食堂の喧騒。
笑い声と食器の擦れる音、スープの薄い匂い。人の体温が天井に溜まって、空気がぬるかった。
フロックの隣が空いているのを見つけて、今日も私はそこへ滑り込んだ。
椅子が少し鳴った。
フロックは一瞬だけこちらを見る。呆れたみたいな視線。
それだけで十分だったのに、口まで開いた。
「……お前、最近やけに俺の隣座るよな」
言われた瞬間、視線を逸らしたくなる。
逸らした。ほんの少しだけ。
だってここは楽だ。
逃避だって、自分で分かっててここにいる。
「……嫌?」
声色は揶揄う形にした。軽く。
でも多分、からかってるだけじゃないことはバレている。
フロックは口の端を引いた。
「……嫌なら、座らせてねぇだろ」
吐き捨てるみたいに言って、分かりやすくため息をつく。
そのまま食事を再開した。パンをちぎって、口に放り込む。乱暴な手つき。
――ジャンを避けている。
その理由を聞かれたくない。
ジャンだけじゃない。ジャンの周りも避けるようになった。
あの事故のあと、勘の鋭い人や、賢い人の視線が少し変わったのが分かった。
何かあった、と思われるだけで面倒だった。
違う。面倒は、嫌いじゃない。
終わらせたくないと思ってしまう程度には。
自分の中にまだこんなに知らないことがあるって、毎回思うから。
避けるのは、自分を保てる気がしないから。
フロックはその点、見たいものだけを押し付けてくる。
貴族だとか、才能だとか、努力だとか。
分類を投げつけて、世界を簡単にする。
あまりいいことじゃない。
でも、フロックは私から逃げない。
私も楽。
だから、今はここがいい。
――背中に視線が刺さる感覚がした。
私は顔を向けない。
向けたら、変わってしまうのが分かるから。
……でも、そろそろ何とかしなきゃいけない。
訓練兵団の終わりが近づいてきたから。
配属。志望。現実。逃げられない話。
フロックが、話の流れみたいな雑さで口を開く。
「ジラも駐屯兵団だろ?
十位以内なんて無理だもんな」
自虐を混ぜた皮肉。
その皮肉で、自分を守る癖。
続けて、もっと分かりやすい棘。
「それとも、親のコネで憲兵団に入れたりすんのか?」
わかりやすい見下し。
わかりやすいから、私は安心して笑える。
フロックは一瞬だけ眉をひそめる。
私は彼の反応を確認してから、口を開いた。
「――私、調査兵団希望だよ?」
言ってなかったかな?
言ってないか。必要がなかったから。
フロックの動きが止まった。
匙が空中で静止する。咀嚼も止まる。
「……は?」
口から漏れるみたいな一音。
周りはいつも通りざわめいている。
私の言葉を聞いていたのは、どうやらフロックだけらしい。
……ジャンは遠い。聞こえてないだろう。
それが少し面白くなくて、私は髪の毛先に触れた。
黒い髪が指に絡む。ほどける。
「私、そのために来たんだもの」
自分の声が、思ったより淡々としていた。
言葉はもっと熱を持つと思っていたのに。
「中央なんて、つまらないところ。
行ってどうするのよ」
中央。
壁の中の中心。整頓された檻。
綺麗すぎて、つまらない。
ケニーの下につけば、知識は増えるだろう。
国の正解にも近づけるだろう。
ケニーは恐らく、知っている。
彼が私に語った夢の断片は、そういう匂いがした。
――私は正解が知るのが目的じゃない。
それに、推測はもうついている。
この目で見たい。
できることなら、壁の向こうを。その先を。
そして、知ってほしい。
人類に。
自分の信じた世界が壊れる瞬間を。
――何度でも。
その考えが浮かぶと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
嫌な熱じゃない。
生きている感覚に近い熱。
私がそこまで思考を飛ばしている間に、フロックがやっと動き出した。
「……調査兵団って、お前……死ぬ気か?」
半笑い。冗談にしたい声。
そうしないと、現実になるから。
「死ぬかもしれないね」
死ぬならそれでいい。
私は私のしたいように生きただけだ。後悔は、たぶんない。
私は微笑む。いつもの形に戻して。
「フロックは、私のこと心配してくれるんだ?」
言いながら、自分の言葉が少しだけ可笑しかった。
随分懐いたな、と思う。
……私が、かもしれない。
フロックは眉根を寄せたまま、吐き捨てる。
「貴族がどうなろうと、俺の知ったことじゃねぇだろ」
――私、別に貴族じゃないけどね。
言いたくなった。
言ったら面倒だと分かってる。分かってるのに、舌が動く。
私の悪い癖。
その時したいことを優先する。
楽しそうだから。
面倒ごとは、あとからどうにでもなる。
私は息を吸って、口を開いた。
音が出る、その直前に――
「……はぁ!? おい、やめろって!!」
怒鳴り声が食堂のざわめきを割った。
どたどた、と乱暴な足音。
誰かが誰かの背中を押し出す気配。
椅子が擦れる音。
「ほら行けよ、ジャン」
「男なら当たって砕けておけ」
「……ジャン、ちゃんと話せば伝わるよ」
聞き慣れた声が混ざる。コニーと、ライナー。マルコ。
ベルトルトの「……今じゃなくても」が遅れて届く。
そして――押されて流されて、ジャンが現れた。
顔が赤い。
怒ってる赤じゃない。追い詰められた赤。
目が泳いで、逃げ道を探して、結局どこにも逃げられていない目。
ジャンは私とフロックの間を見て、次に私。
それで、さらに焦ったみたいに息を吸って、
――そのまま口を閉じた。
閉じた瞬間、喉仏が上下する。躊躇だ。
フロックが苛立ったように鼻で笑う。
「用があるなら、はっきり言えよ。
お前、エレン相手にはよく喋るくせにな」
ジャンの眉がピクリと動いた。
……ああ。
これ、私が作った状況だな。
私はフロックへ視線をやらないまま、言った。
「フロック。食べてていいよ」
命令じゃない。
ただの提案。提案の形をした、お願い。
フロックは舌打ちする。
「……チッ。貴族様の命令かよ」
そう言いながら視線は皿に戻す。
従ったのが、私に対する慣れの証拠のようで少し可笑しい。
ジャンが私に視線を戻す。
躊躇って、目をうろつかせて、また戻って。
ようやく言う。
「……避けてんのか?俺の事」
……どうしようか。
正常な判断なんて、できる気がしなかった。
――あぁ、楽しいな。