――ジラが言う。
「――好き」
その一言で、全部止まった。
風の音が消えた。
食堂のざわめきも、遠い。
俺の鼓動だけが、耳の内側で暴れる。
好き?
何が?
俺が?
本気か?
冗談か?
また遊びか?
――いや。
今の目は、遊びじゃない。
それが怖い。
怖くて、腹が立った。
腹が立って、口が開いた。
「……ふざけんな」
声が低い。
自分でも驚くくらい低かった。
ジラが笑わない。
瞬きもしない。
逃げない。
俺の中で、もう一段怖さが増えた。
逃げてくれたら、俺は楽だったのに。
「……やめろ。そういうの」
指がほどけない。力が入らない。
それが怖くて、俺は強く振りほどいた。
今度はほどけた。
ほどけた瞬間、指先が冷えていく。
「……やめろよ。俺、そういうの……受け止めらんねぇ」
受け止められない。
本当は受け止めたい。
でも受け止めたら、俺の人生が変わる。
俺はそれを選ぶほど強くない。
だから、こうするしかなかった。
「……俺は、遊びに付き合う気ねぇ」
言った瞬間、最悪だと思った。
遊びって決めつけたのは、ジラを守るためじゃない。
俺が傷つきたくないからだ。
俺は一歩引いた。
風が一段冷たくなった気がした。
ジラの顔が読めない。
読めないのが怖い。
怖いから、俺は続けてしまう。
「……それに、俺は……」
ミカサが――。
言いかけて止めた。
もう違う。分かってんだろ。俺。
俺は口を荒くする。
「……とにかく、やめろ。もう」
言い切って、背を向けた。
頭を冷やせ。
からかわれてる。分かってる。ジラはそういう奴だろ。
歩き出す。
足が重い。
膝が笑いそうになる。
背中に視線が刺さる気がした。
振り返りたい。
振り返ったら終わる。
俺は振り返らないまま、食堂へ戻った。
◇
俺は入口で一瞬だけ立ち止まって、息を整えた。
整わない。喉が乾いてる。唇も。
止めなかったら、キスされてた。そんな距離だった。
――普通の顔。普通の歩き方。
そう思って歩く。
当然みたいに見つかった。
「おっ、帰ってきた!」
コニーが真っ先に立ち上がって、肩を叩こうとしてくる。
俺は半身で避けた。
「……うるせぇ」
声が低い。自分で分かる。
低くなるのは、落ち着いてるからじゃない。逆だ。
ライナーが眉を寄せる。
何を気づいたのか視線だけは妙に鋭い。
「で?どうだった?話せたか?」
話せた?話せたって言うのか?
あれは。
俺は元の席に腰を下ろした。
下ろした瞬間、膝が笑ってるのが分かった。腹立つ。
「おいおい、顔赤いぞ」
コニーが嬉しそうに言う。
嬉しそうに言うな。殺すぞ。
「外寒かっただけだ」
即答。
言い切ったのに、声が少し掠れた。止めろ。
「寒かっただけでその顔になるかよ」
「……無理に言わせなくても」
遅い。優しい。
優しいのが今は鬱陶しい。
俺はパンを掴んで、無理に口に入れた。
噛む。味がしない。
飲み込むのに時間がかかる。喉が狭い。
「で? ジラはどうだったんだ?」
コニーが畳みかけてくる。
「……別に」
「別に、って」
マルコが言い直すみたいに首を傾げた。
「うまくいかなかった、ってこと?」
うまくいかなかった。
その言葉が、俺の腹の底を冷やした。
――うまく、いくとか、いかないとか。
「……知らねぇよ!」
俺は強く言いすぎて、すぐに後悔した。
後悔したのに、引っ込められない。
ライナーが肩をすくめる。
「……まあ、いいさ。お前が言いたくないならな」
言いたくない。
言いたくないんじゃない。言えない。
コニーがまた余計なことを言う。
「なんだよ。キスでもされたか?」
――心臓が跳ねた。
跳ねた瞬間、ライナーがコニーの後頭部を小突いた。
「黙ってろ、馬鹿」
――キスじゃねぇ。
「……何もねぇよ」
俺は吐き捨てた。
吐き捨てたのに、手の甲が熱い気がした。
ジラの唇の感触が蘇って、頭を振った。
ライナーが俺を見逃さない目で見てる。
「……ジャン。お前、今夜はもう寝ろ」
命令じゃなくて、退避。
それが余計に腹立つ。優しさが腹立つ。
「寝れるかよ」
言い返しながらも立ち上がる。
椅子が鳴る。やけに大きい音。
マルコが慌てて言う。
「ジャン、待って。僕ら、からかうつもりじゃ――」
「分かってる」
分かってない。
でも分かってるって言わないと、俺がガキになる。
歩き出すと背中で、コニーが小さく言うのが聞こえた。
「え、マジで何あったんだよ……」
ライナーの声が続く。
「……ほっとけ。今は追うな」
俺は食堂を出ようとして、視線が勝手に探す。
――ジラ。
どこにもいない。
いないのに、目が探す。
フロックと目が合う。
俺は瞬間目をそらす。
俺は唇の内側を噛んだ。
味がしないはずの口に、鉄の味が広がった。
◇
男子部屋に戻ると、まだ人はまばらだった。
俺は自分の寝台に潜り込んで、カーテンを乱暴に引いた。
布が落ちる音で、世界が少しだけ狭くなる。
喧騒が遠のいたはずなのに、心臓だけがまだ外で暴れている。
俺は背中を壁に預けて、息を吐いた。
何も軽くならない。
喉が乾いて、舌がざらつく。
制服のまま寝転ぶ。脱ぐ気にもならない。
手が、勝手に視界に入った。
右手の甲。
さっき、そこに――
「……」
思い出そうとした瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
熱い。腹が立つ。焦る。全部いっぺんに来る。
ジャンは歯を食いしばって、手を握りしめた。
(違う。何もねぇ。あれは、ただ――)
ただ、なんだ。
言い訳が形にならないまま、指先がほどける。
手の甲が、妙に白い。
そこだけ、空気の温度が違う気がする。馬鹿みたいに。
「クソ……」
吐き捨てて、顔を背ける。
背けたのに、手が動いた。
自分の意志じゃないみたいに、手の甲が口元へ上がってくる。
その動きに気づいて、俺は一瞬止めた。
止めたくせに、止めきれない。
唇が触れる直前で、ためらう。
触れたら終わる。
触れたら、認めることになる。
「……は?」
自分にキレるみたいな声が漏れた。
何やってんだ、俺。誰だよ、今の俺。
でも、もう遅い。
唇が、手の甲にかすった。
ほんの一瞬。
キスって言うほどでもない。ただの接触。
触れただけなのに、頭の中がじわっと騒がしくなる。
ジャンは勢いよく手を引っ込めた。
「……っ、何してんだ、俺」
低い声で吐き出す。怒鳴るほどじゃない。怒鳴ったら誰かに聞かれる。
聞かれたくない。絶対に。
手を見つめる。
手の甲が変わったわけじゃない。何もついてない。跡もない。
なのに、そこにある。
思い出す。
指が絡まった感触。
近い息。
自分の手が掴まれたまま、ほどけなくなった瞬間。
手の甲に落ちた、軽い音。
チュッ。
「……っ」
喉の奥が詰まる。
ジャンは乱暴に髪を掻いた。爪が頭皮に引っかかる。
(遊びだ。あいつの。俺は……)
俺は、何だ。
ジラは、近い。
触れた。触れられた。熱がある。
ずるい。怖い。
ジャンは立ち上がって、部屋を二歩だけ歩いて、また戻る。
自分の足音がうるさい。
「寝ろ。寝ろ。寝ろ」
言い聞かせるみたいに呟く。
ベッドに倒れ込む。顔を枕に押しつける。
――なのに。
口の端が、勝手に手の甲の感覚を探す。
ジャンは顔を上げて、しばらく天井を睨んだ。
睨んでも、消えない。
「……クソ」
もう一回だけ。
確認するだけ。
そう言い訳を作って、手を持ち上げる。
今度は、さっきより迷わない。
迷わないのが、もっと最悪だ。
手の甲を口に当てて、今度は少しだけ長く触れた。
温度が、戻る。
戻った気がする。
その錯覚が、気持ち悪いくらい安心を連れてくる。
すぐ離す。
離した瞬間、胃が縮む。
「……俺、どうかしてる」
声が震えた。
情けない。情けなくて、腹が立つ。
ジャンは手を握りしめて、布団の中に押し込んだ。
手を隠すみたいに、胸の下へ。逃げ場を作るみたいに。
目を閉じる。
閉じても、あいつの声が残ってる。
――好き。
「……言うなよ、あんなの」
誰もいないのに、誰かに文句を言うみたいに呟いて、
ジャンはようやく、浅い息をひとつ吐いた。
カーテンは閉まってる。
その外から、ざわめきが戻ってきた。