フロックとの会話が一段落ついても、私は帰ろうとしなかった。
場所を移動する。
兵舎の灯りは遠く、森の入口は冷気で冷えていた。
夜の虫の音が、わざとらしいくらい規則正しい。
「……おい」
フロックが、さっきから落ち着かない目で周りを見ている。
「いつまでここにいるんだよ」
「たぶん、そろそろ……」
私はわざと曖昧に返した。
待っていたのは、時間じゃない。
――音。
迷いがない。探してるんじゃない。
最初からここに来るつもりだった足音。
「――なんでフロックがいる」
ライナーだった。
声が低い。顔も険しい。
いつものみんなの兄貴分じゃない。
切り替えてきた。
フロックの身体が、反射で半歩下がった。
下がって、止まる。
うん。止まれるの偉いわね。
私は微笑む。軽く。
「そっちこそ、アニはどうしたの?」
ライナーの眉間がさらに寄る。
「……長話する気はない。結果だけ教えろ」
言い切ってから、ライナーは視線をフロックへ投げた。
「……フロック。お前は黙ってろ。
邪魔だ」
フロックが口を開きかけて、閉じた。
悔しそうな顔。
でも黙る。その方がいいと理解してる。
いい。少し面白くなった。
「場合によっては――」
ライナーが私に言いかけて、喉で止める。
止めたのは迷いじゃない。言葉を選んだだけだ。
「……場合によっては、ここで終わらせる」
静かな声。
でも刃みたいに、森の冷気が肌に刺さった。
私は、わざとゆっくり瞬きをした。
「怖いね」
可愛い言い方にして、真剣さを薄める。
薄めないと、この場は刺さりすぎる。フロックにはまだ刺激が強い。
大丈夫、立ってて。
そんな意図を込めて、フロックには少し微笑む。
フロックの目だけが私へと向いた。
でも、ライナーは薄まらない。
「時間がない。お前が何を掴んでるか、俺は知らないままだ」
「俺たちは……もう失敗できない」
――思ったより切迫してる。
私はフロックを横目で見る。
彼はまだ表情を作れない。作れないけど、逃げてない。
私は、満足してライナーへ戻った。
「一週間、二週間で結果が出る話じゃないよ」
「あなたたちの方がよく分かってるでしょう?」
口元だけで笑う。
笑いながら、私は一歩も引かない。
ライナーの目が、ほんの僅かに細くなる。
「――信用できない」
圧のある声。
その返答が、ライナーの強さで、弱さだ。
「お前やフロックが漏らさないと、どうして言い切れる?」
私は笑いそうになって、やめた。
ここで笑うと、ライナーは話が通じない相手として処理に入りそうだ。
――私に何か言える立場じゃないのに。
「……何がおかしい」
気付かれた。
鋭い。でも、正解に届かない鋭さ。
私は、息を吐いて、わざと軽く言った。
「大したことじゃないよ」
軽く。軽く。
少しだけ笑みを作る。
次の手。流れは作る方に有利が向く。
フロックの様子を確認する。
うん。大丈夫。
「私はまたすぐ中央に戻るの」
「何かあったら、フロックに言って」
フロックの指は一瞬だけ握りしめられた。
握って、ほどけない。
怖いんだろう。けど立ってる。
ライナーの顔は険しくなる。
「――フロックを盾にするつもりか?」
盾か。
その単語が刺さったのか、フロックがわずかに息を止めた。
私は、視線をフロックへ向ける。
――ここでフロックが逃げたら終わる。
――ここでフロックが残れば、盤面が増える。
……私が動いてもいいけれど。
詳しく考えを回す前に、フロックは喉を鳴らした。
低い声で続ける。
「……俺は盾じゃねぇ」
「……ジラが言ったら聞く。聞くけど」
「俺が判断する時は、俺が決める」
たどたどしい。
でも、今のフロックの全力だ。
ライナーが一瞬だけ目を見開く。
その言葉が出るのを想定してなかった顔。
ふふ。
私は、……少しだけ嬉しかった。
フロックが、ちゃんと動いたから。
私はライナーへ戻る。
ここからは、見せるか、隠すか。
私は、なんでもない雑談みたいに言葉を置いた。
「ライナー、ベルトルト、アニは――」
「ウォール・マリアが破られた原因、そのものよ」
フロックの息が、止まった。
身体が硬直する。
でも倒れない。逃げなかった。
ライナーの顔は険しさを増す。
私はそれを見ながら続ける。
軽く。
「そうね……巨人になれる、種族のようなものなの」
確信は無い。
だから、この言葉をどう受け取るか、ライナーの表情を読む。
ライナーは表情を崩さなかった。
崩さないけれど、一度だけ眼が揺れた。
――全部当たってはいない、かな。
どこだろう。
まぁ、いい。
フロックは青い顔のまま、でも私の隣にいる。
――思ったより、頑張ってる。
私は、さっきより少しだけ優しく言った。
「壁の外にも人類はいるの」
「そこへ行くために――協力してもらってる、って感じかな」
フロックが、ようやく声を絞り出す。
「……壁の、外だと……?」
震えてる。
震えてるのに、目は逸らさない。
私はフロックを見て、小さく頷いた。
「うん」
その瞬間――ライナーが一歩、前に出た。
「……フロック。離れろ」
命令。
今度は隠してない命令。
フロックの足が動きかけて、止まった。
止まったまま、歯を食いしばる。
私はライナーを見上げて、笑った。
「フロックの心配してるのかしら?」
「違う」
即答。
なのに、迷ったように目を揺らす。
その揺れの間に、ライナーは一度だけフロックを見る。
見て、舌の奥で何かを噛み潰すみたいに息を吐いた。
「……フロック」
声の温度が落ちる。命令じゃない。
兄貴分としてのライナーが混ざる。
「今から言うことは、聞かなかったことにしろ」
フロックが息を止める。
「……は?」
ライナーは私の方へ視線を戻す。
「お前は、俺たちについて嗅ぎつけた」
「……半端に誤解させる方が危ねぇ」
「お前らじゃない。俺たちが、だ」
「そう、判断した」
一瞬固く目を閉じる。
その後、私を睨みつけるように目が開いた。
「――あぁ、確かに壁の外にも人類はいる」
「俺たちは、そこから来た」
「ジラ。そこまではお前の想定通りだ」
フロックの肩が跳ねる。
ライナーはそれを見ないふりをして続ける。
「帰る場所がある。帰る国がある」
「俺たちは……」
そこで一度、言葉が止まる。
ライナーが一段、背を伸ばす。
「戦士として、ここにいる」
兄貴分じゃない。
ライナーの言葉で言うなら、これが戦士の姿勢なのだろう。
「ここが世界の全部だと思ってるな」
「壁の中で賢いふりしても、外じゃ意味が違う」
――これは……。
追い詰められてるんじゃない。
ライナーはフロックへ言う。
「だから、離れろ。お前が、聞く話じゃない」
沈黙。
私は、ライナーの視線を自分へ向けるように、
1歩、前に出る。
口を開く。
ゆっくりと。
「――あなた達の国、負けてるのね」
断言する。
私にしては珍しく、ほぼ確信だった。
これは手札を増やすための焦りじゃない。
間に合わない焦りだ。
手札なんて、ほとんど残ってない。
ライナーの目が揺れる。
背負う責任と、重圧。
争ってる規模はきっと、壁の中で暮らしてきた私には、予想できないほど大きなもの。
「――まだ負けてない、かしら」
「近い将来、負けるのが目に見えてるのね?」
ライナーの目がさらに揺れる。
揺れたまま、戻らない。
ライナーの口は動いた。
それなのに、声が出るまで一拍かかった。
「……違う」
……そう。
――面倒ね。
フロックが眉を顰めて、口を開く。
「おい。俺にも説明しろ」
私は1度口を閉じる。
何を言うかじゃない。
どう説明しようかと考える。
フロックが逃げずに、飲み込めるように。
私は必要な分だけ、言葉を落とし、
ライナーは時々、短く訂正した。
途中からフロックは質問をしなくなった。
代わりに、ただ頷く回数だけが増えた。
◇
フロックは胃の奥を押さえるみたいに息を吐く。
私は少し微笑んだ後、ライナーへと向き直った。
「フロックのこと、信用できた?」
ライナーは口の端を僅かに動かした。
笑いじゃない。苛立ちだ。
フロックは信用に値したらしい。
「……俺たちには時間がない」
「次に会う時は、見つけてこい」
「――逃げるなよ」
逃げるな。
それを言える立場じゃないのに、言う。
それがライナーの責任の癖かもしれない。
私は肩をすくめた。
「私、逃げたことないのに」
嘘じゃない。
でも、本当でもない。
ライナーは、フロックを一度だけ見てから、背を向けた。
足音が遠ざかる。土を踏む鈍い音。
重い。――迷いじゃない。覚悟の重さ。
残ったのは、私とフロックと、森の静かな空気。
フロックが、ようやく息を吐く。
「……お前、ロクな死に方しねぇぞ」
「それは楽しみね」
私は言って、短く笑った。