私は、ジャンを避けるのをやめることにした。
目に入ったら笑って手を振る。
近くを通れば、勝手に話に入る。
簡単だ。
やろうと思えば、私はどこにでもいられる。
ジャンはあからさまに挙動不審で、面白い。
目が泳いで、肩が硬くて、息の仕方が変で、こっちを見たと思ったら慌てて逸らす。
周りもどこか、歓迎してくれているようだった。
男子は男子で、多分もう察している。
昨日だって、ジャンひとりなら話しかけに来なかったはずだ。
――外側からじわじわ締めるのもいいな。
そう考えながら、私は手首を回す。
対人格闘の時間だ。
誰も真剣になんてやっちゃいない。
この時間は成績に関係ないから。
「ねぇ」
声が刺さった。
聞き慣れた声。温度が低い。
「……? どうしたの? ――アニ」
アニから話しかけてくるなんて珍しい。
彼女は表情を変えずに、いつもの調子で言った。
「あんた、頭がよかったよね。手伝ってくれない?」
頼み方が雑だ。
媚びない。前置きもない。
断られる前提じゃない言い方。
成績優秀者。憲兵団志望。
そして。目立たない。目立ちたくない。情報を出したくない子。
――性格かもしれないけれど。
貴方から来てくれるなら。
「私でよければ」
優しく笑いかける。
助ける側の顔。相手が受け取りやすい包装。
アニは目だけを細くして、少しだけ間を置いた。
「……ありがとう。少し込み入った話なんだ。訓練後に時間、貰ってもいいかい?」
「分かったよ」
返事は即答にする。
相手が踏み込んだ時は、間を作らない方がいい。
それから私は、ついでみたいに続けた。
「組手、頼んでもいい?」
アニの眉がほんの僅かに動いた。
驚いたのか、面倒なのか。たぶん両方。
「……あんたが?」
「手加減はしてね? というか出来れば教えてほしい」
苦笑してみせる。
いつもなら無視されて終わるお願いだ。
でもこのタイミングなら、断りにくい。
私はアニの戦い方を、まだちゃんと見ていない。
希少なものは、外の匂いがする。
違うかもしれない。
それなら知識として取り込むだけだ。
アニは短く息を吐いて、言った。
「……いいよ。教えてあげる」
◇
最初の一撃で分かった。
私は、アニの間を読めない。
これは知識じゃない。身体の領域だ。
読む前に、足が払われる。
重心が崩れて、地面が近くなる。
肩がひねられて、息が抜ける。
「……っ」
声が漏れた。
悔しさより先に、肺が痛い。
「立てる?」
アニは淡々と言う。
手を差し伸べない。差し伸べたら優しさになるから。
彼女はそういうのが嫌いだ。
「……立てる」
立って、構えて、もう一度。
今度は腕を取られる。
引かれて、押されて、膝が地面に落ちる。
自分の身体が、自分の指示通りに動いていない感覚が気持ち悪い。
「……あんた、向いてないよ」
アニは容赦がない。
教えるために、自分を変える気もなさそうだ。
「アニはさすがだね。……誰に教わったの?」
「……お父さん」
「お父さんも強そうだね」
アニは一拍置いて、短く言った。
「……強いよ」
お父さんは大事。生きてそう。
仮説の情報を詰んでいく。
私はその後も何度か転がされた。
転がされるたびに、自分の弱点が露出していく。
咄嗟が遅い。
距離感がズレる。
身体の限界かもしれない。
私は彼女の技術を学ぶための、足元にも及ばないらしい。
それでも、手に入れたものはある。
アニの重心移動。視線の置き方。力の抜き方。
そして何より、彼女の癖。
私はボロボロのまま立ち上がった。
近くを通る、私を気にかけてくれる人には手を振る。
「大丈夫だから」
大丈夫じゃない顔で言うのが、一番説得力がある。
◇
「サボり常習犯が、今日は真面目に訓練か?」
笑い混じりの声。
ライナーだ。大きい影が近づいてくる。
「……借りを作りたくないだけ」
アニが先に返す。
刺す言葉。短い。正しい。
「借り? そうか」
ライナーは妙に納得したように頷くと、私に視線を移した。
「ジラは無事か?」
「なんとかね」
私は口角だけ上げた。
身体の節々が痛い。
「ライナーはどうしたの? アニに対戦でも持ちかけに来た?」
二人は対人格闘の上位組だ。
本気でやれば見応えがありそうなのに。
ライナーは一瞬躊躇してから、言った。
「……いや、それは遠慮しておく」
遠慮。
勝てないから? 痛い思いをしたくないから?
妥当な理由はある。
でも私の中の違和感が、別の線を引きたがる。
――アニそのものが苦手。
根拠はない。
私は自分の勘を、わりと信用している。
アニとライナーに関わりはあった?
目立つものは記憶にない。
あるとするなら……。
少しだけ、遊ぶ。
私はライナーに近づく。
アニに聞こえない距離へ。
アニは面倒くさそうにそっぽを向いた。
私は手で合図して、ライナーに少し屈んでもらう。
耳元で、小さな声。
「ベルトルトがアニを好きなの、知ってる?」
空気が一瞬変わった。
ライナーの身体がほんの僅かに硬直する。
呼吸が止まる。
その止まりは、答えだ。
――知ってたな。
そして、これは私が知ってはいけないことらしい。
ライナーはすぐに表情を作って、驚いたふりをした。
「……本当か。……知らなかったぞ」
うまい。
さっきの震えが嘘みたいに消える。
「そっか」
私は頷いて、それ以上は聞かなかった。
代わりに、冗談の形で問う。
「ライナーもアニのこと好きなら、三角関係で面白いと思ったのだけれど」
理由は嘘で隠す。
あながち外れてもいない、便利な嘘。
「俺がアニを? 勘弁してくれ」
案の定、ライナーは力を抜いて手を振った。
わざとらしいほど軽く。
そして彼は、真面目な顔に戻して言う。
「今の、誰かに言ったことあるか?」
「……無いと思うけれど。なんで?」
「……あいつは小心者だから、周りにバレたら余計に好きなやつに話しかけられなくなっちまうだろ」
小心者。
その単語に、私は心の中で鼻で笑った。
小心者ってだけで、上位十位に入れるほど甘くない。
顔には出さない。
いまは秘密を共有した空気だけで十分だ。
「誰にも言わないよ。秘密ね?」
私は人差し指を口に当てる。
そういえば、ジャンにも昔やった。
あれは効いた。今回は効かせるためじゃない。
ライナーは軽く笑って、距離を取った。
私は振り返る。
アニはいつの間にか、いなかった。
私は指先の土を払った。
身体は痛い。だけど、嫌じゃない。
盤面が増えた。
アニ、ベルトルト、ライナー。
そして、優しさを嫌う癖と、隠したい線。
こういう線は、繋げる必要はない。
持っておくだけで、必要な時に勝手に回り出す。
私は視線を上げた。
目が勝手にジャンを探した。
――いた。
フロックと向かい合っている。
私は舌打ちしたくなった。
そういう面白いことは、私が見ている時にして欲しかった。
多分色々終わった後だ。
フロックがジャンに向かって何か言う。
ジャンが目を見開いた。
フロックは嘲るような顔で、ジャンを置いて去った。
ジャンは視線をうろつかせ、私を見つけた。
私は笑いかける。
ジャンは何かを耐えるように、眉根を寄せた。
視線はそらされなかった。