輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
鏡花が去ってから、どれほどの時間が過ぎたのか、海里にはもう分からなかった。その数を数えようとしたのは最初のうちだけで、途中からはやめてしまった。
日の光が差さない独房では、昼も夜も区別がつかない。意識が途切れかけるたび、唐突な光と、頭から浴びせられる冷たい水が、海里を無理やり現実へ引き戻す。
それを繰り返していたのは、全身を白装束で包んだ信徒たちだった。
相手に海里を殺す意思がないため、直接的な拷問を加えられたわけではない。しかし、満足な食事も、眠りも与えられない状況では、肉体だけではなく精神も削られていくのがはっきりと理解できた。屈服させるためなら、他に幾らでもやりようがあるとでもいうかのように。
思考が鈍り、輪郭がぼやけ、時折、自分が何故ここにいるのかさえ、分からなくなる瞬間があった。
(……鏡花の身体から
そう思っているのに、身体は自由に動かせず、魔力も使えない。
助けたいはずの幼馴染、いや、その身体を乗っ取ったものによって、海里は今、この状況に陥っている。
幼馴染の三澄鏡花は、リアムが言ったように虚魂に身体を奪われていた。それを引き剥がす手段は見つかっていない。途切れそうになる想いの中で、身動きのできない海里は、その一点だけを繰り返し考えることしかできなかった。
そんな時、独房の外から声が聞こえてきた。
「見張りの交代だ」
海里は吊るされたまま、緩慢な動きで扉へ視線を向けた。これまで眠らせまいとしていた白装束の信徒が、その声に応じて独房を出ていく。
入れ替わりに、別の白装束が独房に入ってきた。覆面で顔を隠した、先ほどより背の低い信徒だった。
だけど、それに何の違いがある。海里はそう思って、再び意識を手放しかけた。どのみち、眠ることは鏡花の命を受けた信徒たちが許さない。なら、せめて、そう願うことは自由じゃないか。
だが、新たに入ってきた信徒は、扉のそばで立ち尽くしたまま動かず、覆面の奥から覗く瞳が、じっと海里を見つめている。
(どうしてそんな目をしているんだ? 教団の行いに慣れていない新しい信徒なのか?)
益体もない考えが脳裏に浮かんだあと、その信徒の口から震える声が零れた。
「……海里」
「……え?」
自分の名を呼ばれたことに、海里の理解は追いつかなかった。その声を、海里はよく知っていた。その声の主は、最後に見た時は未だ目を覚まさずに眠り続けていた。
衰弱した思考から生じた都合のいい幻聴か、聞き間違いだろうと思っていると、その人影がゆっくりと歩み寄ってきて、顔を覆っていた覆面を外した。
信徒の服装をして、独房に入ってきたのはジュノアだった。
「……ジュノア?」
何でジュノアがここに? いや、それよりも目を覚ましたんだな。良かった。何でそんな泣きそうな顔をしているんだよ。まるで、初めて会った日の夜みたいじゃないか。海里の頭には、目の前にいるジュノアよりも、その思い出のような情景ばかりが、次々と浮かんでは消えていった。
「……」
ジュノアは、海里の名を呼んだきり無言だった。彼女は、得意とする水魔法を発動させると、手のひらに水の刃を生成した。そのまま、天井から下りて海里の自由を奪う拘束具を、狙い違わず破壊した。
「う……」
身体の支えを失った海里は、崩れるように床へ倒れ込みそうになるが、それをジュノアの腕が抱き止めた。
彼女に支えられた海里は、ゆっくりと独房の床に膝をつき、倒れそうな上体を、その身体と両腕に預ける形になった。
白装束の下に着込んだ騎士服越しに、温もりが伝わってくる。
目を覚まさないまま、ずっと眠り続けていた彼女。その彼女が、今、自分を腕に抱き止めている。その事実だけで、海里の目の奥が、じわりと熱くなった。
「……酷い。こんなに衰弱するまで……酷いわ……」
海里を抱えたまま、ジュノアが絞り出すように呟いた。よほど酷い有様なのだろうと、どこか他人事のように彼女へ話しかけた。
「目を……覚ましたんだな、ジュノア……良かった」
それを聞いたジュノアは、顔をくしゃくしゃにする。
「最初に言うのが私の心配なの? 馬鹿……。今は自分の心配をしてよ……」
「……ごめん」
「……謝ってほしいんじゃないわ……馬鹿」
暫くの間、海里はジュノアに抱き止められたまま、微睡むような心地でいた。彼女もまた、無言で海里を抱きしめていた。
やがて、ジュノアは羽織った白装束の懐から、小さな薬瓶を取り出した。
「回復薬よ。飲める?」
「……ありがとう、ジュノア」
海里は感謝を口にして受け取ろうとしたが、震える指では、うまく瓶を掴めない。ジュノアがそれを口元へ運び、そっと傾けたが、衰弱しきった身体は、その一口さえ受けつけなかった。
「う……ごほっ、ごほっ……」
海里は激しく咳き込み、含んだ薬をほとんど吐き出してしまう。
「海里……!」
ジュノアが、慌てて背に手を回し、その身体を支える。咳が治まるのを待つ間、彼女はずっと海里の背をさすっていた。
暫くしてジュノアは、手の中の薬瓶と海里の顔とを見比べた。
「……海里。壁に背中を預けて」
「? ……分かった」
促されるまま、海里が身体を後ろへずらすと、冷たい石壁が背に触れた。
ジュノアは、そんな海里の正面に膝をつく。そうして、瓶の中に残った回復薬を自らの口へと含んだ。
その行動の意味を理解するより早く、ジュノアの両手が、そっと海里の頬に添えられた。
顔を包み込んだ手のひらから、じかに彼女の体温が伝わってくる。その手が海里を上向かせると、銀の髪が、視界の端で揺れる。すぐ間近に、伏せられた長い睫毛があった。
そして──柔らかいものが、海里の唇にそっと重ねられた。
(──ッ)
思考が、真っ白に塗り潰される。石壁の冷たさも、手首に残る拘束の痛みも、どこか遠くへ消えた。
ジュノアの唇の隙間から、含まれていた薬液が、少しずつ海里の口の中へと流し込まれてくる。
一度にではなく、海里が再び咳き込まないよう、彼女はほんのわずかずつ、様子を確かめながら薬を送り込んでくる。送っては止め、海里が飲み下すのを待ってから、また送る。
その慎重すぎるほどの優しさに、海里は混乱する思考の中で、ただ促されるままに応えることしかできなかった。こくり、と喉が鳴るが、今度は吐き出さなかった。薬液が喉の奥から胃の腑へと落ち、じんわりと全身へ広がっていく。衰弱による身体の倦怠感が少しずつ和らいでいった。
けれど、そのどれよりも、頬に触れた手のひらと、重なった場所の熱だけが、やけに鮮明だった。
薬瓶の中身がすべて送り込まれると、ジュノアの唇が名残を惜しむように、ゆっくりと離れていく。それでも、頬に添えられた手はそのままだった。互いの吐息が触れるほどの距離で、二人は見つめ合ったまま動けなくなった。
言葉はなかった。
互いに何を言っていいか分からず、ただ時間だけが過ぎようとしていた。
「ジュノア、海里は大丈夫そうか?」
その時、独房の扉の向こうから男の声、それもまた見知ったラルフの声が聞こえた。
「「――ッ」」
見つめ合っていた二人の肩が、びくん、と示し合わせたように同時に跳ねた。
□■□■□■□
扉が開いて、同じく信徒の白服を着ている赤髪の騎士、ラルフが独房内に入ってきた。
「あん? お前ら、どうしたんだ? 海里の装備や荷物は回収したぞ。さっきまでいた見張りは気絶させたけどよ、海里は平気、なんだよな?」
続いたラルフの声に、二人は弾かれたように身を離した。
「え、えぇ。い、今……その、回復薬を飲んだから多少は回復しているわ」
ラルフの疑問に振り返ることなく、早口でジュノアは答えた。薄暗い独房の中では、二人の顔が紅くなっていることに彼は気づかなかったようだ。
「ひとまずは無事で何よりだ海里。動けるか? ここに長居は無用だ。さっさと逃げるぞ」
「ラルフもありがとう」
「はっ。お前を心配してる奴は、お前が思ってるより多いんだよ。その礼は、ここから脱出してから言ってやれよ。まだここは安全じゃねぇんだ」
「俺がどこにいるかも分からないだろうに、二人はどうやって……」
海里の頭に疑問が浮かぶが、ラルフが笑いながら答えてくれた。
「聞いてるぞ。裏通りの道具屋で居場所を伝える魔道具を受け取ったんだろ? あれでお前の魔力を辿ったんだよ。教団支部にいるのは分かっても、ここに入ったことがねえから、正直大分助かった。ジュノア、俺は荷物を持ってくが、海里を支えていけるか?」
「ええ、大丈夫よ、行きましょうラルフ。海里、立てる?」
「あ、あぁ……なんとか」
薬が効き始めたのか、重かった手足には幾らか力が戻っている。それでも、一人で立つには覚束なく、海里はジュノアの肩を借りて、ようやく身を起こした。
ラルフが海里の剣や装備を運び、三人は独房から移動を開始した。
□■□■□■□
薄暗い石造りの廊下は、しんと静まり返っていた。三人は教団支部の中を進んでいく。
途中には、ラルフが気絶させたのだろう信徒が、壁際に転がされていた。
海里の足はほとんど言うことを聞かず、引きずるように床を擦っていた。その音だけが低く響き、ジュノアは歩幅を狭めて歩調を合わせていた。
鏡花も、ゼイロンも、ノイゼットと名乗ったあの騒がしい少女も、今この支部にはいない。主だった者たちが出払っている事実だけが救いだった。誰か一人でも残っていれば、ジュノアとラルフが戦うことになっていた。
(このまま静かに……)
祈るような思いで、独房のある通路を進み始めて暫く経った時だった。
「ちっ。潜入が楽だとは思ってたが、出入り口でお待ちかねか」
ラルフが舌打ちとともに毒づく。通路の先、三人の前に複数の白い影が立ち塞がっていた。一人や二人ではなく、その背後にも白装束の信徒たちが幾人もいた。
「くっ!」
海里は歯噛みした。今の自分は戦えない。助けに来てくれた二人の足手まといになる。教団支部に残っている信徒の数も少なくはなかった。
「おやおや」
先頭の痩せぎすの信徒が、にたりと笑みを浮かべた。
「鏡花様の留守中に、鼠が紛れ込んだかと思えば……」
その隣にもう一人。大柄な信徒が、微動だにせず立ち、恍惚とした半眼で、ぶつぶつと何事か祈りの言葉を絶えず呟いている。
痩せぎすの信徒は、両手を大仰に広げ、朗々と続けた。
「宰相様に協力してもらい確保した転生者を連れ出そうとは……鏡花様へのなんたる不敬か。嘆かわしい。実に、嘆かわしいことだ。敬虔な『信仰』さえあれば、悩むことも、惑うことも、何ひとつありはしないというのに……」
「何ですって?」
その言葉を聞き流せない者がいた。
ジュノアだった。彼女は海里を支えたまま、信仰を口にした信徒に剣呑ともいえる視線を向けていた。
「無実の人間に罪を着せて、自分たちに都合の良いように利用しようとすることの何が信仰なのよ? ふざけたことを言うのも大概にしなさい」
明確な怒りはあるものの、彼女は冷静だった。肩を支えていた海里を通路の壁際に座らせると、優しく声をかけた。
「海里。少し、ここで待っていて。脱出路を確保するわ」
「待て、ジュノア。人数が多すぎる」
海里の声に構わず、彼女は剣を抜き、水の魔力の解放を始めた。静かではあるものの、激情を孕んだような水が、その周囲で渦を巻いていく。煽られた白装束の裾が翻り、下の騎士服が覗く。
そして、もう一人。
「余計な心配すんなよ、海里。七元徳も影使いの男もいねえ。信徒全員が支部にいるわけじゃねえ。こいつらは俺ら二人で蹴散らすから、ジュノアが言うように、そこで待ってろ」
ラルフもまた、海里の荷物を壁際に置き、背負っていた槍の先端に炎の魔力を宿す。
「……ラルフ」
ジュノアとラルフ、教団信徒たちの戦いが始まろうとしていた。
海里から見えるのは、剣を構えたジュノアの背中だった。昏睡する前と変わらない立ち姿に見えた。
けれど、彼女が目を覚ましたのは、ほんの少し前のはずだ。自分の心配をしてほしいと、独房で叱られたばかりだったが、無理を押しているのは彼女も同じはずだ。
出口を塞がれた以上、この通路を抜ける以外に道はない。まともに動けない海里には二人の勝利を願うしかなかった。