フロックとライナーと別れたその日、私はまたすぐに中央に戻った。
ジャンに会いたかったけど、我慢した。
中央に戻りたくなくなってしまう。
国の禁書庫は、必要なものも要らないものも、同じ棚に突っ込まれている。
分類はある。
形式もある。けれど、意思がない。
整理する気がないという意思だけが、そこにある。
後どれだけかかるのか……。
埃と紙の脂の匂いで、肺が乾く。
指先がざらつく。
ページをめくるたび、誰かの時間が音もなく崩れていく。
ケニーはいたり、いなかったり。
勝手に来て、勝手に消える。
――監視役のくせに、自由だ。
「……そんなに自由にしてていいんですか?」
私が言うと、背後から雑な声が返る。
「さぁな。お役所仕事なんだろ」
書庫の話にズラした。多分わざとだ。
ソファーの軋む音。
ケニーはまた寝転んでいる。足を組む気配。
答える気は無さそうね。
私はページの端を押さえた。
どうでもいい文字を飛ばし見ながら、思考を回す。
――私は、国に監視されている。
その考えは、もう仮説じゃなかった。
肌に触れる空気と同じくらい、現実の感触がある。
――ケニーは監視役だ。
もちろん、確定ではない。
でも、確率の棚の中では上位だ。
東洋人。純血。希少。価値。管理対象。
屋敷にいた頃だって、私は「見せ物」として使われた。
見せ回すのは、誇示じゃない。点検だ。
バレるのは時間の問題だと分かっていた。
役に立つと証明したから見逃されている。
――そう思っていた。
それもあるだろう。
でも、違う線もある。
私は本を棚に戻し、別の棚へ移った。
視線が動く。身体が動く。
動くことで、思考がブレた。
――紙の山が目に入った。
本じゃない。紙束だ。
雑に結ばれて、積み上げられている。
書庫の片隅に、島みたいに固まっている。
白い紙。黄ばんだ紙。薄い紙。厚い紙。
同じ名前が、何度も繰り返される。
――東洋人の名前が二人分。
一瞬、呼吸が止まった。
この一角は、丸ごとその二人のものらしい。
棚の並びからして、ここだけ異質だ。
分類ではなく、隔離。
私は、喉の奥で小さく笑った。
勘だ。完全に。
私の本名に、ファミリーネームはない。
ないと思っていたのに。
「私の親、すごい人だったんですね」
言った瞬間、口の端が熱くなる。
笑ってるのに、笑えない。
私は親の名前なんて知らない。誰も教えてくれなかった。
なのに。
ここにはある。
二人分。
繰り返し。
残りすぎるほど残っている。
ケニーは、目線だけ投げた後、興味なさそうに鼻で息を吐いた。
「嬢ちゃんの親ぁ? そりゃさぞ頭が良かったんだろうな」
……頭がいい。そうだろう。
頭が良くて――残った。
残る形が、嫌な形だ。
私は一番上の紙束を取った。
紐を解く。指に紙の粉が付く。
紙が古い。古いのに、捨てられてない。
一枚目から読んだ。
年号。配置。移動記録。
どこで何が起きて、どこで誰が消えたか。
会話の断片。憲兵の調書。
その余白に、別の手で書かれた、次の一手。
結果を先に決めて、原因を後から作るための文字。
並べれば、どれかが本当か分からなくなる。
そして、誰の手も汚れない。
私はケニーへの返事をせず、紙束がなくなるまで読み続けた。
頁をめくる音だけが、ここでの私の呼吸になる。
ケニーは途中でいなくなり、途中で戻り、またいなくなった。
そして、日が暮れた。
◇
国の書庫を出ると、外気が頬を刺した。
薄暗い道。石畳。遠くの灯。
人の気配は少ない。帰路の静けさだけが残る。
ケニーと並んで歩きながら、私は考える。
この国では、賢い人は短命だ。
禁書が整理されずに、残されていることが異常だ。
国は知識ではなく、知識の産み手を殺す。
……私の親、だと思う人も、短命だったらしい。
記載では事故。
使用人が起こした事故。
偶然が重なった事故。
そう。事故。
国の琴線に触れたのかもしれない。
紙の束を見る限り、産み出す人達だったのだろう。
私は泳がされている。
禁書庫で、私が何を見るか。どう動くか。
何に気づくか。誰に近づくか。どこを掘るか。
その全部が、観察される。
私は今、おそらく。
――親と同じ結末を辿るかどうかの瀬戸際だ。
そう思うと、心臓が速くなる。
怖いからじゃない。
怖いより先に、興奮が来る。
嫌な癖だ。私の。
歩きながら、指先を握って開く。
紙の感触がまだ残っている。
そこに、熱が残っている気がする。
昨日の手の熱と、混ざって残っている。
国の書庫にあるのは、国が「捨てるには惜しい」毒と、「残してもいい」骨。
私は、屋敷にあったタイトルの無い書籍を思い出す。
結局あれがいちばん異質だった。
あれと同じレベルのものは、国の禁書庫には、無い。
国にとって本当に危険なもの、捨てられないものは、
色んな貴族の屋敷に少しずつ、あるのかもしれない。
分散。保管。相互監視。
誰か一人が全部持てば、そこが首になる。
だから散らす。
――手が足りない。力が足りない。
息を吐く。白くはならない。
でも胸の中だけが白くなる。冷える。
紙束の島を見た時、ケニーの瞬きが一度だけ遅れていた。
……報告した、かな?
そうね。いっそ。
私は、歩幅を少しだけ緩めた。
ケニーの隣の距離を、わざと変えた。
軽く、雑に、声をかける。
冗談みたいに。
でも、冗談に聞こえる場所を選んで、刺す。
「ケニー」
彼が視線だけ寄こす。
返事はしない。返事を待たせる。
人の言葉を拾う前に、相手の腹を読む癖がある。
私は笑って、言った。
「国をやめて、私につきませんか?」
声は軽い。
でも言葉は軽くない。
自分で言って、喉の奥が少し熱くなる。
ケニーは歩きながら、短く息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか、区別がつかない音。
「……嬢ちゃん」
低い声。
名前じゃない呼び方。いつもの距離を測る呼び方。
「それ、本気で言ってんのか?」
私は肩をすくめる。
真面目な顔はしない。真面目な顔をすると、相手も真面目に返すから。
「半分は本気です。半分は――」
言いかけて、止めた。
もう半分を言うと、私の方が負ける気がした。
ケニーは、笑った。
ほんの一瞬だけ、目の奥が鋭くなる笑い。
「……面白ぇこと言うな」
それだけ言って、彼は前を向いた。
歩幅は変わらない。
でも、彼の指先が一度だけ、コートの内側に触れた。
そこに何があるのかは見えない。
見えないけれど、癖で分かる。
私は、その動きを見なかったふりをして、また息を吐いた。
面白い。
面白いほど、危ない。
でも、危ないからこそ――今は、進める。
「国を見てるだけじゃ、貴方の夢は叶いませんよ?」
「情報の擦り合わせましょう。
貴方の夢と、私の手札」
私は笑った。
「私につけば、
――この国の行く末を、お見せします」