訓練が終わると、皆の身体は勝手に食堂の匂いを探す。
食堂に流れ込めば、今日という一日が終わる。
視線の端に、ジャンが見えた。
胸の奥が、嫌に熱くなる。
……でも、約束だったから。
私はアニの後ろについた。
彼女は目線でついてこいと言った。
人に聞かれたくない話。
だから人がいない方へ行く。森の訓練場の入口。
夕方の影が伸びて、木の間に冷気が溜まっている。
――これで殺されたら、ジャンは悲しむかな?
ふと頭をよぎったところで、アニが足を止めた。
「……人に聞かれたくない話なんだ」
「だろうね。こんなとこまで来てるし」
軽く笑ってみせる。
さっさと終わらせて、食堂に戻りたい。
アニはいつもの顔のまま言った。
「これは知り合いの話なんだけど」
「どうしても必要なものがある」
「だけどどこにあるかが分からない」
「誰かが持ってるのは確かなんだ」
淡々と並べる。
情報量は少ない。少なすぎる。なのに、わざわざ私をここまで連れて来た。
アニは私を見る。
表情を殺した顔。悟らせないようにしてる顔。
「……あんたなら、どう探す?」
試験だ。
問題じゃない。踏み絵。
私は一呼吸置いて、笑みを薄くした。
「随分とふんわりしてる質問なのね」
「そうなんだ。どこから手をつければいいか、さっぱりでさ。手を貸してくれない?」
アニの声音は変わらない。
でも、ほんの少しだけ速い。焦りが混じる時の速さ。
……面白くなってきた。
私は、敢えて質問を返す。
答えを出す前に、相手の足場を削る。
「それって、何に使うものなの?」
「……知らない。必要とだけ」
「何のために、……っていうのは違うわね。
誰のために必要なの?」
「……知らない」
私は思わず笑ってしまった。
笑ったのは馬鹿にしたからじゃない。滑稽だったからだ。
これだけ情報が薄いのに、私が当てる前提で話している。
つまり、アニが欲しいのは探し方じゃない。
欲しいのは――私の出方。
私は笑いを引っ込めて、声を落とす。
「何が知りたいの?
それ、本当に探し方を知りたいって情報の出し方じゃないのだけれど、気づいてる?」
アニの目がほんの僅かに動いた。
否定しない。否定できない。
森の冷気が、背中の汗を冷やす。
胃の奥が、静かに固くなる。
――頭がいいだけじゃない。
――……貴族の情報が欲しい?
――もっと別の、私の後ろ?
――それとも?
私は雑に呼ばれた。
彼女には時間がなかったのかもしれない。
焦燥。……焦ってる?何故?
私は思考を回す。速く、事実と仮定だけを増やして並べる。
線は繋げない。繋げた瞬間、情報は固定される。
持っているのは誰か。
誰かに意味がある。
組織ではなく個人。個人に握らせている。
そして、その個人が隠しているか、隠させられている。
必要なもの。
人が持てる、持ち運べる、そして価値が大きい。
奪われた、もしくは渡された。
必要とだけ言われるもの。使う側が別にいる?
そして、アニ。
アニは、借りを嫌う。
貸しを作るのも嫌う。
感情を見せるのも嫌う。
それなのに、わざわざ私に頼む形を取った。
……私がどう出るか。
この形の方が私が載ってくると思われた?
私は一歩だけ、アニに近づいた。
彼女が動くかどうかを見る距離。
アニは動かない。
目だけが、私を刺す。
私は軽く首を傾げる。
訓練兵のジラの顔。少し雑な笑い。
「それは、貴族の情報で探す類のものかしら?」
アニが答えない。
沈黙が肯定になるタイプの沈黙だった。
私は息を吐いて、言葉を整える。
整えるのは、私が生き残るためだ。
「いいわよ。調べてきてあげるわ」
アニの目がわずかに細くなる。
受けたことが意外なんじゃない。
どう受けたかを見ている。
私は続ける。ここが大切。
私が主導権を取る場所。
「――で。何を調べてきて欲しいの?」
アニはほんの一拍置いた。
その一拍で、彼女が考えたのは多分これだ。
――どこまで要求していいか。
――どこまで言ったら、私が逃げるか。
――どこまで言ったら、私が敵になるか。
そしてアニは、いつもの顔のまま、少しだけ声を低くした。
「……中央」
「血筋」
「国が守ってる人間」
「その周りの貴族」
点が増える。勝手に増える。
私は笑った。可愛い笑みじゃない。仕事の笑み。
「ずいぶん欲張りね」
「……できないなら、いい」
引くふり。逃げ道を作るふり。
私は首を横に振った。
「できないとは言ってないよ」
「ただ、私にも対価が欲しいな」
アニの眉が、ほんの僅かに動いた。
「……対価?」
「うん」
私は笑って、わざと軽く言う。
「私、基本的に楽しいなら大体なんでもいいんだけどさ」
そこで、一拍置く。
軽さを置いてから、重さを刺す。
視線が合う。
私は口をゆっくりと動かした。
「――アニたちが帰る時。
――私も連れてって欲しいなって」
アニの目が揺れる。
揺れても逸らさない。逸らさないのは、私にはほとんど答えみたいなものだ。
「できたらでいいよ。頭の片隅に置いといて」
私は柔らかく笑う。
彼女にも逃げ道は必要だ。
「……無理に決まってる」
アニは震える声で、淡々と言った。
温度を落としているだけだ。落とそうとしている。
私は笑う。今はそう思うだけでいい。
選択肢は頭をチラつくだけでも影響を及ぼすのだから。
アニは不快そうに眉を寄せ、私を見た。
「誰にも言わないで。
口にしたら、終わらせるから」
「終わらせるって?」
私が笑うと、アニは笑わない。
「……あんたじゃなくて、周りから」
一拍。
「余計なことをしたら、あんたに近い人間が先に消える」
近い人間。
その言い方が、妙に具体的で、妙に雑だった。
私は一瞬だけ、ジャンの顔を思い出してしまって、舌の奥が冷えた。
「……脅し方、下手だね」
軽く返す。軽く返せるうちに返す。
重さを受け止めた顔をしたら、次はもっと重いものを渡される。
アニは私を見たまま、ただ言う。
「下手でいい。伝われば」
「……信用ないなぁ」
「信用してないから」
即答。
即答が、むしろ誠実に見えてしまった。
私は肩をすくめる。
「分かった。言わない。勝手に動かない」
アニは小さく頷いて、踵を返した。
私はアニの背中に、もう一言だけ落とす。
「ジャンを殺すなら、私の前で、ね?」
アニは一瞬止まった後、聞かなかったフリをしてそのまま去った。
今は、たぶん殺す気がない。
必要になったら、やる。そういう類の平熱。
私は、知らないところで勝手に進むのが嫌だった。
置いていかれるのも、取り返しのつかない結果だけ渡されるのも嫌いだ。
死ぬならこの目で見たい。
――いっそ、私が殺したっていい。
喉の奥が、妙に熱い。
心臓が少し速い。怖いんじゃない。
もっと嫌な、もっと甘い何か。
きっとそれは、私の中に残る。
癒えない傷になる。
それでも、消えない方がいいと思ってしまう。
誰もいない森で、私はその感覚を舌先で確かめる。
今の私は、人に見せられない。
それくらい、私にだって分かるの。