輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
アルベールは監獄塔に収監されて久しかった。
陽の光が一度も差し込まない薄暗い石造りの牢は、昼と夜の境すら曖昧だった。捕らえられてから相応の日数が経過したと思うが、それを確かめる術はない。加えて、不快な湿気と血臭が、痛めつけられ続けた体を絶え間なく苛む。
医者として患者の血には嗅ぎ慣れているはずの彼ですらむせ返るほど、生々しい匂いがこの地下牢には濃く澱んでいた。
罪を犯した者が収監される監獄塔。独房ではなく複数の囚人と一緒に放り込まれた雑多で広い牢。それが今のアルベールのいる場所だった。
彼自身は、天井から吊り下げられた拘束具で両の手首を縛られていた。鎖には僅かな余裕があり、床に座り込むことだけは許されている。腕の自由が利かないから、傷を癒そうとしても回復魔法を使うことは叶わない。
あの男がやって来る時だけ、その鎖は容赦なく巻き上げられる。爪先が床から浮くまで吊り上げられ、肩が抜けるかと思うほどの重さが両腕にかかる。そうして責め苦が終われば、また床へ落とされる。使い潰さない程度に痛めつけて、また明日という顔で去っていく。その手順の正確さが、この男が何度も同じことをしてきた証だった。
自分自身だけでなく、周囲でうめき声を上げている囚人たちにも、医者として回復魔法を施したかった。彼らの一人一人が深い傷を負っていて、それを見過ごすことは彼の倫理観が許さない。癒す手段が自分にはあるのに、叶わない。歯噛みして、何もできない無力さを味わうしかなかった。
そう考える中、囚人たちは一人また一人と力尽きていき、その度に周囲の血臭が濃くなっていく。そんな場所にいることが自身の精神にも悪影響を及ぼしていると、自覚できてしまう。
昼も夜も判然としないのに、時間の経過が分かったのは、規則正しい靴音が定期的に響いてくるからだった。それがまた聞こえてきた。
コッコッという硬質な靴音が牢の外から響いてきて、顔見知りというには何度も顔を合わせすぎた男がやって来る。それまでは名前を知っているだけで、関わることなどない人物だったというのに。
牢の扉を開けて、宰相イディウスがにこやかな笑みを浮かべて入ってきた。それがまやかしに過ぎないことを、監獄塔に入れられてからよく理解できた。
「やあ、アルベール殿。今日の気分はどうかな」
「とても……良いとは言えないですね」
イディウスは微笑んでいたが、その目には相変わらず一切の温かみがなかった。彼は牢の中でアルベールの顔を覗き込むが他の囚人には目もくれない。
「毎日、こうして足を運んでいるというのに、君はまだ強情を崩さないのだねえ。討伐後のルカンの氷像が、王都で名高い名医の医院の地下室から見つかった。この意味を、いい加減認めてはどうかな? 私が統治しているリグリアの体制に反逆でも企てたのか、とね」
「何度言われようとも、私の答えは変わりません。私はリグリアに反逆など企てていませんし、ルカンの調査をしていたのも、新たな異形の魔物の出現に備えてです」
「それにしては、ルカンの氷像を手に入れた経緯をどうして言わないのだ? それを話せば君への嫌疑が幾らか晴れるだろうにね!」
「……ぐっ!」
イディウスの語尾が跳ね上がったと思った直後、頬に痛みが走った。その手に握られている鞭で殴られていた。アルベールが何を言おうとも、結局イディウスにとってはどうでもいいのだろう。ただ、他の囚人に比べれば責め苦は幾分弱いものの、嬲られ続けた彼の身体は、回復魔法での治療が叶ったところで完治できる域を超えつつあった。
「反逆を考えていないのなら、何故戦いの場から持ち去られたルカンの氷像が君の医院にあったのかな? 君は騎士でもなければ、冒険者でもない。戦う術がないのは見れば分かる。何故かな?」
この問答も何度目だろうか。その度に変わらぬ答えを繰り返してきたが、返礼は鞭の一撃だ。医者として治療に必要な腕も執拗に打ち据えられ、既に感覚はない。この先どれだけ手を尽くしたところで、これまで通りに働けるか自信を持てなかった。
熱があることは、自分でも分かっていた。手首を縛る枷の下は擦り切れ、そこから熱が広がっている。洗われることのない傷と、湿って淀んだ空気。医者であればこそ、この身体に何が起きているかは、診るまでもなく分かってしまう。放っておけば、鞭を受けて死ぬより先に、この熱に殺される。
「それは……」
ルカンの氷像を医院へと提供したのは
異形の魔物ルカンが必要ないのなら断れば良いだけの話だった。解毒薬を作り、今後現れるかもしれない
設楽が何を考えていたにせよ、少なくとも悪意は持っていなかった。何より、彼は斬られた傷を負って医院に来た患者の一人に違いはなかった。得体が知れず、こちらの言うことを聞かずに手間ばかりかけさせる男だったが、それでも自身の患者の情報を渡すという考えがアルベールにはなかった。
しかし、それはイディウスの目を細めさせるだけだった。
「何故、黙っているのかな? 言えないような後ろめたいことがあると思えたのだが、どうなのかな?」
イディウスは言葉の代わりに鞭を振り上げ、何度も何度もアルベールの脇腹や腕を打ち据えていった。
「ぐっ! あがっ! 私が何を言ったとて、あなたは納得などしないのでは?」
「黙れっ!!」
その度に彼は苦悶の声を漏らし、顔や腕に痣が増えていく。イディウスは、その姿を楽しんですらいるようだった。
「困るんだよアルベール殿。私はね十年以上に渡ってリグリア王国の宰相の地位について、この国を守ってきたんだ。それを揺るがしかねない真似は本当に困るんだよ」
(何が……この国を守ってきた、だ……? あなたの失政で多くの人々が貧困に陥った。賊に身を堕とした者も知っているだけで数知れない。あなたが守ってきたのは自分の地位だけだろう)
アルベールは内心で目の前の男に対して怒りを感じざるを得なかった。黒曜騎士団の行いにも憤ったことはあったが、この男に対しては、その程度ではすまないものがあった。
「気に入らない目をするじゃないか。王国の建国に寄与した人間の子孫とは、その高潔な精神まで受け継いでいるようだね。しかしだね……」
言葉を区切ったイディウスは、周囲の傷ついた囚人たちに目を向け、芝居がかった仕草でアルベールに優しげに語りかける。
「ほら、君の周りを見てみるといい。酷い傷の者達だ。医者として、すぐにでも治療したいだろう? だが、君にはその手が使えない。君はただ、彼らが血を流し、呻き、死に近づくのを見ていることしかできない」
イディウスは、手にした鞭で床に倒れている囚人の一人を嬲っていく。その囚人は治療の術もないまま、苦悶の声を上げた。
「君の医者としての技術も! 経験も! 矜持も全て、この地下牢では無力でしかない。その何一つ活かせず、誰の命も救えない現実をどう思うかね?」
「あなたはリグリアを守ってきたと、ご自身で言ったはずです! それなのに! あなたは一体何をしているんだ!? 抵抗のできない者を甚振って愉悦に浸っているだけだ! それが国の宰相ともあろう者が行うこと……ぐぁっ!」
アルベールの抗議は、最後まで言い切ることができなかった。またもイディウスに嬲られ、その体が激しく揺さぶられた。
「全く……どこかの小娘と似たようなことを……どいつもこいつも私を侮辱して……。私は宰相なんだぞ!! 口の利き方を弁えろぉ!!!」
イディウスは尋問という目的すら忘れ、私的な怒りに突き動かされ、執拗にアルベールを甚振り続ける。
「ふぅー、ふぅー、いかんいかん。賊どもと同じ扱いをしてはいけないというのに、我を忘れてしまった。すまないねアルベール殿」
イディウスが鞭を下ろし、息を整えた時には、アルベールの顔は腫れ上がっていた。彼は痛みに耐えながら、辛うじて呼吸を繰り返す。
「う……ぁ……」
「すっかり順番が前後してしまってすまないねアルベール殿。私はこれから君に協力してほしいだけなんだよ」
イディウスは口調を、協力者を求めるような、甘ったるいものに変えた。
「協……力? 私に、何を……」
アルベールは痛む喉で、辛うじて言葉を絞り出した。
「うんうん。アルベール殿なら難しいことではないよ。入手の経緯は未だ話してくれないが、ルカンの死体を研究、分析していたんだろう? アレの持つ毒を解毒するためにアウロラの森にも行ったんだろう? 今度は視点を変えてだね、毒薬を作ってほしいのだよ」
「は?」
何を言われたか一瞬分からなかった。医者である自分に毒薬を作れと? この男は、本気で言っているのか? 出会ったことのない精神性を有した男がアルベールの意思を無視してしゃべり続ける。
「毒……薬?……あなたはそれで何をしようと?」
「ん? 今すぐに何かするわけじゃないよ」
イディウスは肩をすくめてみせる。
「悲しいことに王国には私に反対する輩も多いから、そういった者への対応に適切に使おうと思っている。魔力を乱す性質を持った毒薬。反抗的な者に飲ませるなら素晴らしい効果を発揮してくれそうじゃないか。アルベール殿が作ってくれる解毒薬は、反抗的な者たちが従順になったら使おうかと考えているんだ。協力してくれまいか?」
「お断り、します!」
そんなことへの協力など頷けるはずがなかった。アルベールが苦痛を訴える身体を揺らすと、両腕を吊るす拘束具ががしゃりと音をたてた。
「私は……命を救う医者です! 誰かの命を危険に陥れるために、私は知識を磨き、経験を積んできたわけではない!」
しかし、それはイディウスにとっては予想通りの返答だった。
「ふぅむ。そうかね、これも駄目か。だが、君がそう言うのは分かり切っていた」
イディウスは少しがっかりしたように見せかけた。
「ならば、何故聞くんです?」
「一応の意思確認だよ。それでは仕方ないね。私に協力してくれないというのなら、君の医院で働く者たちや患者はどうなると思うかな? 君がここにいる間、彼らの身の安全は誰が保証してくれる?」
「――ッ!!」
その言葉は、アルベールの心を抉った。医院で働いてくれている古参の助手たち、新しく働き始め成長しているリーファの顔が脳裏に浮かぶ。
「ッ!! あなたは! 私だけではなく、医院の者や患者にまで危害を加えようというのか!?」
「繰り返すが、何だね? その態度は? 私は君が望まないことだろうとできる力を持っている。私が言えば、白いものも黒く染められるんだよ」
イディウスの目が冷酷に細められる。
「ッ!! お願い、します」
アルベールは痛みに震えながらも懇願した。
「私の医院の者たちや患者には、手を出さないでください。彼ら彼女らはルカンの事など何も知らない。ただ、医院で働いてくれているだけなんです」
「では、私に協力してくれるかね?」
繰り返される問いに、アルベールは口を開きかけたが、言葉が出なかった。彼は拘束具に吊られ、ただ無言で苦痛に耐えることしかできない。
「……」
「ふむ。まだ駄目か。面倒なものだな。いずれ、私のために働いてくれることを期待するなら、手を下すのが早すぎてもいけない。アルベール殿、また聞きに来るから、それまではここでゆっくりと考えを纏めておくれ。ただし、時間はもうそんなに残ってはいないからね。教団が間もなくリグリアからいなくなる様子を見せている以上、私は宰相として対策しなければならないのだからね。私に歯向かう反逆者と一緒に死にたくはないだろう?」
一方的にアルベールを甚振り、執拗に脅迫までしてやっと人心地ついたのか、イディウスはアルベールの返事を待つことなく地下牢から出ていった。牢の扉が重い音を立てて閉まる。
アルベールを嬲る過程で、イディウスは同じ広い牢に収監された者たちも分け隔てなく打ち据えていた。彼らへの尋問といえない行いは、さらに苛烈だった。全身をくまなく滅多打ちにし、傷を治すための手当てなどしない。力尽きて動かなくなる者も増えていくばかりだった。
アルベール自身は違った。責め苦が過ぎた日には、翌日になると粗雑に回復薬をかけられる。傷の縁だけが不格好に塞がり、痛みは引かないまま、また鞭を受けられる身体に戻される。医者として人を救うために用いてきた薬が、ここでは甚振る時間を引き延ばすためだけに使われていた。
死なせないためではない。まだ痛めつけられる状態に戻すためだ。そう分かってしまうことが、何よりも堪えた。毒薬を作らせるという目的がある限り、イディウスは自分を殺さないだろう。裏を返せば、その目的が消えた時に、この最低限の手当ても消える。
アルベールの精神は加速度的に磨り減っていく。時間の感覚を失ったことが、一層それを早めていく。
今のところ、医院の者や患者たちに危害を加えるというイディウスの脅迫は実行されていない。だが、きっとそれも時間の問題でしかない。それでもまだ手を出さないのは、アルベールの心が折れて自身に従順な駒に変わるのを、嗜虐的に楽しみながら待っているからだろう。
水と乾いたパンが牢へ投げ込まれるのも、同じ理屈なのだろう。両腕を縛られた身では、床に落ちたそれへ身を屈めて口をつけるほかない。それでも、飲まなければ死ぬ。生きてここを出るためには、屈辱ごと飲み下すしかなかった。
与えられる量は、生かさず殺さずの一線を見極めたような加減だった。餓えて死なせるつもりはなく、力を取り戻させるつもりもない。牢の隅で動かなくなった者たちには、水の一杯すら投げ込まれなくなって久しい。
どんなに医療の腕を磨いても救えない患者は大勢いた。流行り病、魔物に襲われた傷の重篤化。その度に、次は同じことで失う命が少しでも減るようにと研鑽を重ねた。医院で働いてくれる者たちにも自身の知識と経験を伝えていった。
それが何故、国の政に関わる宰相から国家への反逆を企てているなどと追及されなければならないのか。
利用価値があるから、苛烈に痛めつけたあとは甘い言葉で欲望を刺激し、あの手この手で懐柔を図る。イディウスという男が十年来実権を握ってからずっと行ってきたことなのだろう。
名声が欲しいわけでも地位や大金が欲しいわけでもない。ただ、この手で救える人がいるのならと思い、医者として生きてきた。疲弊することも多かった。それでも、アウロラの森での出来事を経て、これからもっと人々のために役に立つことが増えていくのだと決意を新たにしたばかりだった。
それがいけない事なのか? 悪なのか? この仕打ちはあんまりではないのか? 疑問が疑問を呼び続け、アルベールの口からは意図せず嘆きの言葉が漏れた。
「……ぁあ……私がしてきた事は何だったのだ……」
誰かに向けて話した言葉ではない。だが、その言葉に答える者がいた。
「理不尽……だよなぁ。あんたのような名医ですら……クズ宰相の手にかかると罪人に……されちまう」
声に反応してアルベールがその方向を見た。自分に負けず劣らずの傷を負った禿頭の男が発した声だった。
「……君は、名前は?」
「……名乗るような名じゃねえよ、先生。俺は……ただの賊だ。ルカンとかいう化け物から生き残ったと思ったら、宰相に嬲られる日々だよ。俺以外は……もう皆死んじまったみたいだな……。騎士どももこの事知らないみたいだし……はは、これじゃルカンに喰われた方がマシだったかもな……。悪いことした報いってやつかねぇ」
「……あ」
周囲の静寂が、アルベールに残酷な事実を気づかせた。少し前までは満ちていた呻き声が、もうどこからも聞こえない。本当に、もう自分と彼以外に、同じ牢の中で生き残っている者はいなかった。
「なぁ、先生。俺は絶対にあのクソ宰相を殺してやるって思ってたけどよ、多分……もう無理そうだ……」
賊の男の目から、光が消えかけているのがアルベールには分かった。
この男もまた、幾度も薬で命を繋がれてきたのだろう。塞がり方の歪んだ古い傷が、そう物語っていた。生かされてきた理由は、ただ長く嬲るためでしかない。それが何日、あるいは何十日繰り返されたのか、アルベールには見当もつかなかった。それでも、この男は死ななかった。イディウスを殺すという一点だけを心の支えにして、ここまで生き延びてきた。
「先生はクソ宰相にとって利用価値はありそうだからよ、殺されずに……済むかもしれねぇ。だから、先生。賊の頼みなんて……聞けねぇかもしれねぇが頼みてぇ。あのクソ宰相を権力の座から引きずり下ろしちゃ……くれねぇか? そんで、然るべき罰を……」
「……約束は難しいけれど、ここから出られたなら、イディウスをそのままにしない事は誓おう……」
アルベールは、自分の無力さに打ちひしがれながらも、その願いを受け入れた。
「あぁ、……ありがてぇ……先生……」
今にも息絶えそうな禿頭の賊の言葉は、そこで止まった。それでも、荒い呼吸だけは続いていた。
アルベールが生きてきた中で感じたことのない、沸々とした黒い感情が、イディウスという男に対して湧き上がってきた。
しかし、自身もまた拘束されて無力でしかなく、あの男に屈しなければ、生きて牢を出られるかも分からなかった。
血の匂いに満ちた牢の中で、アルベールにできることは何ひとつなかった。医者としての手を、この場所では一度も使えていない。それでも、あの男へ向けて湧いた黒い感情だけは、消える気配がなかった。