「……逃げられたくないから、しないわ」
ジラが目を逸らしたまま、拗ねるみたいに言った。
その言い方が、ずる――。
……反射でそう思った自分に腹が立つ。
逃げるのは、お前の方だろ。
――中央で今何してるのか、聞きたくて、同時に聞くのが怖い。……聞かない。
俺は繋いだ手を離さないまま、指に少しだけ力を入れた。
強くしすぎたと思って、すぐ緩める。緩めても、離さない。
「……俺は逃げねぇよ」
喉の奥から出た声は、思ったより低い。
嘘じゃない。嘘にしたくない。
ジラがこっちを見る。
見られるだけで頭が熱くなる。だから先に口を動かした。
「お前が危ねぇとこ行く時。勝手に突っ込む時」
「……前みたいに、いきなり消える時」
「消えたわけじゃ――」
言い返しかけるジラの口を、俺は目で止めた。
止まらねぇのが分かってるから、声を重ねる。
「分かってる。戻ってきた。けどな」
胸の辺りが、ぎゅっと縮む。
言うのが情けなくて、声が乱暴になる。
「俺は、あれで一回死んだんだよ」
「……言い方、悪ぃけど」
誤魔化すみたいに指を握り直す。
風が砂を巻き上げて、足元を擦った。
――手紙。
来なかった明日。
俺がどれだけ悩んだと思ってんだ。
ジラの眉が僅かに動く。
笑いが消えかけて、でも消しきれない。
――こいつ、誤魔化すんだよ。
だから俺は、具体的に言う。
「……俺は、放っとけねぇんだよ」
ジラが少し目を細める。
楽しそうな顔。刺さる顔。
「巻き込むつもりないよ?」
「知ってる」
分かってる。こいつはそういう奴だ。
……この手が、誰かを殺してるかもしれないなんて考えたくない。
「だから、余計に言ってんだ」
ジラの口が少し開く。言い返したい顔。
でも言葉がすぐ出ない顔。
俺はそこに、押し込む。
「お前が巻き込まないって決めるなら」
「俺は勝手に巻き込まれに行くって決めたんだよ」
言った瞬間、自分で自分が嫌になる。
格好つけたみたいで。
でも、今はそれでいい。そうじゃないと動けない。
ジラが小さく息を吐いた。
「じゃあ、ジャンも調査兵団来るの?」
手は繋いだままなのに、手のひらの熱だけがやけに浮く。
……言うな。
その単語、ここで出すな。
俺は、息を吸った。
吸ったのに、喉が詰まる。
――行く。って言いたい。
――俺は憲兵団に入るためにここに来たんだぞ。
――俺が気にしてんのはそっちじゃない。いやそっちも必要だ。
言葉がまとまらない。
ジラは笑ってる。緩い顔。
どっちでもいいみたいな顔。
それが一番腹が立つ。
「……今、その話すんな」
出た声は低い。
怒ってるみたいに聞こえるのが嫌で、さらに腹が立った。
ジラの眉が少しだけ動く。
でも引かない。引かせないって顔。
「ジャンは来なくてもいいのに」
軽い。
軽いくせに、刺さる。
俺は繋いだ指をもう一度握り直した。
逃げないために。逃がさないために。
どっちか分からなくなるくらい、必死で。
「……それも、嫌なんだよ」
言い返そうとして、言葉が見つからない。
見つからないから、雑にする。
「お前が、笑って言うから」
ジラの口角が少し上がる。
楽しそうに。
俺は舌打ちしそうになって飲み込んだ。
調査兵団の話をしたら、俺が弱くなる。
ジラは手を繋いだまま、少しだけ首を傾げた。
「――ジャンは、どうしたいの?」
俺は歯を食いしばった。
言い方を選び直す。
「……分かってんだろ」
言って、繋いだ手を少しだけ持ち上げた。
見せつけるみたいに。
言葉の代わりに。
「俺、これ離したくねぇんだよ」
言い切って、俺は息を止めた。
言葉が熱を持つ。目は逸らさない。
ジラの顔が、一瞬だけ真面目になる。
その一瞬が、怖い。
「……俺は」
喉が鳴る。
なんて言えばこいつは消えない。
分かんねぇんだよ。
「……なんで、いつも居ないんだよ」
ジラが笑う。
でも今度の笑いは、軽くない。
「いるよ?」
「いねぇだろ」
「ひどいな」
「ひどくねぇ」
俺は言い切って、手を離さない。
「……明日って言って、明日いなかっただろ」
言ってから、胸が痛くなる。
痛いのに、言葉が止まらない。
「だから、」
「お前が黙って突っ込むなら、俺だって……」
ジラが、また緩く笑う。
――巻き込むつもりないのに。ってそう見えた。
「……っ!巻き込むつもりがないのが、一番タチ悪いんだよ!」
言い切った瞬間、喉がひりついた。
俺は一度だけ息を飲んで、視線を落とした。
静かになる。俺の息が荒いのが分かる。
言い過ぎた。
でも、引かない。引けない。
――ジラが少しだけ笑う気配がした。
ジラはそのまま、繋いだ手を軽く揺らした。
肯定にも否定にも見える、嫌な揺らし方だ。
ジラはどこか嬉しそうだった。
腹が立つのに、口の端が上がりそうになる。
(……反則だろ、これ)
思った瞬間、また負けるから。
俺は負けたくないのに、もうだいぶ負けてる。
目は、逸らせない。
指同士が擦れる。
汗ばむほどじゃないのに、じんわり熱い。
「ねぇ、ジャン」
繋いだ手が、ほんの少し揺れた。
反射的に、俺は握り直す。
解けないように、じゃない。……いや、そうなんだけど。
そうじゃないってことにしておきたい、みたいな。
――可愛い。
認めたくなくても、可愛い。
ジラがゆっくり首を傾けて、俺の顔を覗き込んできた。
逃げ道を塞ぐみたいに黒髪が流れる。
その目を、俺は真正面から受け止めるしかない。
「――私のこと、好き?」
世界が一瞬、止まった気がした。
風の音が遠くなる。
自分の呼吸の音だけ、変に大きく響く。
目が動かない。肩も動かない。
固まってる自覚はあるのに、体が言うことを聞かない。
動いたのは、唇だけだ。
震えた。情けないくらいに。
ジラが、嬉しそうな顔をしそうで、けど抑えてるのが分かる。
代わりに、繋いだ手の指先で、俺の指をそっとなぞってきた。
指の関節を、一本ずつ。
爪の端を、くすぐるみたいに。
訓練で固くなった皮膚の線をなぞって――。
「……っ」
指がびくっと跳ねた。
勝手に。反射だ。
喉が鳴る。
ごくり、って音が自分でも分かるくらいで、余計に焦る。
ジラは嬉しそうなのか、楽しんでるのか。
その両方なのか。
判断する余裕なんて、今の俺にはない。
俺は、耐えるみたいに息を吐いた。
逃げ場を探して、でも逃げたくない、そんなみっともないところで踏ん張る。
「……好きだって言ったら」
言葉が、喉に引っかかる。
それでも、なんとか押し出す。
「お前、もっと来るだろ」
本音だ。
こいつは、俺が一歩出したら三歩くらい平気で踏み込んでくる。
それが、怖い。
怖いけど。
本当は、それが欲しい。
自分で言ってて、胸の奥がまた熱くなる。
俺はそれを誤魔化すみたいに、唇を噛んだ。
噛んだ瞬間、ジラの視線がそこに引っかかった気がした。
見られてる、って意識した途端、余計に意識してしまう。
「そうだね」
即答だった。
迷いも何もない。
俺の言葉の意味を、ちゃんと理解した上での、その返事。
ぐらりと、足元が揺れた気がした。
「ねぇ、ジャン」
声が変わった。
ふざけてない。
遊んでない。
逃げ場を、ゆっくり減らされる。
「私は、ジャンが好き」
手が、震えた。
俺の。
ジラのせいで。
「……分かったから!」
情けない声が、勝手に出た。
遮らなきゃ、これ以上言われたら、本当に立ってられない。
「……っ、俺の番だろ」
言ってから、自分で少し驚いた。
こんなときに「番」とか言える余裕が、まだ残ってたのか。
いや、余裕じゃない。意地だ。
ジラが、ぱちっと瞬きをした。
想定外って顔だ。そりゃそうだ。俺だって想定外だ。
それでも、目は逸らさない。
逸らしたら終わる。多分、一生後悔する。
喉の奥で、覚悟を転がす。
落とす場所を決めなきゃいけない。
「……好き、だ」
やっと、落ちた。
たったそれだけの言葉なのに、口から出すまでが長すぎる。
でも、出た。
「……だから、」
その先を言おうとした瞬間――。
ジラの指が、俺の指を絡め直した。
ぎゅっと、さっきまでより深く絡む。
そのまま、ゆっくりと引き寄せられた。
距離が、みるみる縮まる。
近づくだけ近づいて、
ギリギリのところで止まる。
(キスしないのかよ)
そこで止まったジラを見て、心の中で訳の分からない悪態をつく。
止まるなら、最初から引き寄せんな。
でも、止まってくれてありがとう。……みたいな。
「もう一回」
喉がまた鳴った。
は?って言いかけて、声にならなかった。
でも顔だけで言ってるのが、自分でも分かる。
ジラは目を細めて、囁くみたいに重ねてくる。
「今の、もう一回」
こいつ、ほんと容赦がない。
俺は一瞬だけ目を閉じた。
このまま気絶できたらどれだけ楽か、なんて馬鹿なことを考えて。
それでも、開く。
観念して、息を吐く。
「……好きだ」
さっきより、小さい声かもしれない。
でも、さっきより逃げてない。
ジラのため、ってより。
これを言った俺を、俺がちゃんと覚えていたいから。
言った瞬間、手のひらの熱が跳ね上がった気がした。
ジラの指に、きゅっと力がこもる。
ほんの少し震えたのが、伝わってくる。
震えてんのは、どっちだ。
「……うん」
それだけ返される。
たった一音なのに、変に満たされる。
もっと何か言われたいくせに、それ以上を求めたら全部壊れそうで、黙る。
ジラがさらに、俺を引き寄せる。
逃げない。逃げたくない。
距離が、近づく。
額と額がくっついた。
体温が、近い。息が、混ざる。
視界の端が白くなるくらいには、頭が真っ白だ。
それでも、どこか冷めた自分が、遠くにいる。
――こいつ、何考えてんだ。
俺の告白を聞いて、俺の手を握り締めて。
こんな近さで目を閉じながら、きっとまた何か企んでる。
人の反応を楽しんで。
それでも、俺の言葉をちゃんと聞きに来て。
ジラは、いつだって俺の理性を壊しにくる。
一緒にいたい。
そのくせ、その願いを口にしたら、何かを失う気がして怖い。
俺の中に残るのは、きっとこいつだ。
何があっても、どこに行っても。
――俺の人生めちゃくちゃだ。