壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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39.

 

訓練が終わった瞬間、膝の裏が笑った。

久しぶりの訓練は、身体に来る。

 

「……きつい……」

 

誰に聞かせるでもなく漏れた声が、そのまま砂埃に消える。

 

人の気配が薄い建物の影まで、ようやく歩いて、地面に沈み込んだ。

砂の感触も、壁の冷たさも生きてる証拠に変換しないと、やってられない。

 

息を整えていると、視界の端に影がさした。

 

「ジラ、無事か?」

 

心配そうな声。

 

嬉しい。私はそのまま顔に出す。

隠す余裕もない。

 

「大丈夫。生きてる」

 

そう答えると、ジャンは一瞬だけ眉をしかめた。

多分ダメそうだと判断したんだろう。隣にどさっと座り込んだ。

 

私と違って、まだ余裕がある顔。

首筋を伝う汗が一筋、喉元へと流れ落ちていくのが見えた。

少しだけ乱れた息遣いが、やけに格好よく見える。

今私が死にかけてるから?

 

頭は霞みがかっている。

ジャンとの距離が近い。暑い。

でも離れてとは言わない。言いたくない。

 

この位置に座ったってことは、ジャンがこの距離がいいと思ったってことでしょ。

 

好かれてる。嬉しい。

 

本当はこの距離を少しからかって遊ぶ余裕だって欲しい。でも今はそこに回せるエネルギーがない。

 

代わりに、もっと切実な欲求。

 

 

水が欲しい。

 

喉が、頭がさっきからちゃんと仕事してくれない。

自分の水は空。補給場所は、今の私には遠すぎる。

 

からかうついで――いや、今はついでが本命。

 

「ねぇ、水、残ってる?」

 

「ん?どうした」

 

返ってきた返事は、いつもよりすこしだけ低く聞こえた。

視線が絡んだ瞬間、さっきまでの疲労が少しだけ薄くなった。

 

……その分を、からかう気力に回したくなるけど、今日はがまん。

 

「私の、空なのよ」

 

「なんだ、早く言えよ」

 

ジャンは腰から自分の水を外して、私に差し出した。

気づいてないのかな。

……気づいてないふり、かもしれない。どっちでもいい。

水が欲しいのは本当だ。

 

「ほら」

 

「ありがと」

 

蓋を開ける。

一瞬だけジャンの視線を感じて、それから唇を水の縁にそっと押し当てる。

 

冷たくはない。それでも体内に水が流れていく軌道が分かる。

喉が大げさに動く。

 

……生き返る。

 

一口、二口。

肺にまで水が落ちてくる感覚を味わってから、ふと横を見る。

 

ジャンが、ようやく気づいたみたいな顔で、こっちを見て固まっていた。

 

遅い。かわいい。

 

そのまま、何回か嚥下する。喉が上下する。

ジャンの視線が、そこに刺さってるのが分かる。

 

「……何見てるの?」

 

わざと何でもない風に問いかけると、ジャンは一瞬視線を逸らす。

 

「……見てねぇよ、もういいのか?」

 

そう言いつつ、片手を伸ばしてくる。

 

「まだ残ってるよ」

 

口元が緩む。

さっきよりはちゃんと笑えてる、はず。

私は水を持ったまま、ジャンの方へ手を伸ばす。

 

……どうせなら。

 

少しぎこちない動きで、私は水をそのままジャンの口元へと運んだ。

「ほら。ジャンも飲んで」

 

ためらいがちな手が伸びてきたから、そのまま水を渡す。

 

ジャンの唇が、そのまま水の縁に触れる。

さっきまで、私が触れていた場所。

あ。……少しだけ、私が飲んだ位置からズラした。

 

意識してる。

どこか胸がくすぐられる。

 

喉仏が動く。

私が飲んだ水を、飲んでる。

 

「……あんまり見んな」

 

口を離したあと、視線をそらしてジャンはそれだけ言った。

水を軽く振って残りを確かめる。まだ少しあるらしい。

 

「やだ」

 

喉の渇きはだいぶ収まってきた。

けど、まだ飲みたい。からかいたい。

 

私は手を伸ばす。

「もう少し、飲んでいい?」

 

ジャンの喉仏が、また小さく動いた。

迷った顔。それでも、手は引っ込まない。

 

「……勝手にしろ」

ぼそっと言いながら、もう一度差し出してくる。

 

受け取って、また一口だけ飲む。

 

そこへ、訓練場の方から声が飛んできた。

 

「おーい、いちゃいちゃしてんなよー!」

 

コニーの声。うるさい。

 

「うっせ! ほっとけ!」

 

ジャンが即座に噛みつく。

でも、離れない。そこがいい。

 

別の班の誰かがニヤニヤしながら通り過ぎる。

 

「お前ら、やっとくっついたのか」

 

「やっととか言うな!」

 

ジャンはからかわれるのがうざったくなったのか、壁に背中を預けるように体勢を変えた。

私はその動きに合わせて、ずれないように少し身体を寄せる。

 

「あいつら、好き勝手言いやがって」

 

ジャンは小声でそう呟いた。

耳の横で、低い声が震える。疲労と、ちょっとした苛立ちと。

 

私は蓋を閉めてから、わざと何でもない顔をした。

 

「私は嬉しいけどな」

 

怪訝そうな視線がこちらに向く。

でも説明する前に。

 

ジャンの肩に、そっと自分の体重を預ける。

 

「……疲れたから」

 

いいよね?

 

ジャンの肩が、びくっと跳ねた。

そのあと、私を安定させるように少しだけ動いて、そのまま力を抜く。

 

「……お前なぁ」

 

文句みたいな声が頭の上で落ちてきたけど、どかされはしない。

むしろ、体重を預けやすい角度になった。

 

しばらく、そのまま。

 

ジャンの体温と、息遣いと、鼓動。

訓練場のざわめきが遠ざかっていく。

 

――こういうのを、日常って呼ぶのかもしれない。

私は日常をほとんど知らないから、定義は怪しいけれど。

 

ジャンが、迷うような、決意するような、変な間を挟んでから声を出した。

 

彼の心臓の鼓動が、さっきより早くなった気がした。

私のも、多分同じくらい速い。

 

「なぁ、ジラ」

 

やっと、彼が口を開く。

迷いを引きずったみたいな声。

 

「――もう、中央は行かないでいいのか?」

 

聞くんだ。

 

聞きたくない方の内容なのに。

偉いな、と思う。馬鹿、とも思う。

 

「うん」

 

教官の顔が浮かぶ。

真面目で、少し頑固で、私を扱いかねてる顔。

 

……これ以上休暇を貰ってたら、もう一年訓練兵をやれとか普通に言われる勢いだった。

 

貴族とか関係なしに。あの人、心配してるんだろうな。

教官としては、いいのか悪いのか。

教える側が先に心を壊してちゃ、務まらないけれど。

 

そうやって考えを遠くに飛ばしていると――

 

手が握られる感覚。

予告なしに、指先をすくわれた。

 

「……っ」

 

反射で肩が動く。

見上げると、ジャンが、いつもよりほんの少しだけ真面目な顔をしていた。

 

さっきよりもずっと近い距離。

彼の瞳の中に、自分が映っているのが分かる。

 

逃げ場がなさそうな顔。

でも、逃げないと決めた人間の顔でもある。

 

「……次のさ」

 

喉の奥で一回転がした言葉を、彼がゆっくり押し出す。

 

「ん?」

 

「次の休暇」

 

そこまで言ってから、また一拍、沈黙。

指先に力が入る。

 

 

「お前、その……空いてるか?」

 

絞り出すみたいな声から、私は目をそらした。

 

 

 

空いてない。空けられない。

 

ジラとして外を動ける貴重な休日。

訓練兵所属の最後の休日。

 

既にやることが山ずみで、そこに合わせて計画を組んでいる。

 

いくら今頭が動いていないからと言って……。

 

急速に頭が冷えていく。

 

ジャンの指が、少し強くなる。

その熱が、現実みたいで。

 

現実って何。

 

――私、何のためにやってるんだっけ。

 

私が私であるために。

私と同じ視界にみんなを染めてやりたいから。

 

――なんで?

 

ジャンと一緒にいる方が幸せじゃないの?

 

――私が私じゃなくなるから。

 

私でいることってそんなに重要?

 

 

そこまで一気に思考が飛んだ。

答えは出ない。

 

 

変わりに、言葉が零れていた。

 

「……予定、あるんだけど、

 空けられないか、やって見る」

 

口元は自然な笑み。

出来てると思う。体が覚えてるから。

 

 

ジャンは一瞬詰まった後、私の指を撫でた。

 

「……無理はすんなよ」

「……本当にダメなら先に言え」

 

私は、もう、ジャンとの時間を作るために、組み直し始めている。

 

――中途半端がいちばんダメなのに。

 

でも口では言葉を返す。

 

 

「大丈夫。ちょっとだけでも作る」

 

そこで気づく。

 

「……ちょっとだけだと、ダメ?」

 

そのためにジャンの時間使う程じゃない……?

 

ダメなんてジャンは言わない。

知ってて聞く。

 

――嫌われたくない。

 

矛盾してる。

それなら全部やめるべきだ。

 

計画を続ければ私はジャンの前からいなくなる。

死ぬかもしれない。

 

平穏とは程遠い世界へと行く。

ジャンの好む場所じゃない。

 

――だから今くらいは。

 

 

そう思ったって、思考の奥は変わらない。

 

繋いだ指が温かい。

温かいのが、怖かった。

 

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