「なんで、――俺なんだよ」
握った手に、また力が込められる。
私はその手の熱を、記憶に刻み込むように息をこぼす。
なんで、ジャンなのか。
そんなの私にだって分からない。
でも、最初のきっかけはきっと。
私は手を緩く握る。
出す声は、できるだけ柔らかくなるように。
逃げて欲しくないから。
「ジャンが、
――ミカサを見てたから気になったの」
「……ッ」
ジャンが震えるのが分かる。
でも私は止めない。
「その目が、自分に向いたらどんな気分だろうって。
ちょっとした、興味本位」
最初は確かにからかいだった。
面白かったんだ。
私が思ったように動いて、分かりやすい反応を繰り返し見せてくれて、私の手のひらの中にいたジャンが。
ジャンが唇を噛むのが見えた。
噛んで、離して、また噛んだ。
何も言わない。言えない。
私はそれを見て続きを口に出す。
「私が本気になるつもりなんてなかった。
惚れてくれたら、いいように使ってやろうって、そう思ってた」
毒のような言葉をそのまま出す。
――逃げないで。
震えるジャンの手を、少しだけ握る。
「今は、違うから」
背筋を伸ばす。少しでも伝わるように。
「私、人を好きになったの、ジャンが初めて」
ちゃんと目を見る。ジャンも見て。
「ジャンが、私以外見えなくなればいいのにって、
いつも思ってるよ」
少し笑う。
一応これも私の本音だから。
ジャンは、息を止めたみたいに固まった。
握られている手が、少しだけ強くなる。
「……お前……」
掠れた声。怒鳴る一歩手前みたいな低さ。
「……惚れたら使うって……平気で言うなよ」
揺れてる。
「……今は違うって、なんだよ」
でも目が、逃げない。
「初めてって……それ……」
言いかけて、喉仏が上下する。
飲み込めない。
「……お前以外見えなくなればいいって」
眉が寄った。怒りじゃない。
「それ、冗談じゃねぇよな?」
困惑。怖さ。
ジャンは顔を顰めた。
でも言葉は引っ込めない。
「……そんな目で言うなよ」
小さく息が漏れる。
悔しそうで、情けなくて、でも――どこか嬉しそうな音。
「……ミカサのことは、憧れだっただけだ」
急にそんなことを言って、すぐに自分で恥ずかしくなったのか、視線が一瞬だけ揺れる。
揺れて、戻る。
「……お前が俺を見てるの、分かる」
手が熱い。
たぶん、どっちも。
「……嬉しいのに、怖ぇんだよ」
ジャンはそう言い切ってから、眉根を寄せて、
また、ちょっとだけ声を落とした。
「……俺は、どうしたらいいんだよ」
私は優しく手の指でジャンの指を撫でる。
ジャンの指が一瞬びくっと跳ねた。
でも逃げない。
手はほどけそうでほどけない。
私は少しだけ考える。
……私はジャンに、何を求めてるのか。
「……私、ジャンにして欲しいことって、無いかもしれない」
ジャンは、その言葉を聞いた瞬間、目を見開いた。
「……は?」
間の抜けた声が漏れて、すぐに自分で嫌そうに眉を寄せる。
けど、手は離さない。離せないみたいに、指が絡んだまま固い。
「……無いって、なんだよ」
声が少し荒くなる。怒ってるんじゃない。焦ってる。
ジャンは、握った手を見下ろしたまま言う。
「じゃあ俺、何すりゃいいんだよ」
言い方が、子どもみたいに不器用だ。
でもここでは、その不器用さが逃げ道を塞ぐ。
「……お前、俺のこと好きって言ってさ」
「お前のことだけ見ろって言ってさ」
一拍置いて、目を上げる。
「……それで、俺にして欲しいことが無いとか、意味分かんねぇ」
吐き捨てるみたいに言って、すぐ後悔した顔をする。
手に力が入る。
逃がさない力じゃない。落ちたくない力。
でも撤回しない。
「……だから!」
ジャンは息を吸って、吐いて、言い直す。
「……欲しいもの、ちゃんと言え」
視線は逸らさない。
食堂の静けさが、その言葉に重さを与える
私は指を絡ませて、強めに握る。
して欲しいことなんて、無いものは無い。
――したいことならある。
私は少し拗ねるように口に出す。
「……じゃあ、もっとくっつきたい」
ジャンは一瞬だけ固まった。
固まって、次の瞬間、顔が赤くなる。
「……っ、そういうのを……」
言いかけて止まる。
否定したいのに、否定できない。
ジャンは、握っている手を離さずに、ほんの少しだけ引き寄せた。
引き寄せて、自分でも驚いたみたいに目を見開く。
「……くっつくのは……」
声が小さくなる。
弱くなる。弱くしたのに、逃げない。
ジャンはほんの少しだけ、顔を寄せる。
「……今ここでやると、俺、頭おかしくなる」
言いながら、もう一度だけ手を握り直す。
力を込める場所を変えて、震えを隠すみたいに。
「……それでも」
ジャンの言葉を遮る。
「――いいに決まってる」
私から、少し近づく。
距離が近すぎて、体温が届いてる。
欲しい。もっと欲しい。
ダメ。
私の理性が水を指した。
周りの音を、耳が拾ったから。
渋々、目を逸らして声を出す。
「……って言いたいけど」
ゆっくり手の力を抜く。
少しだけ、姿勢を戻す。
「時間切れみたいね」
名残惜しげにジャンから視線を外し、扉を見る。
大きな足音。
扉の向こうで、焦った気配が膨らむ。
誰かが小走りになる。静かだった扉の向こうが騒がしくなる。
「ちょ、待てって!」
「足止めは何してた!」
次の瞬間、教官の声が食堂の壁に当たって返ってきた。
「……まだ明かりが点いてるのか。消灯はとっくに過ぎてるぞ」
扉の向こうで、何人かの声が即座に跳ね返る。
「はい!すみません!今すぐ消します!」
「当番が確認不足でした!こちらで責任持って締めます!」
一拍。
教官の足音が止まる音。
息を吸う気配。
怒鳴り込む一歩手前で止まった。
「次はないぞ。消灯時間は守れ!!」
「はい!失礼しました!」
声が揃う。
扉の外で、足音がまた動く。
今度は遠ざかる方へ。
同期の声が、少しだけ小さくなる。
近いのに、遠い。わざと距離を取ってる声。
「……よし、帰った」
「おい、聞こえてるかジャン!」
「あぁ、もう、聞こえてんだよ!」
ジャンは、手を絡めたまま、ほんの少しだけ私を引き寄せた。
「……明日」
小さい声。
「……明日、ちゃんと時間作れ」
外の連中に聞こえないように、さらに声を落とす。
「ここじゃないとこで」
言い終わって、戸惑うみたいに一瞬口ごもる。
それでも眉根を寄せて、押し出す。
「……お前、俺のこと押すなら」
言いながら、喉仏が上下する。
「……ちゃんと最後まで押せ」
でも、目は逸らさない。
扉の外で、誰かが息を殺して笑う気配がした。
……コニーかな?
ライナーの声が、また低く刺さる。
「……ジャン。ジラ。早く出ろ。また誰か来る」
ジャンは返事をしない。
返事をしない代わりに、手を見下ろす。
まだ繋いでる。
まだ繋いでるのに、もう離れそうだ。
ジャンは離す前に――指先で、私の指を一度だけ強く握った。
そしてようやく、名残みたいに息を吐く。
「……行くぞ」