ない疑問だけが残った。目の前の光景は、魔物が操られるのとは動揺の度合いがまったく違った。
『雷針』ゼファーは、リグリアでも最強の一角に数えられる騎士。海里が返しきれない恩を受けたルクスの兄が意思を奪われ、自分の前に立っている。その事実が海里の思考を揺さぶったが、問答は許されなかった。
ゼファーの手には、いつか見た長槍が握られている。穂先が青白い雷を纏い、空気を裂いた。バチバチと、彼の全身と槍を覆う雷光が、海里に危険であるとこれでもかと訴えてきていた。
「――ッ、くっ……!」
考えるより先に海里は身体を横へ跳ねさせた。直後、掠めるようにして雷撃が背後の石壁に直撃する。激しい衝撃音とともに、その壁面が爆ぜて崩れ落ちた。飛び散った破片が海里の頬を薄く裂き、髪をわずかに焦がす。避けきれたのは偶然でしかなかった。
「やめてください、ゼファーさん!!」
叫んでも、応えはない。ゼファーは一言も喋らず、ただ、意思を奪われた人形のように、手にした長槍を海里へと水平に据えた。静寂を切り裂いて、一条の蒼雷が放たれた。
虚ろな目のまま、ゼファーは二撃、三撃と、無機質に雷撃を繰り出してくる。そこに躊躇いも手加減もなかった。
傀儡とされた者だからか声がまるで届いていない。その様子が、バチバチと音を立てている雷の魔力よりもよほど恐ろしかった。
傀儡魔法を解く手段など海里は持っていない。シモンが希少な魔道具を手に入れてまで挑もうとするからには、簡単に解けるようなものではない。ならば、この場を離脱するしかない。
海里は重力魔法でゼファーをその場に抑えるつもりだったが無駄だった。魔力が届いたときには、既にその姿は雷の残滓だけを残して消えていた。
(速い!)
操られた魔物の比ではなく、操られてなお、その動きは研ぎ澄まされていた。
海里は身を翻し、通りの角へ向かって地を蹴った。戦うという選択肢は最初からなかった。相手は恩人の兄で、傷つけるわけにはいかず、それ以前に勝てると思えなかった。
「重くなれ……!」
走りながら、ゼファーの足を止めようと重力魔法を放ち続けた。
少しでも足が鈍れば、その隙に離脱できるかもしれない。そう思っての行動だったが、それより速く、ゼファーは雷光そのものになったかのように駆け抜けていた。海里が抜けるはずだった角の先に、既に白銀の鎧が立ち塞がっていた。
「なっ……!?」
正面を塞がれているなら上だ。海里は重力魔法で自身の身体を軽くして、壁を蹴った。幾度も繰り返してきた動きだ。石壁の凹凸を足がかりに、建物の縁へ指がかかった。その瞬間だった。
前触れもなく、真上から青白い光が落ちてきた。掴んだばかりの縁に雷撃が直撃し、石片と埃が顔に降りかかる。支えを失った海里は、そのまま通りの石畳へ叩きつけられた。
(あの時と同じだ……)
賊のアジトで、逃げ出そうとした男たちが、頭上からの雷光で次々に無力化されていった。あの時、自分は討伐隊の側にいて、それを眺めていた。同じものが、今は自分へと向いていた。
海里が体勢を立て直すと、ゼファーは元の位置から一歩も動いていなかった。逃げる者を上から撃ち落とす雷撃。意思を奪われてなお、そのやり方だけは変わっていなかった。
重力で抑えつけることもできず、次の雷撃が迫ってくるのを、海里は転がるように回避し続け、離脱するための反撃を試みた。剣が届くより早くゼファーは間合いの外へ移り、攻撃は掠りもしなかった。
傷つけたくない。恩人の兄に刃を向けたくない。そんな葛藤を抱く時間はない。
ゼファーは止まらない。ただ、無慈悲に雷光を纏った槍を振り下ろす。その軌道に沿って、細い雷針が雨のように降り注いだ。
海里が飛び退いた足元に雷針が突き刺さり、その一本一本が新たな雷を呼び寄せる。雷撃が退路を塞ぎ、海里を追い立てていく。逃げようとするたび、見えない手に誘導されるように、逃げ道が一つずつ消えていった。
「くっ……!」
背中に冷たい感触があった。いつの間にか、高い石壁に阻まれた行き止まりへ追い詰められていた。
ゼファーが静かに一歩、踏み出した。纏う雷光が、薄暗い通りを青白く照らし出していた。
ゼファーは、槍の穂先を海里の胸元へ真っ直ぐに向けた。その先端が、ひときわ大きくバチバチと音を立てる。青白い光が視界を塗り潰し、針のように細い雷撃が、海里の身体を貫いた。
「がっ……あ、あああっ……!」
意識が焼き切れ、膝が言うことを聞かず、海里はその場に崩れ落ちた。痙攣する指先が冷たい石畳を虚しく掻く。
薄れていく意識の端で、白い目をしたゼファーが、物言わぬまま自分を見下ろしているのが見えた。
(――ゼファー、さん……)
その名を最後に、海里の意識は闇に沈んだ。
□■□■□■□
倒れた海里の傍らに、影から滲み出るようにして、黒装束の男が姿を現した。ゼイロンは、石畳に伏したその姿を一瞥し、次いで、隣に佇む白銀の騎士へと恭しく頭を垂れた。
「ありがとうございました。おかげで随分と楽に海里さんを確保できます」
慇懃な礼にも、傀儡になっているゼファーは反応を返さない。白く濁った目で、虚空を見つめているだけだった。
労いの言葉など聞こえてもいないかのように、その全身が青白い雷を纏う。次の瞬間には、現れた時と同じ速さで、その場から姿を消した。
雷光が消え、それを見届けたゼイロンは薄く笑った。
「今の彼が、教団の敵でないのが幸いですね」
もし、あの『雷針』の槍が自分たちに向いていたらと思うと、主の鏡花であっても簡単には倒せないだろう。彼は鏡花と同格の七元徳、『節制』のアリシアと戦い、五体満足で生きているのだから。
そんな彼が、実力の上では足元にも及ばないイディウスの、文字通りの傀儡になってしまった。皮肉と呼ぶにはあまりに救いがなかった。
そこまで考えて、ゼイロンは背後へ向けて短く命じた。
「さあ、海里さんを丁重に運んでください。鏡花様のために」
白い装束の信徒たちが数人、路上に姿を見せる。彼らは意識を失った海里を抱え上げ、来た時と同じ静けさで人気のない通りから姿を消した。
ゼイロンもまた、海里が倒れていた場所へ視線を向けたてから影へ沈んだ。
あとに残ったのは、雷に抉られた石壁と、崩れ落ちた瓦礫だけだった。陽の届かない通りは元の静けさを取り戻し、ここで何があったのかを知る者はいないまま、海里は輪廻教団の手に落ちた。