「……聞いたか?」
隣のやつが、やけに声を落として言った。
落としたくせに、目が落ち着いてない。こういうのが好きな目だ。
「中央でさ。連続殺人事件だってよ」
一瞬、口の中が乾いた。
パンを噛んでたのに、粉が喉に貼りつく。飲み込めない。
「……は?」
聞き返した声が、思ったより低かった。
周りの喧騒が遠くなる。食堂の音が一段だけ薄くなって、耳が勝手にその話を拾う。
「何件も。しかも貴族だけだって」
貴族だけ。
その言葉が腹の底を冷やした。
「恨みか?」
「金目当てじゃねぇの」
「いや、貴族相手なら金より……見せしめだろ」
誰かが笑って言う。
「貴族なんて、死んでもいいだろ」
笑い声が複数。
でも、隣のやつは笑わなかった。
声を落としたまま、変に真面目な顔で続ける。
「……憲兵がやけに口止めしてるってさ」
憲兵。
貴族案件なら中央憲兵か。
誰も言葉にしない。
言い切った瞬間、口にしたやつが危ないから。
そういう空気だけが、食堂の天井に溜まってる。
俺は、笑えなかった。
――ジラ。
その名前が勝手に浮かんで、舌の内側を噛んだ。
鉄の味まではいかない。ただ、痛い。
――ジラも貴族だ。
「誰から聞いたんだ?」
別のやつが聞く。
「教官の知り合いが中央にいるんだと。こっそり話が回ってきたって」
「へぇ……本当かよ」
疑う声。
でも疑いながら、みんな耳をそばだててる。
その時、コニーが何も考えずに言った。
「そういや、ジラって今中央に戻ってるんだっけ」
時間が止まったみたいに感じた。
止まったのは俺だけだったかもしれない。俺の中だけ。
「バカ! コニー!」
サシャがコニーの口を塞ぐ。
遅い。遅すぎる。もう刺さった。
俺は視線を上げられない。
上げたら、余計に本物になる。
その中で、ミカサの声が落ちた。
「……ジラは、たぶん大丈夫」
淡々とした声。断言。
いつものミカサだ。でも、今日のそれはやけに刺さる。
「……なんの根拠があんだよ」
俺の声は震えてた。
ミカサは俺を見る。
目を逸らさない。刺すでもない。ただ、真っ直ぐ。
「言えない」
一拍。
「でも、大丈夫。……だと思う」
断言を落としたくせに、余計に重い。
知ってるけど言えない、って事か?
俺の喉が、勝手に鳴った。
俺だけ。
俺だけ知らない。
視線が勝手に動く。
フロックを探してしまう。探したくないのに。
――いた。
フロックはいつもの顔をしてる。いつも通り、ムカつく顔。
俺と目が合った。
フロックは、鼻で笑った。
なんだよ。
言いたいなら言え。
言わないなら、見るな。
俺が睨むと、フロックはゆっくり口を開いた。
唇の端を持ち上げる。
「お前……何も知らねぇんだな」
その声は笑っていた。でも目は、笑っていなかった。
乾いてる。
胸の中で何かがギシッと鳴った。
「……何だよ、それ」
自分の声が、思ったより低くて、腹が立つ。
落ち着いてるふりをしてるみたいで、俺が俺じゃない感じがした。
フロックは肩をすくめて、わざと周りに聞こえるくらいの大きさで続けた。
「いや、何も?」
喉の奥がざらっと動いた。唾が上手く飲み込めない。
乾いたまま、言葉だけが詰まる。
――こいつ、わざとだ。
俺が反応するのを見たいだけ、じゃねぇ。
「……フロック。お前、何か知ってんのか?」
俺が言うと、フロックは「はっ」と短く笑って、鼻で息を吐いた。
「知るかよ」
軽い。
軽いのに、わざとらしさがムカつく。
俺は椅子を乱暴に引いた。木が床を擦る音がでかく響く。
何人かが一瞬こっちを見たのが分かった。視線がささる。
でも、引けねぇ。
「知ってるなら言えよ」
言いながら、自分でも気づく。
俺は情報が欲しいんじゃない。
納得が欲しいんだ。
俺だけが取り残されてないって証明が欲しい。
フロックは両手を広げて、芝居がかった顔をした。
「だから知らねぇって。必死だな、お前」
必死じゃねぇ。
俺は一歩で距離を詰めた。
首元を掴む。布越しに骨の感触が伝わる。
「お前、何なんだよ」
言葉が勝手に溢れる。止めようとしても止まらない。
「ジラは、なんでお前にばっかりに言うんだよ。
……惚れてんのか?」
言った瞬間、心臓がズキッと痛んだ。
言うつもりなんてなかったのに。
フロックは眉をひそめて、心底うんざりした顔をした。
そして俺の手を、雑に払い落とす。
「それはねぇ」
吐き捨てるみたいに。
フロックは俺から一歩離れて、わざと周囲を見渡した。
周りの連中の耳が、こっちへ寄っているのが分かる。
フロックは、演説でもするみたいに続けた。
「俺が知ってるのはな、ジラが貴族の中でも変人で、調査兵団志望で、わざわざ兵士になりに来た奇特なやつだってことくらいだ」
周りがざわつく。嫌なざわつきだ。
貴族が調査兵団志望とか、ないだろって。
――ほんとに。なんでなんだよ。
フロックは続ける。
「で、あとは」
俺を見る。
見下すでもなく、見上げるでもなく、妙に真っ直ぐに見てくる。
「お前に対しての惚気を、散々聞かされてるくらいだ」
そう言って、フロックはめちゃくちゃ嫌そうな顔をした。
心底ウンザリってか?
……俺の知らない時間を、あいつは知ってる。
……俺の知らないジラの声を、あいつは聞いた。
胸の奥で、火が燻る。
フロックは鼻で笑う。
「あいつが誰かに殺されるようなたまか?
気にするだけ損だろ」
しっし、と手を振る。
話は終わり。お前の負け。
俺は拳を握った。
殴りたかった。正直、殴った方が楽だった。
でも、殴ってなんになる。
俺が嫉妬してるって証明か?
俺が取り乱してるって証明だろ。
俺がジラに縋ってるって証明。
――そんなもん、渡すかよ。
握った拳を、ゆっくりほどく。
爪が掌に食い込んで痛い。
その痛みでギリギリ自分を繋ぎ止める。
「……損、か」
声が出た。
自分でも驚くくらい、乾いた声だった。
フロックが肩越しにちらっと見てくる。
俺は続けた。
「お前は得してんのかよ」
言った瞬間、フロックの表情が一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
でも、その間に何かが見えた気がした。
得してない。
むしろ、こいつも焼けてんのか。
フロックはすぐにいつもの顔に戻して、鼻で笑った。
「くだらねぇ」
それだけ言って、背を向ける。
頭の中に、嫌な線が一本走った。
――殺してるのが、ジラだったら?
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、そう思ってしまった。
(馬鹿か)
ジラが人を殺す姿なんて、想像したくない。
でも、想像したくないって思った瞬間に、想像が形になりかける。
――ジラが、いつもの笑みじゃない顔で。
誰にも見せない目で。
(やめろ)
俺は、自分の思考を殴りたくなった。
そんなこと考えるくらいなら、心配してるって認めた方がマシだ。
フロックが、一瞬だけ俺を見て、息を吐くみたいに言った。
「……あんな女のどこがいいんだよ」
俺は、何も言えなかった。
言えるわけがない。俺の喉が、いちばん苦しかった。
――ジラ。
俺は、何を知ってる。
俺は、何を守れる。
俺は椅子の背に手を置いたまま、動けなかった。
食堂の喧騒が戻ってくる。戻ってくるくせに、俺の耳は単語だけを拾い続けてる。
マルコが、そっと声をかけてきた。
「……食べようか」
いつもの、柔らかい声。
押しつけない。責めない。引っ張らない。
……頷かないとマルコが困る。
「……ああ」
やっとそれだけ言って、席に戻った。