「俺は読まねぇからな」
背中側から投げられた声は、いつも通り雑で、いつも通り軽い。
軽いのに、ここでは重く聞こえる。
「分かってます。付き添いありがとうございます」
私はいつもの笑みを作って返した。
国の書庫。――禁書貯蔵庫。
人々から取り上げた本の墓場。研究の亡骸の宝庫。
埃の匂いと、紙の脂と、古い皮革。湿り気のない空気が肺に貼りつく。
ずっと前に申請はしていた。
それが通った。
通るはずがない申請が、通った。
今更通る理由。
埋もれてた申請が発掘され、深く考えられずに通った。
有り得なくは無いけれど。
誰かが、何かの意図を持って、私に許可を出した。
――後者の方が面白い。
「それにしても」
私は棚から引いた本を開く。
「早急に帰れ、って。何があったのかと思いました」
文字を追いながら言う。
半分は文句で、半分は確認だ。
「あぁ? 内容書くわけにゃいかねえだろ」
ケニーは笑った。笑いながら、置いてあるソファーに身体を投げる。
仰向け。肘枕。ここが自分の家みたいな態度。
からかったのかな。この人は。
そういう所は私に似ているかもしれない。
「私、今日大事な用があったんですよ?」
「ほぉ。嬢ちゃんの大事な用、か」
ケニーはわざとらしく間を置く。
「ろくでもねぇな」
「心外です」
私はページをめくる。
文字の海に逃げるふりをする。
――昨日の熱。
指が絡んだ感触。
声が震えたまま、逃げなかった目。
頭の端に、しつこく残っている。
「私だって大事なもののひとつやふたつ……」
言いかけて止まる。
ふたつ目が出てこない。
ミカサ、は自分で何とかできる。
フロックは……助けてあげてもいい。
けれど、大事かと言われれば首を捻ることになる。
「思いついてねぇじゃねぇか」
ケニーが呆れた声を出した。
呆れた声のくせに、楽しそうだ。
「にしても、ひとつはあるのか。
嬢ちゃんも、人だったってか?」
私は本を閉じて、別の本に手を伸ばす。
背中に興味の視線が刺さる。嫌じゃない。
「……そうですね。自分でも驚いています」
「それが何かは、俺が聞いてもいいのか?」
一瞬、動きを止める。
私は振り向いた。
素の表情。隠しきれない上機嫌。
――上機嫌というより、厄介な熱をそのままに。
「今度まとめてお話しますね」
形だけはいつもの笑い。
ケニーは目を細めた。
笑ったのか、測ったのか、区別がつかない。
「勝手にしろ」
それだけ言って、また天井を見た。
◇
本を読む。読む。読む。
ここの知識は、頭に入れれば入れられるだけ使える。
使えるのはこの壁の中でだけ、かもしれないけれど。
壁の外では、きっと情報の価値がひっくり返る。
壁の中だけでだって、国と平民では雲泥の差なんだから。
想像なんてつかない。つけてはいけない。
今はここだ。
ここでしか拾えないものがある。
――早急に帰れ。
ケニーの手紙はそれだけだった。
要件が書庫のことだと知っていたら、明日に回したかもしれない。
……いや。回さないか。私は結局、こっちを優先しただろう。
ジャンのことよりも、優先するべきだったのか。
分からない。
分からないままでいい。
どうせ来たのだから。
私は、ついでを増やす。
――アニからの頼まれごと。
中央。血筋。国が守る人間。周りの貴族。
これは直近に必要。私の夢に繋がる手札だ。
――ケニーの夢。
種族。歴史。
意味のある変化……。
重なる部分も多い。
調査兵団に入れば、私はすぐ死ぬかもしれない。
なら今のうちに、ケニーに恩を返しておくのは悪くない。
ページを繰る。
「追放」「迫害」「禁令」。
屋敷にあったもの。
屋敷になかったもの。
似た題名で中身が違うもの。
同じ出来事が別の言い回しで書かれているもの。
なぜ差異が生まれる?
確率の高い仮説を、仮の棚に入れる。
別の仮説が出たら、別の棚へ移す。
繋げない。繋げればより複雑になる。
酔う。迷う。
――そして、見慣れた単語。
アッカーマン。
ケニー・アッカーマン。
切り裂きケニー。
地下街から憲兵を殺して憲兵になった男。
有名な話。だからこそ、作られた匂いもある。
私は本から顔を上げずに、声を後ろへ投げた。
「私の同期に、アッカーマンの子がいますよ。
親戚ですか?」
ソファーが少し軋む。
ケニーが体勢を変えた音。
「ほぉ……。なんて名だ?」
すぐに食いついた。
「ミカサ・アッカーマン」
一拍。
「知らねぇなぁ」
つまらなさそうに。
嘘か、本当かの判断材料は少ない。
「辺境で暮らしてたらしいです」
「ま、地上で暮らすなら、それしかねぇだろうな」
私は少しだけ情報を足す。
嘘でもいい。それを言ったことに意味があるから。
「貴方と同じくらい、強いです」
言った瞬間、空気が一段変わった。
ケニーの視線が、完全にこっちへ来る。
「――覚醒してんな」
「……覚醒?」
私は素直に聞き返した。
ケニーは鼻で笑う。
「俺たちの一族にはそういうのがあんだよ」
言葉は雑。理論なんてない。
「このままじゃいけねぇ、って時にバカみてぇに力が湧く」
「何をすればいいか全部分かる。身体が勝手に動く」
理不尽な力。
それは、この世界に溢れている。
嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど。
私はページの端を撫でた。
紙のざらつきが指に残る。
「……それは、本当に血ですか?」
ケニーは一拍置いて笑った。
「さあな。血かもしれねぇし、呪いかもしれねぇ」
呪い。
いい事ばかりではないのだろうか。
私は視線を落として、本に戻る。
戻るふりをする。
頭の中では、棚が増えていく。
血。
継承。
国が守る人間。
アッカーマン。
ユミルの民。
東洋人。
――私はどこに属するんだろうか。
本を閉じる。
閉じた音が、やけに大きく聞こえた。
――ジャン。
名前が勝手に混ざる。勝手に引き出しを開けてくる。
私は、昨日置いてきた紙のことを思い出す。
ジャンは読んだだろうか。
どんな顔をしたんだろう。
何を考えたかな。
――嫌いにならないでね?
嫌いに、ならないで。
それだけが怖い。
背後で、ケニーが欠伸をした。
眠そうな音。退屈そうな音。
でも退屈してないのは、気配で分かる。
私は本の山を見渡して、息を吐いた。
ここは墓場だ。
でも墓場には、掘り返せる骨がある。
骨は、血に繋がる。
私は指先を開いて、閉じる。
血の温度を確かめるみたいに。
「……血、か」
誰にも聞かせないくらい小さく呟いて、
私は次の棚へ手を伸ばす。
同じ時。
別の場所では、焦りが形となってぶつかる。