ジャンに手を振り払われた。
嫌われたわけじゃない。
あれは拒絶じゃなくて、制止だ。追い詰めすぎた。
――失敗した。
いつもなら気をつけている。
相手の逃げ道を残す。逃げ道があるうちに追い詰める。逃げ道がなくなった瞬間に、相手は暴れるから。
分かっていたはずなのに。
私は、振り払われた手を握り込んだ。
掌に、指に残る熱が、しつこく消えない気がする。
心臓がまだうるさい。
興奮しているのが分かる。
それが気持ち悪いのに、嫌いじゃない。
「――好き」
さっき口に出した言葉が、喉の奥にまだ引っかかっている。
好き。誰にも渡さない。
失敗した。
でも、大丈夫。
他に取られなければ、それでいい。
外の冷たい空気が肺に刺さって、少しだけ頭が戻る。
食堂のざわめきが遠い。
遠くなるほど、自分の脈が大きくなる。
ジャンはもう戻ったかな。
私はざわめきが聞こえないくらいになった後、ようやくその場を離れて、食堂へ戻った。
◇
食堂にいる人はもうだいぶ減っていた。
残っているのは、遅い組か、話を切り上げられない組か。
……?
フロックが、まだ同じ席に座っていた。
「あれ? フロック、まだ食べてたの?」
私はいつも通りの顔を貼って、いつも通りの声を出した。
フロックは席に座ったまま、こちらを見て、露骨にため息をついた。
「……はぁ。心配して損した」
呆れた口調のくせに、目だけはこっちを測っている。
フロックは残っていたパンを口に放り込んだ。
それで最後。わざわざ私が戻るまで残していたみたいに。
「そういうところ、変に律儀よね」
私は残したままの自分のトレーの位置に座った。
残ったスープを飲む。ぬるい。
ただ栄養を詰め込む作業。気持ちを落ち着かせる作業。
食堂にはもう人が少ない。
ジャンも、ジャンの周りもいない。
視線も、ない。
フロックは食べ終わっても席を立たなかった。
肘を机に置いて、顎を少し突き出す。
「……で、どうだったんだ?」
「ん? 気になるの?」
「そりゃ気になるだろ。どうせお前がなんかしたんだろ?
ジャン、すげえ顔してたぞ」
優越感。
成績優秀者の情けない瞬間を拾って嬉しがるやつの言い方。
……でも、完全にそれだけでもない。
私にその態度は、心配してたって言ってるのと同じだ。
すごい顔。
どんな顔だったんだろう。
「……逃げられちゃったのよね」
逃げた。
そう。ジャンは私から逃げた。
負けそうになったから。
プライドが高い。可愛い。
胸の痛みは、勉強代だ。
恋をしてる脳内は、制御が難しい。
理性が普段の道を歩けなくなる。
フロックは鼻で笑うように嘲る。
「……振られたってことか?」
「そうかもね」
私は少しだけ笑って食事を進めた。
フロックは無言で私を見る。
黙るのはまぁまぁ珍しい。
私は首を傾げる。
「どうかしたの?」
フロックは眉を寄せたまま言った。
「お前、本当にあれが好きなのか?」
「そうらしいわね」
「らしいって……自分のこと分かんねぇのかよ」
分かっていたら、こんなに楽しくない。
「分からないの。
だから今、とても楽しいと思う」
フロックが鼻で笑う。
「へぇ……」
それから、思い出したみたいに付け足した。
「貴族と平民の恋ってやつ?
憧れとかで盲目なんだろ」
……ああ、そういえばそんな話をした。
分類で世界を簡単にする方法。
食堂の端の方で、食器を集める音がした。
でもここには、もう誰もいないに等しい。
私はフロックに少しだけ近づいた。
近づくと、フロックの肩が僅かに硬くなる。
でも、逃げない。
意図が分かったのか。
それとも、逃げるのが面倒なのか。
私は耳元に口を寄せる。
息が触れる距離で、囁いた。
「私、貴族じゃないわ」
言ってから、フロックの顔を見る
フロックの目は、一瞬だけ止まった。
でもすぐに、疑う目になる。
その疑いが、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
「信用ないのね、私」
「お前の普段の姿見て、信じろって方が無理だろ」
正しい。
正しいから腹が立たない。
私は、微笑んだ。
貴族のように。貴族が喜ぶ笑み。
自分の顔を道具に戻す、笑み。
「飼われてただけよ?
名前も、経歴も、全部借り物。造り物」
フロックの動きが止まる。
咀嚼するでもなく、飲み込むでもなく、固まったみたいに。
――効いた。
私は声を落としたまま、釘を刺す。
「誰にも、言わないでね?」
お願いの形。
でも、これは契約だ
フロックは舌打ちしそうな顔で、でも舌打ちはしなかった。
「……お前、ほんと面倒くせぇ」
「うん。知ってる」
私はスープをもう一口飲んだ。
ぬるい。
それでも、さっきよりは飲み込みやすかった。