廊下に出た瞬間、空気が冷えた。
ジラの手はもう離れたはずなのに、掌だけが熱い。
指が絡んだ感触が、皮膚の内側に残ってるみたいで腹が立つ。
空気はやけにうるさい。
息。足音。誰かの、笑いを殺した気配。
「……お前ら」
声が低くなる。勝手に。
落ち着いてるからじゃない。逆だ。
「どこまで聞いてた」
言った瞬間、廊下の空気が一段軽くなる。
軽くなるな。軽くするな。俺の胸を勝手に。
コニーがすぐ笑った。
「んー? どこまでって、何のどこまでだよ」
「黙れ」
殴りたい。
でもこいつらのお陰で時間が取れたって、分かってるからさらに腹立つ。
ライナーが肩で笑うみたいに息を吐いた。
「……廊下で騒ぐな」
その言い方、俺に言ってるようで、周りに言ってる。
マルコが慌てて口を挟む。
「ごめん、ジャン。悪かった。……でも、ほとんど聞こえなかったよ」
――ほとんど。
何が聞こえたんだよ。マジで。
俺は、視線だけで全員を黙らせたいのに、できない。
できないくせに、口が勝手に続ける。
「次、同じことしたら殺すからな」
「はいはい」
コニーが肩をすくめる。
ライナーは軽く頷いた。
時間を稼いだのも、こいつらだ。
食堂を二人にして、わざと他のやつを入れないようにして。
教官が来た時も、廊下で声を揃えて庇った。
助かった。
助かったのに、礼を言う口がない。
言ったら終わる。からかわれて終わる。
だから俺は、いつもの逃げ道を選ぶ。
「……もう寝る」
ぶっきらぼうに言って歩き出す。
背中に笑い声がついてくる。
マルコが小さく言った。
「うん。おやすみ」
明日。
明日だ。
――ジラに俺は。
◇
朝。訓練場へ向かう。
寝たはずなのに、身体が重い。
落ち着かない。
視線を前に固定する。
固定しないと、勝手に探す。
――ジラ。
探すな。
今から訓練だろ。俺。
「ジャン」
淡々とした声。
ミカサだった。
俺は反射で肩を強張らせた。
ミカサが俺に話しかける時点で珍しい。
「……なんだよ」
ついぶっきらぼうになる。
ミカサは顔色一つ変えず、手を差し出した。
「これ」
小さく折りたたまれた紙。
急いで作ったみたいな雑さ。
「ジラから」
心臓が嫌な音を立てた。
俺は一瞬、受け取るのを躊躇った。
躊躇った自分が腹立つ。
「……なんでお前が」
「頼まれた」
短い。余計な感情がない。
ミカサらしい。
俺は受け取った。
紙がやけに軽い。軽いくせに、手のひらだけ熱くなる。
ミカサは俺の顔を一度だけ見て、一瞬躊躇った。
それでも視線を外した。
これ以上は関わらないって線引きだ。
ミカサの目が、一瞬だけ紙ではなく俺を見た。
「……読んだらいい」
「……今読む」
声が変になる。咳払いで誤魔化した。
指が少し震える。寒いからじゃない。
分かってる。
紙を広げる。
丁寧だけど急いだ線。ジラの字だ。
――ごめんなさい。
――緊急で家に帰る用事ができてしまって、特別に休暇を貰ってます。
――いつ戻れるかも分からないけれど、嫌いにならないでね?
読んだ瞬間、頭が真っ白になった。
休暇。
帰る用事。
いつ戻れるかも分からない。
――は?
もう一回読む。
読んでも意味が変わらない。変わってくれない。
「……ふざけんな」
声が漏れた。小さい。
でも、誰に言えばいい。
紙に言うのか。
いない奴に言うのか。
それとも、自分に言うのか。
喉の奥が乾く。
息が浅い。胸が、変に冷える。
ミカサは半歩下がっていた。
触れない距離。踏み込まない距離。
俺は紙を握りしめた。
皺がつく。構わない。構わないくせに――。
昨日、俺は言った。
明日、時間作れ。
ここじゃないとこで。
……明日
明日って、俺が勝手に掴んでたのか。
勝手に期待して、勝手に安心して。
最悪だ。
背後から、コニーの声が飛んでくる。
「なに持ってんだ?手紙?え、誰から?」
「うるせぇ」
低い声になった。
コニーが一瞬固まって、ライナーを見る。
ライナーは何も言わない。言わないくせに、目だけで分かってる顔をする。
マルコが気遣うみたいに言った。
「ジラ、今日いないね……」
いない。
その言葉が胸を殴った。
「……知らねぇ」
吐き捨てて、紙を制服の内側に乱暴に押し込んだ。
胸のあたり。心臓の近くに。
軽い紙が、そこだけ重い。
俺は前を向く。
向かないと、探してしまう。
――ジラ。
いないのに。
いないからこそ、探す。
俺は歯を食いしばって、息をひとつ吐いた。
「……クソ」
それしか言えなかった。