空気が軽い。
私は私服で砂埃が舞う訓練場の端を歩く。
私は数週間ぶりに、堂々と昼間の訓練兵団へと戻ってきていた。
ある程度の目処はついたから。
やることはまだ山ほどある。
でも、
頭が会いたいと煩い。だから、仕方ないの。
私はそっと後ろから近づいた。
マルコが先に気づいて、目を見開く。
声を出しかけた口が、止まる。
私が人差し指を立てて、唇の前に置いたから。
しーっと、言わなくても伝わる顔で笑うと、
マルコは一拍だけ迷って、それから小さく頷いた。
そのまま近づく。
ジャンはまだ気づいてない。
私は手を伸ばして、ジャンの腕を掴む。
掴んだ瞬間、ジャンの身体がびくっと跳ねた。
「っ!?」
声が裏返りかける。
視線が一瞬でこっちへ寄る。嬉しい。
私は引っ張る。迷いなく。
「ジャン、借りるね!」
マルコへ声を投げる。
軽く。
上機嫌なのは隠さない。
マルコは困ったように笑って、でも止めなかった。
「腹痛とでも言っておくよ」
その言い方に、ジャンの耳が一気に赤くなる。
「お、おい……!マルコ!お前……!」
抗議の形なのに、声が弱い。
足は引かれて、ちゃんと動く。
マルコはもう背を向けていた。
訓練場へと向かう背中。
次の時間は抜けても大丈夫だって知ってる。
残ったのは私とジャンだけ。
そのまま少し歩く。人目がないところまで。
「……お前、いつ戻ってきて……」
ジャンはそう言いかけて、止まる。
私は人があまり通らない壁際まで、ジャンを引っ張った後、ゆっくり振り向いた。
ジャンは止まったまま、視線が私の顔を探す。
探して、見つけて、そこから逸らせなくなる。
それだけでもう、頭が痺れるように嬉しい。
――だから。
私は少しだけ、悲しげな顔を作る。
作るくらいの余裕はある。
「……ダメだった?」
「……会いたかったから、予定変えちゃった」
恥ずかしい気持ちを、そのまま出す。
誤魔化さない。受け取って。
私はジャンを見上げる。
ジャンの喉仏が上下するのが見えた。
言葉を探すみたいに口を開いて、閉じた。
――好き。もっと。
私は掴んでいた腕の位置を変える。
手のひら。指。
ぎゅっと掴んで、目を見る。
ジャンは一瞬目を逸らした。
手はこわばった。でも逃げない。
視線はすぐ戻ってくる。
口が動く。怖々と。
「……会いたかったから、って……」
「そういうの、急に言うなよ」
声が掠れてる。
その声に胸がしめつけられる。
「……俺、」
ジャンは何かを言いかけて、飲み込んだ。
飲み込んだまま、指を握り返してくる。
――俺も会いたかった。
言葉は聞こえない。
でも、全身で言ってるのが分かる。
顔がにやけそうになる。
多分、にやけてる。
ダメ。それは可愛くない。
私は指を絡ませる。
絡ませて、指の関節を確かめるみたいに握る。
もっと。もっと欲しい。足りない。
ジャンの手に力が入った。
奥歯を噛んで、別の言葉に逃げる。
「……今日、どれくらい居られるんだ」
――どうせ、すぐまた居なくなるんだろ。
そんな風に聞こえた。
ジャンは視線を落として、繋がった指を見ている。
見たまま、戻らない。
うん。……そんなに長くはいられない。
どう返そうか。
私は口を開く。
でもその前に、ジャンの声が耳に届いた。
「……離すなよ」
私は止まった。
何をする気……?
ジャンは息を止めて、ゆっくり顔を上げる。
目が近い。
近すぎて、心臓が勝手に鳴る。
繋いだ手が少しだけ持ち上がる。
私の手の甲が、視線の高さまで連れていかれる。
唇が動いた。
「……怒るなよ」
一瞬止まる。
ジャンの目が、私の目を、反応を伺って揺れる。
――私はどう見えたんだろう。
ジャンの目は、耐えるように歪んで、
そのまま――。
唇が、私の手の甲に触れた。
触れたまま、少しだけそのままだった。
唇の感触が、手の甲にじわっと残る。
絡んだ指が、動かせない。
動かしたら終わってしまう。
でも終わらせたくない。
ジャンはゆっくりと手を下ろした。
一瞬眉がグッと寄る。後悔したみたいに。
でも、手は重ねたまま。
重ねたまま、離れない。
私は繋いだ指に力を込めた。
言葉にならないまま、胸の奥が熱くなる。
ジャンは、私の手をまだ握っている。
握っているくせに、目だけは少しだけ逸らした。
目を逸らしても、視線の端でまだ私を見ている。
……そういう所も、好き。
「……ねぇ」
声が勝手に柔らかくなる。
触れられたところが、まだ熱い。
「今の、どこで覚えたの?」
ジャンは眉を寄せた。
言い返したい顔。でも、言い返し方が見つからない顔。
「……覚えたとかじゃねぇよ」
低い声。
でも、さっきより少しだけ弱い。
「……お前が、やっただろ」
――うん。そうだね。
私が最初にやった。
あの夜。手の甲に。
キスさせてくれなかったから、代わりに手の甲。
それが、ジャンの中に残ってた。
残って、こうして返してきた。
私の口角が勝手に上がりそうになって、抑える。
抑えきれてない気もする。
「……覚えてたんだ」
「忘れるかよ」
ジャンの耳が赤くなる。
言い過ぎたって顔をするのに、手は離さない。
むしろ指が少しだけ絡み直される。
力を込める場所を変えて、逃げるのを防ぐみたいに。
私は息をひとつ吸って、吐いてから――言った。
「――好き」
心の声をそのまま出した。
だって溢れるから。出したって全然足りない。
それだけのはずなのに、声が少しだけ震えた。
ジャンの目が揺れる。
揺れて、唇が少し開く。
言いたい。言えない。言うのが怖い。
その全部が顔に出る。
「……お前、そういうの」
「急に言うなって?」
私が先に拾うと、ジャンの眉が跳ねた。
図星の顔。
「……そうだよ」
苛立ったみたいに言って、でも力は抜けない。
握ってる手が、ほどけない。
「……俺、頭が、追いつかねぇ」
そんなの、知ってる。
追いついてない。その顔が好き。
私は笑いそうになって、笑わなかった。
代わりに、ジャンの指をもう一度だけ強く握る。
「追いつくのって、必要?」
ジャンの喉が鳴る。
反論したいのに、声が出ない鳴り方。
「要るんだよ……っ」
言いながら、ジャンは繋いだ手を少しだけ引いた。
引いて、自分の方へ。
距離が縮む。
近い。
近いと、頭が熱くなる。
私がダメになる。
欲張って、加減を間違える。
もっと、欲しい。
ジャンの視線が一瞬だけ私の口元へ落ちて、すぐ戻る。
戻って、歯を食いしばった。
「……キスとか、すんじゃねぇぞ」
低い声。
言った直後に、自分で嫌そうに眉を寄せる。
「……いや、そうじゃねぇ」
「俺が、耐えられねぇ……」
分かってる。
分かってるけど……。
私は拗ねるように口を尖らせる。
目を逸らす。
見てたらしたくなる。
「……逃げられたくないから、しないわ」
嫌われるのも、逃げられるのも。嫌だ。