外はまだ暗い。
誰かの身じろぎだけがたまに響く。
目が覚めてしまった。
私は天井を見る。木の梁。薄い埃。規則正しい影。
ここには矛盾がない。矛盾がない場所は退屈だ。だから私は矛盾を並べる。
線は繋がない。
繋げた瞬間答えに酔って、見落とすから。
答えを出すのは最後でいい。
……最後じゃなくてもいい。
目だけを閉じて、思考へと潜る。
◇
最初に浮かぶのは、屋敷の書斎の匂いだ。
紙とインクと、磨かれた木。
子ども向けの絵本に数字が書き込まれていた。
年号、人口、資源、流通。
あれが異常なのは「数字がある」ことじゃない。「数字が必要だった」ことだ。
数字は嘘をつきにくい。
嘘をつく側は、数字を整え続けるしかない。
記録が始まった年がある。
そこから先は滑らかで、そこより前は、皆が同じ顔になる。
一枚しかない過去は、過去じゃない。ただの印刷物だ。
誰が刷った?
主人か、主人の上か、もっと上か。
優先度は低い。今の私にそれを確かめる手段が少ないから。
◇
壁が破られた日。
巨人は外から来た。
来て、壁の中に消えた。
ここが一番気持ち悪い。
巨人は目立つ。目立つものが消えるには、隠れ場所が要る。
隠れ場所があるなら、壁の中には混ぜ物がいる。
混ぜ物は巨人だけとは限らない。
巨人を動かす側。巨人を通す側。巨人を隠す側。
どれが正しいかはまだ分からない。
考えるべきなのは――。
二度目も起きる可能性。
二度目は相手が上手くなる。こちらは慣れて油断する。
次はないと信じたい人間が多い時ほど。
◇
ケニーの言葉。
あの人は冗談と本音が近い。
それでも一貫している思想というものは、漏れるものだ。
――人類への卑下。
壁の中の人間全体を。
まるで上位種を知っているかのように。
巨人でもない。人間でもない。
別種があると仮定する。
ケニーは、別種になる夢を見ている。
夢というより、手触りのある目標に見える。
――人間は別種へ至れる可能性が高い。
根拠は薄い。
でもこの世界は、既に根拠の薄いことで溢れている。
真実に近いことがある。
◇
中央憲兵団の仕事。
国は芽を摘む。
「発展しそうな知識」
「賢い天才」
思想と技術の流布を嫌う。
なぜ嫌う?
候補はいくつもある。
――巨人を簡単に殺されたくない。
――壁の外に希望を持たれたくない。
――統治の正当性を保ちたい。
――人が外に出ることで、秩序が壊れるから。
違うかもしれない。
でも、国が恐れているものは確実にある。
そして、私は泳がされている。
こんな簡単な成りすまし、バレないわけがないのに。
悪い兆候じゃない。むしろ面白い。
理由があると考えるなら。
国は「人が自分で考える状態」を嫌っている。
そして私の目的は混乱。
この国の上は、馬鹿じゃない。
私は先に動いた方が良さそうな気がする。
……これは勘だな。
◇
血筋。種族。
東洋人という種類が残っている理由。
種族は混ざる。
それなのに、なぜ私は純血として残っている?
私は飼われていた。飾られていた。希少として扱われていた。
希少は価値だ。価値は管理対象。
管理する理由は、見栄だけじゃない。
見栄だけなら、もっと雑でいい。
綺麗な檻を作る必要はない。
この世界に、人種を分ける意味がある。
意味があるから、分けられて残った。
ユミルの民という言葉が、そこに刺さる。
屋敷に合った、タイトルの無い本。
――私たちユミルの民は、壁の中で繁栄を約束された。
ユミルの民。
それ以外がいる。
それ以外が外にいる。
外でユミルの民は繁栄しにくい。と仮定する。
繁栄が難しいというのは、単なる環境の問題じゃない。
わかりやすい差があるはずだ。
見た目。匂い。反応。血。生死の順番。
ここは特に情報が足りない。
◇
壁。
国を覆う壁は、巨人から人類を守る。
それがこの世界の大前提。
でも壁は破られた。穴は塞がれない。
塞がれないのに、「繁栄を約束された」と本には書いてあった。
矛盾、に思える。
壁を作る技術を、壁内の人間は持っていない。
少なくとも私が知る範囲では、持っている気配がない。
じゃあ壁を作ったのは誰だ。
国か。国なら、なぜ修復しない。
修復できないなら、何が足りない。
資源か。人材か。技術か。許可か。――意志か。
動けない?
動くつもりがない?
奪われた?
奪われたとしたら。それは想定外なのだろうか。
……どれも可能性はある。
だから、線は引かない。
◇
目を開く。
開いたら、私の中に余計なものが混ざった感覚がした。
ジャン。
助けた直後の顔。
手首を掴んだ指。手の甲の熱。
振り払う前の迷い。
「ふざけんな」って低い声で言われた時の目。
あれは拒絶じゃない。制止だ。
逃げられたのは、私が追い詰めすぎたから。
……分かっている。分かっているのに、気分が悪い。
気分が悪いのに、消えない。
むしろ、勝手に引き出しが開く。私が触ってもいないのに。
恋は病気だと思っていた。
判断を鈍らせて、口を軽くして、世界を暗くする病気。
いま私は、その病気を観察している。
自分の中で。
面白い。
面白いから、危ない。
危ないのに、私はこう思う。
捨てない。
邪魔でも、切り捨てない。
捨てるのは私の趣味じゃない。
手に入る可能性があるなら、可能性のまま握っておく。
――他に取られなければ、それでいい。
その考えが出てくる自分に、少しだけ笑いそうになる。
私はいつの間に、こんなに普通の欲を持つようになったんだろう。
◇
今の私に必要なのは、力だ。
真実を当てる力じゃない。
生き残る力。逃げる力。刺す力。回収する力。
立体機動装置がなければ、戦場で私は無力だ。
知識も思考もある。
でもこの先は、身体がついてこなければ、私はまた宙で止まる。
だから、手段を増やす。
増やして、選べるようにして、私の好みに盤面を寄せていく。
線はまだ繋がらない。
繋がらないまま、繋げないまま増えていく。
それでいい。
私は思考を落とす。
明日はまた早い。