朝は冷たい。
壁の中の空気は、いつも同じ匂いをしている。石、布、磨かれた木。
窓の外では鳥が鳴く。鳥は自由だと言うけれど、ここの鳥は壁を越えない。
鏡の前に座ると、メイドが髪を梳く。
私の髪は黒い。黒すぎて光を受けると青く見えた。
この家には、私と同じ黒を持つ人は誰もいない。
「お嬢様。今日はリボン、白にいたしましょうか」
白は無難だ。無難は安全。
私は微笑んで、頷く。
「白がいいわ。それは何?」
私は本当は知っている。絹。刺繍。南の街から来たもの。値段。流通。
でも知っている顔はしない。
無垢は武器だ。武器は見せない。
「まあ、興味津々なのね。これは――」
説明が始まる。私は相槌を打つ。目を丸くする。少しだけ身を乗り出す。
そうすると相手は気分がよくなる。気分がよくなると、口が軽くなる。
ここではそれだけ。
日々は退屈だった。
この家は大きい。天井が高く、廊下が長い。音が遅れて戻ってくる。
私の部屋は広く、窓は大きい。庭が見える。
庭は完璧に手入れされている。雑草は許されない。
花は決まった位置に咲く。
――私みたいだ。
私は自分の血が稀少なことを知っている。
主人は私を飾った。自分の地位を上げるために。
客が来る日はドレスが増えた。
宝石が増える。笑顔が求められる。
私は良い子として座り、良い子として笑う。
良い子は褒められる。褒め言葉はご褒美みたいに与えられる。
「可愛いxxx。今日はお出かけだ」
「貴方はほんとにいい子ね」
「お嬢様は俺らの癒しなんです」
主人の手は私の頭を撫でる。
撫でる手は優しい。優しい手は、正しいとは限らない。
私はその区別を、物心ついた頃にはもう知っていた。
屋敷では誰も怒鳴らない。
叩く音もしない。
ただ、必要な部分だけが欠けている。
たとえば、両親の話。
「ご両親はね……聞き分けがなかったの」
「……貴方のご両親は勇敢だったのよ」
「……ここの主人を信じるな」
言う人によって違う。
違うのに、みんな同じ顔をする。遠くを見る顔だ。
私はその顔が出た瞬間を、見逃さない。
わざと首を傾げる。
わざと声を明るくする。
「ねえ、今日の予定はなぁに?」
「あの人は何をしているの?」
「私、こういうものが欲しいの!」
質問は、扉だ。
扉は、開け方次第で中が見える。
執事は予定表を見せてくれる。
メイドは市場の噂を喋る。
主人は機嫌が良ければ、自分の正しさを語る。堂々と。誇らしげに。
私はどれも拾う。反芻する。組み直す。
全部が正しいわけじゃない。
都合のいい言葉が混じる。偽証もある。欺瞞もある。
でも、嘘には癖がある。嘘は繰り返すと形が歪む。
私はそれを、ゲームとして処理していた。
退屈を紛らわせるために。
ある日、主人の書斎で、私はその歪みを見つけた。
いちばん外の壁、ウォールマリアが破られた日だった。
いつもは厳重な扉が少しだけ開いていた。
閉め忘れ。あるいは、わざと。
机の上に、本が積まれていた。
タイトルのない本。
楽しみは後。
何故か隣に置かれている、絵本を開く。
子ども向けの、よくある物語。巨人。壁。
私はそのページを、もう何度も読んだはずだった。
なのに。
ページの端に、別の文字がある。
薄い鉛筆で書かれた線。小さな計算。
年号。数。人口。
子どもの絵本には要らないはずのもの。
私は唇の裏側で数字をなぞる。
数字は嘘をつきにくい。
だからこそ、嘘をつく時は、整合性をごまかす必要がある。
私は気づいた。
違う。見ようとしていなかっただけだ。
――この国の歴史は、おかしい。
語られている発展の速度。
人間ができうる限界。
資源の量。労働の分配。
壁の内側だけで成立するはずのない数字が、当然のように書かれている。
私が知っているのは、断片。
与えられた絵本。盗み見た主人の本。
メイドや執事がうっかり落とす言葉。
主人が堂々と宣う言葉の節々。
賢い人間は長生きしない。
残るのは、従順で、口の軽い者ばかり。
……なぜ?
ひとつの形になりかける。
形になりかけた瞬間、人は怖くなる。
怖いのに、口角が上がりかけた。やめるのが面倒だった。
目は、逸らせない。
「……気の毒に」
背後で声がして、私は本を閉じた。
振り向くと、若い使用人が立っていた。手に洗濯籠を抱えている。
目が合った瞬間、彼の顔色が変わった。
「……許してくれ」
「……仕方なかったんだ」
声が震える。
何に対しての謝罪かは言わない。言えない。
でも、その謝罪は私に向いている。私の血に向いている。私の存在に向いている。
私は笑う。可愛く。何も知らないふりで。
「どうしたの? 顔色が悪いわ。大丈夫?」
彼は、何も答えない。
籠を抱え直し、逃げるように去っていく。足音が廊下に吸われる。
残るのは、紙の匂いと、私の中に沈む重たいもの。
――答え合わせがしたい。
壁の向こうに、答えはきっとある。
その確信だけが、妙に鮮明だ。
――今の私では、永遠に辿り着けない。
私は鏡を見る。
鏡の中の私は、飾り物みたいに整っている。
黒い髪。黒い目。壁の中で飼われる、純東洋人の生き残り。
私の血筋、巨人、壁、不完全な記憶。
推測はあった。
主人だって答えを知っているのかもしれない。
でも、それじゃつまらない。
どうせなら、皆に感じさせたかった。
私と同じ世界を。この世界の矛盾を。
目を逸らさせなんかしない。
逃げられないように鮮烈に。
このつまらない平和な世界から、混沌とした世界へと落としたい。
人は死ぬかもしれない。
私も死ぬかもしれない。
そんなの、どれだけ賭けたっていい。
――だって、楽しそう。
私は私の為に、世界を変えよう。