風が乾いている。
ガスの匂いが鼻の奥に残る。
ワイヤーが鳴く。金属が擦れる。木の皮が裂ける。
身体の中のどこかが、ずっと薄く震えている。
私は飛ぶ。
アンカーを刺して引いて、回して移る。
教わった通り。頭で組んだ通り。
才能がなくたって、訓練でここまでは来れる。
――ここまでは。
イレギュラーは突然だ。
前方で同期の訓練生のエリスが失敗した。
バランスを崩す。
ワイヤーの角度が合わずに、体が遅れた。
その遅れが、私の軌道線上に入ってくる。
私は回避する。
これくらいのミスはたまにある。
体を捻り、アンカーを一度抜き、別の木に打ち直す。
回避はできる。回避自体は。
落ちていくエリスの軌道を見る。
速度、角度、距離、足の動き。手が遅い。
――助けなくても大怪我はしない。
骨折はするかもしれない。
でも死なない。死にそうな落ち方じゃない。
助ければ貸しは作れるけれど、貸しを作るほど助ける価値がある相手でもない。
そう判断した。
その瞬間だった。
予測が外れた。
エリスのワイヤーが、変な張り方で木に引っかかった。
引っかかったせいで、落下が途中で跳ねた。
身体が弾かれ、落ちる先が変わる。
変わった先が
――私の避けたはずの軌道へ戻ってくる。
「ジラ!!」
悲鳴みたいな声。
――呼ばれた。
呼ばれた瞬間、頭の中の計算が一段遅れた。
無視するわけにはいかない。
助け――られる。
そう思った。
思っただけだった。
私は腕を伸ばし、ワイヤーの角度を変え、エリスの方へ寄せる。
寄せるために、もう一段ガスを噴かす。
距離を詰める。詰める。詰め――
――風向きが変わった。
――視線がズレる。
遅い。
声をかけられた時点でもう遅かった。
衝撃が来た。
木でも地面でもない。人間の塊がぶつかってくる衝撃。
視界が反転し、喉の奥が鳴る。
肺の空気が一気に抜ける。
一瞬の浮力の後、重力がかかる。
音が、遠ざかる。
――私、死ぬのか。
落ちる。
知っているのに、身体が追いつかない。
頭が理解していても、筋肉が動かなければ意味がない。
腰に衝撃が走った。
「……っ!」
息が詰まる。喉が潰れそうになる。
それでも体が落ちるのが、止まった。
誰かのアンカーが、私の装置に噛んだんだ。
視界の端に、ジャンの顔が見えた。
眉が寄っている。口が開いている。必死の顔。
「――ジラ!!」
声が近い。
近いのに、遠い。
耳の中でぼやける。
私は宙吊りになっていた。
ワイヤーだけが私の体を支えていた。
ジャンが咄嗟に助けてくれた。
技能の差だな、と宙吊りの状態でどこか冷静な頭が言った。
人が徐々に集まってくる。
地面に落ちたエリスの方へ。
大怪我の方へ。
声が飛ぶ。誰かが名前を呼ぶ。教官の怒号。
ジャンは私をゆっくり引き上げる。
私は呼吸を整えようとして整わなかった。
喉が熱い。肺が痛い。指先が震える。
理性が言う。
――いい加減に理解しろ。
――私は咄嗟の行動が苦手だ。
――頭で考えることと、実際に動ける動きは違うんだ。
――他人ができることを、自分もできるなんて思うな。
分かっている。
できていなかった。
原因とは別に、頭が別の方向に流れていく。
――ジャンって、こんなかっこよかったっけ?
錯覚だと理性が唱える。
吊られてた。死にかけた。助けられた。
今、それと関係ないよね?
死にかけたことに、脳が勝手に意味を作っただけ。
そんなの恋じゃない。
意味はない。
……なのに。
「……無事か?」
ジャンが言う。
声が近い。近すぎる。
私は返事ができない。
声が出ない。
今声を出すと、何を言うかわからなかった。
ジャンは地面のエリスを見た。
痛ましそうな顔をする。
その視線が腹立たしい。
エリスなんて見ないで、私を見てほしい。
そんな思考に、理性が待ったをかける。
でも。
――胸が締め付けられる。
これは、確かに頭がおかしくなりそうだ。
今、私がしなければいけないことはなんだ。
エリスが死にかけ、私が失敗した。
ジャンが私を助けた。
まずは言葉だ。
正しい言葉を置かなければ。
「……ありがとう。助かった」
声は思ったよりか細かった。
情けないくらいに。
ジャンが私を見る。
少しだけ、ほっとした顔。
「……あぁ」
でもすぐ、下を見る。
「気にすんなよ。あれは、仕方なかった……」
私に気を使っている。
責めない。
ジャンなら――才能がある人なら助けられただろう。
そして、私にも助けることはできた。
できたのに、しなかった。
しなかったのに、途中で動いた。
一番中途半端な行動。
私の判断ミス。
それを責めない。
私は会話と、思考が全然噛み合っていないまま、平然と続ける。
「でも、私が……私が動けなかったから……」
今やるべきこと。
戸惑う。落ち込む。怖がる。
人はそうなる。そうなれば周囲は安心する。
計算はできる。
だからその形を出す。
ジャンの顔が歪む。
耐えきれない、みたいに叫んだ。
「……じゃあなんで! 動いたんだよ!
お前じゃ無理だったことくらい、分かるだろ!!」
体が一瞬固まった。
ジャンが私の肩を掴んで揺らす。
掴む手が痛い。痛いのに、痛みが遠い。
分かる。
怒ってるんじゃない。
心配してる。真剣に。なんで、と。
……ジャンはミカサが好きで、私は似た黒髪を持っているから。
近寄られて、錯覚して戸惑って。
――私を好きな訳じゃない。
ジャンはお人好しだ。
ここにいたのがエリスでも、怪我を負ったのが私でも、ジャンは助けた。
同じように声をかけただろう。
……その場合は私は地面に置き去りだ。
胸に痛みが突き刺さる。
でも、表に出すわけにはいかない。
私は俯いた。口が勝手に開く。
止められない。
止めるべきなのに、止められない。
「……だって、私、いらないと思ったし」
言葉が漏れる。小さい声。
「でも呼ばれたから、やらなきゃって思って」
言い訳だ。
意味はない。
ジャンに聞かせてどうする。
やめろ。
「できると思ったんだ。できなかったけど」
喉が勝手に動く。
身体が勝手に白状している。
「私は能力足りてないんだ。どうせ付け焼き刃なんだから」
……何を言ってるんだろう。
こんなの、弱音でも本音でもない。
「……おい。ジラ?」
ジャンの困惑した声。
困惑が、妙に優しい。
私は顔を上げた。
ジャンが――数割増しでかっこよく見えた。
心配そうで、真剣で、汗でぐしゃぐしゃで。
それが、変に綺麗だ。
私は笑ってしまった。
笑うべきじゃない。今じゃない。
なのに、笑いが出た。
「……ジャンって、かっこいいね」
言った瞬間、頭の中が静かになった。
静かになって、すぐにうるさくなった。
私の判断ミス。
ジャンに助けられなければ、私はこのまま死んでいた。
一歩間違えれば死ぬ世界。
怖い。
怖いのに――興奮する。
生きているのが、急に具体的になった。
ジャンは私を助けた。
私はジャンに借りができた。
返す宛のない借り。
意図して借りたものじゃない。
だから余計に、気になって仕方なかった。
そして気づく。
ジャンを相手にすると、私の思考は混乱する。
盤面が歪む。
私が私のままでいられない。
だから今は放置するしか、ない。
◇
その日の後。
私は、ジャンから遠い席へと近づいた。
「ねぇ、フロック。隣いい?」
フロックが嫌そうな顔をする。
「はぁ? 勝手に座ればいいだろ」
悪態が今は、心地よかった。
――ジャンの視線が後ろから刺さった気がした。