最初に落ちてきたのは、本だった。
――ドサッ。
音はしたのに、足元には何もない。
音だけが重い。紙束が潰れたみたいな、湿った衝撃音。
顔を上げると、空が書庫になっていた。
全部、本棚。
天井の代わりにぎっしりと積まれた背表紙。
タイトルのない本、同じ名前の本、焼けて黒くなった本。
それらが空一面に張り付いて、今にも剥がれ落ちそうに揺れている。
その隙間から、ぽたぽたと――インクが落ちてきていた。
黒い。
でも土に落ちると、赤く変わる。
赤く染みて、地面を塗り替えていく。
「……あぁ、めんどう」
口が勝手にそう呟く。
でも声は出てない。
喉の奥で空気だけが震えて、外には何も漏れない。
代わりに、足音が返ってくる。
カツ、カツ、カツ。
自分の足音じゃない。
数を数える前に、それは「訓練兵団の廊下の足音」として整理される。
反射で分類された情報は、夢の中でも自動で棚に仕舞われていく。
でも、ここは廊下じゃない。
地面は乾いた紙でできている。
踏むたびに文字が潰れて、その文字が足の形になっていく。
足跡は全部、自分の元の名前になっていた。
「xxx」
「xxx」
「xxx」
踏むたびに増えていく。
振り返るたびに、違う字になる。
「嬢ちゃん」
「世界の敵」
「貴族の玩具」
「国の監視対象」
「訓練兵」
「ジラヴェラ」
「ジラ」
背後で、紙が破れる音がした。
ビリビリビリ……
振り向くと、破れていたのは壁だった。
石の壁じゃない。
巨大な書類の束が、輪になって立っている。
あれが壁だと、夢の中の私は納得している。
「消灯時間は守れ!!」
教官の怒鳴り声が、紙の壁の向こうから飛んでくる。
けれど、扉はない。
あるのは巨大な判子だけ。
真っ赤な丸。
「許可済」の文字。
その判子が、ズシン、と音を立てて落ちてくる。
潰れるのは、私じゃない。
判子に潰されたのは、机の上に置いてあった、たった一枚の紙。
――ごめんなさい。
私の字。変なところで跳ねた筆圧。
その上から、無遠慮な朱色がべったりと被さっていく。
「許可」
赤い字が、黒いインクを飲み込む。
許可された「ごめんなさい」は、謝罪じゃなくなる。
ただの手続きになる。
「つまらない」
今度はちゃんと声になった。
自分の声じゃないみたいに甘くて、冷たい。
振り向いたら、ソファーがあった。
書庫の真ん中に、ひとつだけ。
そこにケニーが寝転んでいた。
帽子を顔に被せて、靴を脱いで、まるで自分の家みたいに。
「……嬢ちゃんの夢、窮屈だなぁ」
帽子の隙間から、片目だけが覗いている。
視線は笑ってない。
「貴方がいるからじゃないですか?」
私が肩をすくめると、ケニーは欠伸をした。
口を大きく開けて、笑いながら。
欠伸の中から、刃物が覗いた。
「人を切るのは得意でねぇ」
「紙も、人も、大して変わりゃしねぇ」
ケニーが指先で空を指す。
指の動きに合わせて、空の本棚から本が何冊も落ちてくる。
ドサッ、ドサッ、ドサ……
落ちるたびに、地面が揺れる。
揺れるたびに、紙の壁に亀裂が走る。
その亀裂から、風が吹いた。
風じゃない。
「ジャン」
口が勝手に名前を言った。
呼んだ瞬間、地面が割れる。
足元から、砂埃が上がる。
訓練場の匂いが、紙とインクの匂いに混ざる。
書庫と訓練場の縁が溶けて混ざる。
紙の上に砂がこぼれ、砂の上に文字が浮かぶ。
そこに、ジャンが立っていた。
片側だけ憲兵団、もう片側だけ調査兵団。
真ん中で縫い目だけが赤く光っている。
「お前が縫ったんだろ」
ジャンがぶっきらぼうに言う。
口の動きに合わせて、胸の縫い目が少しずつ解けていく。
ほつれた糸が全部、赤い糸になって、足元まで垂れてきた。
一本、手に取る。
指に絡める。
いつもの癖みたいに、遊ぶみたいに。
触った瞬間、脈が伝わってきた。
「どく、どく、どく」
糸の脈拍。
手首に巻き付いた心臓の形。
「……かわいい」
本心で言うと、ジャンの耳が赤くなった。
でも、その赤が糸に移って、彼の耳はすぐ無色に戻る。
代わりに、足元の赤い糸が眩しくなる。
「……お前、ほんと病気だよな」
フロックに言われた言葉を、ジャンが言った。
言いながら、繋いでない方の手で自分の胸を押さえる。
その手が、胸の縫い目を引き裂いた。
バリッ。
裂け目の奥から、紙があふれ出す。
全部、私の字だった。
――嫌いにならないでね?
――嫌いにならないで。
――嫌いにならないで。
何十枚も同じ文面が、胸の中から溢れてくる。
手紙の形をした臓物が、足元に散らばる。
1枚だけ違う。
――ミカサのことは、憧れだっただけだ。
一瞬で塗りつぶされる。
――嫌いにならないで。
ジャンがうんざりした顔で私を見る。
「……分かってるだろ」
靴底に紙が貼り付く。
「ごめんなさい」が泥で滲む。
それでも、文字は消えない。
「嫌いにならないで」
ジャンは顔を顰める。
ならねぇよ、信じてねぇのか。と言いたそうな目で。
でも、私の喉は固まっていて、声は出てない。
代わりに、ケニーが笑った。
「いやぁ、モテるねぇ。嬢ちゃん」
気づけば、ケニーはジャンの後ろに立っていた。
肩に肘を乗せて、軽くのしかかる。
「こいつ、本当にお前が好きなんだな」
軽い声。
そのくせ、指先はジャンの首にかかっている。
ケニーが帽子を後ろへ放り投げた。
帽子は落ちない。
空の本棚の隙間にぴたりと収まって、そのまま「レイス家」の背表紙になった。
「お前が望んだんだろ」
ジャンの息が乱れる。
苦しいのか、別の理由か。
分からないけれど、その顔が綺麗で、胸が疼く。
「……世界の敵になってくれる?」
自分の声が、別の場所から聞こえた。
見れば、書庫の隅でフロックが壁に背中を預けていた。
中央憲兵の制服。
胸元には、新しいバッジが歪に付けられている。
バッジはひとつだけじゃない。
いくつもいくつも重なって、胸が見えないほど。
「俺は俺だろ」
フロックが吐き捨てるみたいに言う。
言葉を吐くたびに、胸のバッジが一枚ずつ剥がれて床に落ちる。
床に落ちたバッジは、溶けて水になる。
溶けて波紋になる。
「……世界の敵なんか、なる気ねぇよ」
「お前がそこに居るだけだ」
フロックが言い切った瞬間、背後の壁が壊れて、
ウォール・マリアの地図が浮かび上がる。
地図の上を、小さな駒が動いている。
駒のひとつひとつに顔がついている。
エレン。
アルミン。
ミカサ。
ジャン。
フロック。
ライナー。
アニ。
ベルトルト。
ケニー。
そして、「ジラ」と刻まれた駒だけが少し高く掲げられている。
指先が、その駒を摘む。
地面ごと、持ち上げる。
「――選べ」
自分の声が、空から降ってくる。
書庫の上の本棚たちが震える。
インクの雨が、今度は赤と黒の混ざった色で降ってくる。
床に残った水に滲んでいく。
「帰る場所か」
「壊す場所か」
言葉に合わせて、鎖が揺れる。
ジャンの喉元が上下して、苦しそうに息を飲み込む。
本棚の隙間からミカサの目が覗く。
こちらを一度だけ見た。
黒い瞳。
何も言わず、何も求めず。
ただ「見ている」だけの目。
赤い糸が伸びている。
ジャンに。
なんで。どうして。
「あなたと私は同じ」
ミカサが淡々と言葉にする。
地面が傾く。ミカサの黒髪が揺れる。
「違う。一緒じゃない」
だってジャンは貴方を見た。
世界が傾く。滑り落ちる。
気づけば、自分の身体は水の中に沈んでいた。
首まで。
鎖まで。
全部。
水の中で、本の頁がゆっくり広がる。
文字が溶けて、自分の皮膚に貼り付いていく。
「調査兵団」
「憲兵団」
「情報」
「禁書」
「巨人」
「東洋人」
「アッカーマン」
「イェーガー」
「レイス」
「アッカーマン」
「アッカーマン」
「アッカーマン」
同じ単語だけが増殖して、皮膚を覆っていく。
呼吸は苦しくない。
喉は静かだ。
苦しいのは、別の場所だ。
もっと手の届かない場所。
喉の奥が熱くなって、何かがせり上がる。
「私だけの味方が欲しいの」
水の中で、口が動いた。
泡になって音が散る。
それでも、言葉だけは自分の耳に届く。
――俺を見ろ。それが見返りだ
言葉が水に溶けた。
それっきり音が消える。
赤い糸は見当たらない。
遠く、水の外へ伸びている。
手を伸ばす。
届かない。
沈む。
◇
ゆっくりと目を開ける。
まだ暗い。朝には遠い。
もう一度目を瞑ったって、寝られる気はしない。
胸の奥だけが、まだ水の中だった。