壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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38.

 

最初に落ちてきたのは、本だった。

 

――ドサッ。

 

音はしたのに、足元には何もない。

音だけが重い。紙束が潰れたみたいな、湿った衝撃音。

 

顔を上げると、空が書庫になっていた。

 

全部、本棚。

天井の代わりにぎっしりと積まれた背表紙。

タイトルのない本、同じ名前の本、焼けて黒くなった本。

それらが空一面に張り付いて、今にも剥がれ落ちそうに揺れている。

 

その隙間から、ぽたぽたと――インクが落ちてきていた。

 

黒い。

でも土に落ちると、赤く変わる。

赤く染みて、地面を塗り替えていく。

 

「……あぁ、めんどう」

 

口が勝手にそう呟く。

でも声は出てない。

喉の奥で空気だけが震えて、外には何も漏れない。

 

代わりに、足音が返ってくる。

 

カツ、カツ、カツ。

 

自分の足音じゃない。

数を数える前に、それは「訓練兵団の廊下の足音」として整理される。

反射で分類された情報は、夢の中でも自動で棚に仕舞われていく。

 

でも、ここは廊下じゃない。

地面は乾いた紙でできている。

踏むたびに文字が潰れて、その文字が足の形になっていく。

 

足跡は全部、自分の元の名前になっていた。

 

「xxx」

「xxx」

「xxx」

 

踏むたびに増えていく。

振り返るたびに、違う字になる。

 

「嬢ちゃん」

「世界の敵」

「貴族の玩具」

「国の監視対象」

「訓練兵」

「ジラヴェラ」

「ジラ」

 

背後で、紙が破れる音がした。

 

ビリビリビリ……

 

振り向くと、破れていたのは壁だった。

 

石の壁じゃない。

巨大な書類の束が、輪になって立っている。

あれが壁だと、夢の中の私は納得している。

 

「消灯時間は守れ!!」

 

教官の怒鳴り声が、紙の壁の向こうから飛んでくる。

けれど、扉はない。

あるのは巨大な判子だけ。

 

真っ赤な丸。

「許可済」の文字。

 

その判子が、ズシン、と音を立てて落ちてくる。

潰れるのは、私じゃない。

 

判子に潰されたのは、机の上に置いてあった、たった一枚の紙。

 

――ごめんなさい。

 

私の字。変なところで跳ねた筆圧。

その上から、無遠慮な朱色がべったりと被さっていく。

 

「許可」

 

赤い字が、黒いインクを飲み込む。

 

許可された「ごめんなさい」は、謝罪じゃなくなる。

ただの手続きになる。

 

「つまらない」

 

今度はちゃんと声になった。

自分の声じゃないみたいに甘くて、冷たい。

 

振り向いたら、ソファーがあった。

書庫の真ん中に、ひとつだけ。

 

そこにケニーが寝転んでいた。

帽子を顔に被せて、靴を脱いで、まるで自分の家みたいに。

 

「……嬢ちゃんの夢、窮屈だなぁ」

 

帽子の隙間から、片目だけが覗いている。

視線は笑ってない。

 

「貴方がいるからじゃないですか?」

 

私が肩をすくめると、ケニーは欠伸をした。

口を大きく開けて、笑いながら。

 

欠伸の中から、刃物が覗いた。

 

「人を切るのは得意でねぇ」

「紙も、人も、大して変わりゃしねぇ」

 

ケニーが指先で空を指す。

指の動きに合わせて、空の本棚から本が何冊も落ちてくる。

 

ドサッ、ドサッ、ドサ……

 

落ちるたびに、地面が揺れる。

揺れるたびに、紙の壁に亀裂が走る。

 

その亀裂から、風が吹いた。

 

風じゃない。

 

「ジャン」

 

口が勝手に名前を言った。

呼んだ瞬間、地面が割れる。

 

足元から、砂埃が上がる。

訓練場の匂いが、紙とインクの匂いに混ざる。

 

書庫と訓練場の縁が溶けて混ざる。

紙の上に砂がこぼれ、砂の上に文字が浮かぶ。

 

そこに、ジャンが立っていた。

 

片側だけ憲兵団、もう片側だけ調査兵団。

真ん中で縫い目だけが赤く光っている。

 

「お前が縫ったんだろ」

 

ジャンがぶっきらぼうに言う。

口の動きに合わせて、胸の縫い目が少しずつ解けていく。

 

ほつれた糸が全部、赤い糸になって、足元まで垂れてきた。

 

一本、手に取る。

指に絡める。

いつもの癖みたいに、遊ぶみたいに。

 

触った瞬間、脈が伝わってきた。

 

「どく、どく、どく」

 

糸の脈拍。

手首に巻き付いた心臓の形。

 

「……かわいい」

 

本心で言うと、ジャンの耳が赤くなった。

でも、その赤が糸に移って、彼の耳はすぐ無色に戻る。

代わりに、足元の赤い糸が眩しくなる。

 

「……お前、ほんと病気だよな」

 

フロックに言われた言葉を、ジャンが言った。

言いながら、繋いでない方の手で自分の胸を押さえる。

 

その手が、胸の縫い目を引き裂いた。

 

バリッ。

 

裂け目の奥から、紙があふれ出す。

 

全部、私の字だった。

 

――嫌いにならないでね?

――嫌いにならないで。

――嫌いにならないで。

 

何十枚も同じ文面が、胸の中から溢れてくる。

手紙の形をした臓物が、足元に散らばる。

 

1枚だけ違う。

 

――ミカサのことは、憧れだっただけだ。

 

一瞬で塗りつぶされる。

――嫌いにならないで。

 

ジャンがうんざりした顔で私を見る。

 

「……分かってるだろ」

 

靴底に紙が貼り付く。

「ごめんなさい」が泥で滲む。

 

それでも、文字は消えない。

 

「嫌いにならないで」

 

ジャンは顔を顰める。

ならねぇよ、信じてねぇのか。と言いたそうな目で。

 

でも、私の喉は固まっていて、声は出てない。

 

代わりに、ケニーが笑った。

 

「いやぁ、モテるねぇ。嬢ちゃん」

 

気づけば、ケニーはジャンの後ろに立っていた。

肩に肘を乗せて、軽くのしかかる。

 

「こいつ、本当にお前が好きなんだな」

 

軽い声。

そのくせ、指先はジャンの首にかかっている。

 

ケニーが帽子を後ろへ放り投げた。

帽子は落ちない。

空の本棚の隙間にぴたりと収まって、そのまま「レイス家」の背表紙になった。

 

「お前が望んだんだろ」

 

ジャンの息が乱れる。

苦しいのか、別の理由か。

分からないけれど、その顔が綺麗で、胸が疼く。

 

「……世界の敵になってくれる?」

 

自分の声が、別の場所から聞こえた。

 

見れば、書庫の隅でフロックが壁に背中を預けていた。

中央憲兵の制服。

胸元には、新しいバッジが歪に付けられている。

 

バッジはひとつだけじゃない。

いくつもいくつも重なって、胸が見えないほど。

 

「俺は俺だろ」

 

フロックが吐き捨てるみたいに言う。

言葉を吐くたびに、胸のバッジが一枚ずつ剥がれて床に落ちる。

 

床に落ちたバッジは、溶けて水になる。

溶けて波紋になる。

 

「……世界の敵なんか、なる気ねぇよ」

「お前がそこに居るだけだ」

 

フロックが言い切った瞬間、背後の壁が壊れて、

ウォール・マリアの地図が浮かび上がる。

 

地図の上を、小さな駒が動いている。

駒のひとつひとつに顔がついている。

 

エレン。

アルミン。

ミカサ。

ジャン。

フロック。

ライナー。

アニ。

ベルトルト。

ケニー。

 

そして、「ジラ」と刻まれた駒だけが少し高く掲げられている。

 

指先が、その駒を摘む。

地面ごと、持ち上げる。

 

「――選べ」

 

自分の声が、空から降ってくる。

 

書庫の上の本棚たちが震える。

インクの雨が、今度は赤と黒の混ざった色で降ってくる。

床に残った水に滲んでいく。

 

「帰る場所か」

「壊す場所か」

 

言葉に合わせて、鎖が揺れる。

ジャンの喉元が上下して、苦しそうに息を飲み込む。

 

本棚の隙間からミカサの目が覗く。

こちらを一度だけ見た。

黒い瞳。

何も言わず、何も求めず。

ただ「見ている」だけの目。

 

赤い糸が伸びている。

ジャンに。

なんで。どうして。

 

「あなたと私は同じ」

 

ミカサが淡々と言葉にする。

地面が傾く。ミカサの黒髪が揺れる。

 

「違う。一緒じゃない」

だってジャンは貴方を見た。

 

 

世界が傾く。滑り落ちる。

気づけば、自分の身体は水の中に沈んでいた。

 

首まで。

鎖まで。

全部。

 

水の中で、本の頁がゆっくり広がる。

 

文字が溶けて、自分の皮膚に貼り付いていく。

 

「調査兵団」

「憲兵団」

「情報」

「禁書」

「巨人」

「東洋人」

「アッカーマン」

「イェーガー」

「レイス」

「アッカーマン」

「アッカーマン」

「アッカーマン」

 

同じ単語だけが増殖して、皮膚を覆っていく。

 

呼吸は苦しくない。

喉は静かだ。

苦しいのは、別の場所だ。

もっと手の届かない場所。

 

 

喉の奥が熱くなって、何かがせり上がる。

 

「私だけの味方が欲しいの」

 

水の中で、口が動いた。

泡になって音が散る。

それでも、言葉だけは自分の耳に届く。

 

 

――俺を見ろ。それが見返りだ

 

言葉が水に溶けた。

 

 

それっきり音が消える。

 

赤い糸は見当たらない。

遠く、水の外へ伸びている。

 

手を伸ばす。

届かない。

 

沈む。

 

 

 

 

ゆっくりと目を開ける。

まだ暗い。朝には遠い。

 

もう一度目を瞑ったって、寝られる気はしない。

 

胸の奥だけが、まだ水の中だった。

 

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