輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
アルベールを救出するため、海里たち一行は、リグリアの王都の端に建てられている監獄塔へたどり着いた。囚人たちを収監しておくための場所が、今は異様な雰囲気を見せていた。
堅牢な監獄塔を背に、奇妙な混成集団がひしめき合っている。細剣を持つ者や斧を担いだ男が立ち、その装備にはまったく一貫性がない。共通点のない者たちがただ集まっているという事実そのものが、この場の空気と相まって、張り詰めた緊張感を生み出していた。
「実際に見てみてどうだ? ジュノア、あれはやっぱり話してくれた傭兵か?」
「ええ、間違いないわ。アリーナポリスの傭兵たちよ」
「アルベールが反逆者として捕らえられたって知らせが出されて、最初はそんな筈はないから、彼を解放しろって抗議する人も多くいたのよ。……でも」
リズの言葉の続きを、彼女と一緒に見てきたレンが引き取った。
「あいつらの雰囲気に気圧されてさ、日を追うごとに、そういう抗議する人の数は減っていったんだよ。とはいってもよ、一般人が多い時は俺たちも近づくに近づけなくてよ……」
そこまで言ったところで、レンが言葉を切って、監獄塔の前にいる傭兵たちを目で追い始めた。
「なあ、リズ。女の傭兵、今日はいるか?」
「……いないわね。一緒にいた男のほうも見当たらないわ」
何日も遠くから眺めてきたおかげで、表に立つ傭兵の顔ぶれはあらかた覚えてしまっていた。中でも、赤い髪の女と、その隣で喋りっぱなしの男の二人だけは、他とは気配が違っていて、嫌でも目についた。
「その二人が表にいねえんだよ。宰相に雇われているなら休んでるってことはねえだろ」
レンはメイスの柄を握り直して、監獄塔の扉へ目を向けた。
「中にいるかもしれないのか」
海里も同じ扉へ視線を移した。
「多分な。それから、表の連中を放っておくと、前と後ろから挟まれる。だから、俺とリズで表の全員の目をこっちに引きつけてやるよ」
そう言って、レンは口をへの字に曲げると、リズが小さく息を吐いた。
「言うと思ったわ。まったく勝手に決めないでよね」
「うっ」
「でも、私たちより足の速い人のほうが向いているわ。あなたもここで踏ん張りなさい」
「……分かってるって」
「じゃあ、表にいる連中はレンとリズに任せてもいいか?」
「ええ、動く速度はあなた達のほうが速そうだしね」
「それと、出入り口の確保だな」
監獄塔の中へ直接踏み込むのは海里、ジュノア、ラルフの三人。表の傭兵の相手をするのはレンとリズとなった。
レンが土魔法で礫を作り、リズが杖の先に炎弾を生成して、傭兵たちの付近へ撃ち込んで注意を引く。彼らが一斉に武器を抜き、臨戦態勢に入ったのを確認して、事前に回り込んでいた海里たちは監獄塔の中へと侵入した。
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海里たちの監獄塔への潜入を確認したレンとリズは傭兵たちと向かい合っていた。
先んじて放った礫と炎弾で注意を引いたはいいものの、集まってきた傭兵の数は思っていたより多い。細剣、斧、曲刀と統一感のない得物が、じりじりと二人を囲もうと間合いを詰めてくる。
「どこに金使ってんだよ、この国の宰相はよ。雇った傭兵の数が多くねえか?」
「焦りの裏返しなのか知らないけど、本人はそうとは気づかずに悪手を取り続けていそうね……」
リズが杖の先に炎を灯しながら、げんなりした声で言う。
「とにかく、海里たちが戻るまで、こいつらの注意を引きつければいいんだろ?」
「ええ、そうよ」
レンのメイスに、土が幾重にも巻きついて固まり、無骨な鉄槌はひと回り大きな金棒へと姿を変える。
「前は俺が食い止めるから分断は任せたぜ、リズ」
「言われるまでもないわ」
真っ先に斧の男が踏み込んでくるが、レンは臆さず前へ出て、土塊を纏ったメイスを振り抜いた。
武器どうしがぶつかり合う中で、横から回り込んできた細剣使いが、レンの死角を突いて刃を伸ばすが、リズの放った炎がその足元で噴き上がる。
「ちっ!」
「やらせないわよ!」
「数で押されないように気をつけて」
「この調子なら、海里たちが戻るまで十分保つな」
「さっそく、調子に乗らない!」
傭兵たちは、次々と襲いかかってくる。一人ひとりが場数を踏んだ手練れであることは、その動きを見れば分かった。
得物はばらばらでも、傭兵たちの連携は噛み合っていた。斧が振られる間は細剣使いが下がり、細剣が伸びる間は曲刀の男が横へ回る。一人が弾き飛ばされても、空いた場所へすぐ別の一人が入ってくる。長く同じ隊で戦ってきた者たちの動きだった。
リズが炎弾を放てば、傭兵たちは火の届く範囲を見切って左右に散る。レンが土塊を打ち出せば、得物の腹を立てて受け止める。こちらが何か仕掛けるたびに、そのやり方をすぐ潰されていく。
「なるほどね。手強いわけだわ」
杖の先に新しい炎を灯しながら、リズが呟く。
「レン、そこから下がらないで。あなたが退いたら、この人たちの何人かは塔へ回ってしまうわ」
「分かってるって!」
レンは吠えるように応じて、また前へ出た。金棒を横に薙ぐと、傭兵たちがまとめて後ろへ跳ぶ。倒しきれなくてもいい。ここに釘付けにしておけば、それでレンとリズの役目は果たせる。
厄介な傭兵たちを二人で抑えながら、レンとリズはその注意を監獄塔へ向けさせないために奮戦していた。
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監獄塔の中は薄暗く、錆びた鉄のような匂いが充満していた。それに海里たちは一様に顔をしかめた。
「ひでぇ匂いだな、こりゃ……。生きてる囚人がいるのか、これは……」
海里はラルフの疑問に答えられそうになかった。それほどに死臭を感じられたから。
「これじゃ、捕らえる意味がないんじゃないのか?」
「イディウス宰相が捕らえた囚人を嬲っているって噂で聞いたことあるわ。この感じじゃ、事実みたいね……」
権力の私物化だけでなく、囚人さえも自身の好きに扱っていると聞き、ここに囚われたアルベールも例外ではないと察した。海里たちはすぐに監獄塔内で捜索を開始した。
「外観は高い塔だけど、罪の重い囚人は地下に幽閉されると聞くわ。だから、反逆者とされたアルベール先生は地下牢の何処かにいると思うわ」
ジュノアの言葉に従って、海里たちは地下への螺旋階段を見つけて下っていく。その先でも錆びた鉄の臭気は変わらなかった。
地下牢の通路は、死の匂いと湿気で満ちていた。石畳を踏みしめる音さえ、重く、くぐもって聞こえる。
目につく牢を覗いてみても、既に動かなくなった人影があるだけで、生きている人間はいない。その様子に三人の間へ不安が広がるが、それでも彼らはアルベールの姿を求めて、地下牢が並ぶ通路を進んでいく。
そうして、地下への階段を何度か降りた時だった。
「表の連中は何やってんだよ? こんなとこまで侵入されてんぞぉ」
暗がりの先に二人の傭兵が待ち受けるように立っていた。塔の中にもいるだろうとは言われていたが、表の者たちよりも強いことが、気配だけで伝わってきた。軽薄そうな男傭兵から、印象通りの声が聞こえて、海里たちは一斉に武器を抜いて構えた。
髪をなびかせた、異国情緒あふれる装束を身にまとった男傭兵は、片手にシミターを握りしめていた。その刃は、地下牢の闇と反発するように、冷たく光っていた。
その男傭兵の少し後方、鮮やかな赤髪の女傭兵の姿が見えた。踊り子のような青い衣装を纏い、顔の半分を薄い布で覆っている。服装には似つかわしくないハルバードを構えていた。
「外で戦ってる気配は感じるのですわ。別で動くこの方たちに気づかなかったのですわ」
と、女の傭兵が呟く。
「こんなところに二人だけ傭兵がいるってことは、この先に行かせたくない理由があるってことかしら?」
「まぁ、なんだ。ここにやって来る奴らは、何か捕まえた医者と仲良いらしいから、始末しろとは言われてるぜ。やって来る奴らが本当にいるとは思ってなかったけどな」
ジュノアの問いに軽薄な男傭兵が答える。
「やっぱり、この先にアルベール先生がいるんだ」
「なら、この二人をとっとと倒して先に進もうぜ」
「ええ」
海里たちが戦意を露わにすると、男傭兵が声を上げる。
「じゃあ、俺はそっちの綺麗な女騎士さんを貰うね――!! そっちの男二人はよろしくぅ!」
と、女傭兵の返事も待たずに片手に持ったシミターを振り上げて、ジュノアへと斬りかかっていく。
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「はぁ!? もぅ! あのバカ! 毎度毎度!」
女傭兵は男傭兵に舌打ちすると、面倒くさそうに視線を海里とラルフへ向け、手に握ったハルバードを構えて無造作に踏み込んできた。
その身体からは想像もつかない速さで、身の丈を超えるハルバードが唸りを上げる。横薙ぎの一閃は、海里とラルフの二人をまとめて刈り取ろうとする暴風だった。
二人は同時に後方へ跳び、ハルバードの先端が掠めた石壁が僅かに削り取られ、火花が散る。
女傭兵はそれだけで止まらず、質量を感じさせない速度でハルバードを振り続けてきた。
「二人揃って、攻撃してこないのですの?」
軽やかな声をしているが、どこか獣のような気配が踊り子然とした女傭兵から感じられた。
「抜かせ。様子見してただけだ」
ラルフの吐き捨てるような返事を聞きながら、海里は女傭兵に向かって、左手を掲げて重力で一気に負荷をかけた。その足元の石畳がびしりと音をたてて歪む。
「おやっ!?」
「今だ、ラルフ!」
「おぅ!」
女傭兵の動きが鈍ると、ラルフの握る槍先で炎が渦巻き、その胴めがけて突き入れられる。
だが、女傭兵は海里の重力に抗うことを止め、身体を沈ませて炎槍を躱す。穂先は真上を通り過ぎて空振りに終わる。一連の動きが、野生の獣を思わせた。
そこから勢いよく重力の影響下を抜け出すと、女傭兵は身を沈めた姿勢のまま、ハルバードの石突きで海里の胸を狙って突き上げてきた。
「くっ!」
海里はかろうじて身を捻ってかわす。
穂先だけでなく、柄の一寸までを武器として使ってきた。海里に躱されたと思ったら、薙ぐようにハルバードを振り回し、ラルフへの牽制も怠らない。
ラルフが舌打ちする。
「ちっ、面倒だな……! お前、身体能力だけで俺ら二人と戦い続けるつもりか? それとも魔法を使えないのか?」
ラルフの問いに、女傭兵は一瞬目を瞬いた後、ぶっきらぼうに告げる。
「馬鹿を言わないでほしいですわ。魔法を使ったあとが面倒だから、できれば使いたくないのですわ。ウチを魔法が使えないグランドヴェルクの人間と一緒にしないでほしいのですわ!」
「そりゃ、悪かったな!」
言葉を交わす間も、女傭兵のハルバードは止まらず、長大な間合いそのものが壁になっていた。
海里とラルフが踏み込もうとするたび、穂先が、あるいは重い柄が、二人が連携できないように塞いでくる。どこを突けば相手が嫌がるかを、この女傭兵は肌感覚で理解していた。
海里は重力をかけたまま、剣を握り直して踏み込んだ。ルクスから託されたものと合わせて、この身体には二人分の力がある。ハルバードの長柄を狙って刃を叩きつけると、硬い音が響いて女傭兵の腕が跳ね上がった。
「っ! 力任せですわね!」
女傭兵は押し返してこなかった。跳ね上がった腕をそのまま回して、その勢いに乗せた石突きを海里の側頭へ向けてくる。首をすくめると、頭上を風を裂く音が通り過ぎた。
受けずに逸らし、逸らした力を次の一撃に変えてくる。この女傭兵は、正面から打ち合うことを最初から捨てていた。
そこへラルフが踏み込む。海里が退いた側とは反対の脇腹へ、炎槍が下から伸びた。
「同じ躱し方は二度もさせねえよ」
さきほど躱された突きと、狙う高さが変わっていた。一度読まれた攻め方をそのまま繰り返さないだけの経験が、ラルフにはあった。
女傭兵は舌打ちしながら身を反らす。穂先が衣装の裾を裂き、焦げた匂いが狭い通路に広がった。
海里は内心で驚愕していた。重力で抑えようとしても、この女傭兵はそれを利用して反撃してくる。
狭い通路での真っ向勝負を避けるように動く相手に、埒が明かない。ならば人数差で手早く決着を付けなければと、反対側に立つラルフへ目線を向けると、同じことを考えていたらしい彼から声が飛んできた。
「海里!」
「あぁ!」
海里が女傭兵の右足元を狙って重力をかけ、その踏み込みを一瞬だけ阻む。
その生まれた隙に、ラルフが炎槍で繰り出した刺突が女傭兵へと迫る。
「えっ!?」
半端に体勢を崩された女傭兵は、咄嗟にハルバードを構えなおし、長柄部分で炎槍を防いだ。硬質な音が響き、ぎしぎしと軋んだあと、女傭兵が壁際に後退する。
「まだ来ますの!?」
壁を背にした女傭兵へ、海里が重力をかけながら踏み込んだ。左へ跳ぼうとすれば足元が軋み、右へ流れようとすればラルフの炎槍が先に回っている。逃げ道が一つずつ潰されていく。
女傭兵はハルバードを短く持ち替え、長柄の腹で海里の剣を受けた。受けたはずなのに、踵が石畳を擦って後ろへ下がる。二度目のときには、柄を握る指が痺れていた。
三度目は受けずに、頭を沈めて刃をやり過ごす。そのまま下から振り上げたハルバードが海里の腹を狙ったが、空いた左手でその柄を掴み止めた。
「な、何ですの、この馬鹿力!」
女傭兵が両手で力を込めても、ハルバードは動かなかった。
そこへ横合いからラルフの炎槍が来る。女傭兵は掴まれた柄を軸にして身体ごと回り、穂先を紙一重で見送りながら間合いの外へ抜けた。
抜けた先で、女傭兵は肩で息をしていた。軽やかだった足の運びが、少しだけ鈍くなっている。
戦闘経験が豊富でも、二人がかりで徐々に追い詰めていることを海里とラルフはそれぞれ理解しており、それは女傭兵も同じだった。
(冒険者と騎士。戦い方も違うのに、連携も悪くないですわ。このまま長引けば、いずれ押し切られますけど、あっちのバカは何してるのですわ?)
地下通路での攻防が続く中、女傭兵は味方のはずの男にちらりと視線を向けた。
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通路の反対側では、男傭兵のシミターと、ジュノアの水刃が剣戟を繰り広げていた。
「いいねえ、その真剣な顔。ますます気に入っちゃったよ、女騎士さぁん」
「私はあなたみたいに軽薄な人は嫌いよ。あと、その粘つくような喋り方も気持ち悪いわ」
「うぐはぁ!」
ジュノアの辛辣な返答に、傷ついた様子の男傭兵は、大仰にのけぞって見せるが、どこまでも真剣さが薄かった。
そんな様子に構わずに、ジュノアが再び水刃で横薙ぎに斬り払おうとすると、男傭兵が空いた左手をかざした。その直後、刃とぶつかるようにして、二人の間に砂が舞い上がる。
小さく渦を巻いた砂が水の刃へ食らいつき、その水分を貪るように吸収していく。
ジュノアの剣を覆っていた水の膜は、見る間に力を失う。
「砂魔法……」
「おっと。あんたの水、俺の砂とは相性が悪いみたいだねえ」
男傭兵は笑みを絶やさない。斬り結びながら、まるで酒場で女を口説くような軽さは消えない。
「確かに砂は水を吸うけれど、それも無制限というわけではないのでしょう」
そう話す間にも、ジュノアは新たに生成した水の魔力で攻撃を続行する。剣先から撃ち出した水流が、男傭兵の肩口を狙って飛んでいく。
男傭兵は左手を返し、渦を巻いた砂をその正面へ差し出す。砂は水を吸って見る間に色を濃くし、吸いきれなくなった分が泥になって床へ落ちる。その泥は、そのまま広がっていく。
「あんたが水を出せば出すほど、足元がぬかるんでいくぜ。踏ん張りが利かないだろ?」
言われた通りだった。踏み込むたびに爪先が泥に取られて、身体が思うように前へ出ない。その僅かな遅れの間に、シミターの刃が迫ってくる。
ジュノアは両の脚に水を纏わせた。泥へ踏み込むのではなく、水の上を滑るようにして床を蹴る。
「っと、そうくるのかい。慣れてるねぇ」
距離を詰めたジュノアの剣が、男傭兵の胴を薙ぐ。彼はシミターの腹でそれを受け流しながら砂を撒いて、刃に纏った水を吸わせにかかる。
吸われた分を、ジュノアはすぐに継ぎ足す。継ぎ足した水を、男傭兵の砂がまた吸う。互いに魔力を注ぎ続けるほど、床の泥は厚くなっていった。何度も打ち合ううちに、ジュノアはその砂がどこまで吸えるのかを見定めていた。
「真剣に戦う気がないなら、早くそこを退いて。私たちには先を急ぐ理由があるの」
「そうは言ってもなあ、今回の依頼人のリグリアの宰相さんから、邪魔者は追い払うか、始末しろって依頼受けてるからよ、退くわけにもいかねぇのよ」
軽く嘆息し、返事の代わりに、ジュノアは踏み込んだ。湿って重くなった砂を斬り払い、剣先が男の頬を裂き、銀白色の髪が一房、宙に散った。
「っと、危ねえ危ねえ。……つれないねえ、ほんと」
頬を裂かれてなお、男傭兵は笑っていた。かざした手からさらさらと砂を零し、ジュノアの視界を濁らせ、そこへシミターの斬撃を滑り込ませる。喋りと砂で相手の呼吸を乱して絡めとるような戦い方だった。
それでも、ジュノアの剣筋は乱れない。男傭兵の言葉はまともに相手するだけ無駄と判断した彼女は、ただ間合いを詰め直した。
そんな時、男傭兵はまた軽薄な口調で話しかけてきた。
「水魔法を使うリグリアの女騎士かぁ。お姉さんさぁ、もしかしてお名前はジュノアだったりする?」
「?」
地下牢に降りて来てから、海里たちに名前を呼ばれていないはずだし、勿論傭兵たちに名乗ってもいない。会ったことのない男が自分の名を知っている理由が分からず、ジュノアは片眉を上げ、答えずに黙ることを選んだ。
そんなジュノアの心中など知る由もない男傭兵は尚も喋り続けた。
「俺の知り合いにイザベラって女がいてさ、最近アリーナポリスに帰って来たんだよ。なんか、泣きじゃくってる双子のガキンチョもいたけど。とにかくさ、リグリアでジュノアって名前の水魔法を使う女騎士と戦ったって話してたんだよ。だから、お姉さんがそうなんじゃないかって思ったわけよ」
ジュノアの脳裏にその人物が蘇る。
イザベラ。一度会っただけの賊の副長の女。討伐戦にルカンの群れが乱入したことで、戦いは有耶無耶になり決着はつかなかった。彼女がどこかへ逃げ延びたことは、昏睡から目を覚ました後にラルフから聞いた戦闘の顛末で知っていた。その方角から、恐らくは南部アリーナポリスに向かっただろうとは思っていたが、この軽薄な男傭兵と知り合いとは少し驚かされた。
「そう。それで、私の名前を知っていたのね」
「おお、当たりか! イザベラからは賊にも敬意を払う女騎士とは聞いてたんだよ」
「彼女なりの想いがあるのは伝わってきたから、そうしたまでよ。でも、あなたには必要なさそうね」
「俺には辛辣ぅ!」
言葉を交わしながらも、ジュノアは男傭兵への斬撃を止めない。今はこの男に構っているべきではない。早くアルベール先生を助けないといけないのだから。
「ところで、さ……」
まだ何かあるのか、といい加減、男の軽口に辟易し始めていたジュノアだったが、続く言葉は無視できなかった。
「……その綺麗な銀髪と、すました感じ。いやあ、あんたとは違う人が頭に浮かぶのよ。アリーナポリスの俺らの本来の依頼主のことでさ、リグリアの宰相さんとも付き合いがあってさ、――って名前なんだけど、それも知ってたりする?」
「――ッ!!」
男傭兵の口から発せられた名を聞いて、ジュノアは動きを止めた。よく聞き取れなかったのは、頭が認識することを拒否したからかと思った。それでも聞き間違えではないことは確信していた。忘れることなど一生ない名前だったから。
通路の向こうで響いていたはずの剣戟も、男傭兵の喋る声も、何一つ耳に入ってこない。今しがた鼓膜を叩いた音の並びだけが、頭の中で何度も繰り返されている。
この地下で、こんな男の口から出てくる名前ではない。いや、傭兵がいると分かった時点で予想はできていたことのはずだった。剣を握る手に、自分の意思とは関わりなく力がこもった。
ジュノアの反応を見て、男傭兵が驚いたような反応を見せていた。本当に何気なく言葉にしただけだったのだろう。
「およ? その反応、もしかして俺らの依頼主の事をマジで知ってる? って、え?」
軽薄だった男傭兵の言葉が止まった。 直後、ジュノアの身体から激しい水の魔力が溢れ出す。それは濁流のようにうねりながら、彼女の周囲を覆う空気そのものを激しく震わせて渦巻いていた。逆巻く水流は互いにぶつかり合い、四方に水飛沫を撒き散らす。
男傭兵の視界を遮る飛び散る冷たい水飛沫の向こう側、微動だにせず佇むジュノアの瞳は、ただ深く、氷のように冷たく澄んでいた。その眼差しに宿る、言葉にならないほどの悲しみと純粋な殺意に、男傭兵はただ喉を鳴らすことしかできなかった。