訓練が終わった瞬間、膝の裏が笑った。
久しぶりの訓練は、身体に来る。
「……きつい……」
誰に聞かせるでもなく漏れた声が、そのまま砂埃に消える。
人の気配が薄い建物の影まで、ようやく歩いて、地面に沈み込んだ。
砂の感触も、壁の冷たさも生きてる証拠に変換しないと、やってられない。
息を整えていると、視界の端に影がさした。
「ジラ、無事か?」
心配そうな声。
嬉しい。私はそのまま顔に出す。
隠す余裕もない。
「大丈夫。生きてる」
そう答えると、ジャンは一瞬だけ眉をしかめた。
多分ダメそうだと判断したんだろう。隣にどさっと座り込んだ。
私と違って、まだ余裕がある顔。
首筋を伝う汗が一筋、喉元へと流れ落ちていくのが見えた。
少しだけ乱れた息遣いが、やけに格好よく見える。
今私が死にかけてるから?
頭は霞みがかっている。
ジャンとの距離が近い。暑い。
でも離れてとは言わない。言いたくない。
この位置に座ったってことは、ジャンがこの距離がいいと思ったってことでしょ。
好かれてる。嬉しい。
本当はこの距離を少しからかって遊ぶ余裕だって欲しい。でも今はそこに回せるエネルギーがない。
代わりに、もっと切実な欲求。
水が欲しい。
喉が、頭がさっきからちゃんと仕事してくれない。
自分の水は空。補給場所は、今の私には遠すぎる。
からかうついで――いや、今はついでが本命。
「ねぇ、水、残ってる?」
「ん?どうした」
返ってきた返事は、いつもよりすこしだけ低く聞こえた。
視線が絡んだ瞬間、さっきまでの疲労が少しだけ薄くなった。
……その分を、からかう気力に回したくなるけど、今日はがまん。
「私の、空なのよ」
「なんだ、早く言えよ」
ジャンは腰から自分の水を外して、私に差し出した。
気づいてないのかな。
……気づいてないふり、かもしれない。どっちでもいい。
水が欲しいのは本当だ。
「ほら」
「ありがと」
蓋を開ける。
一瞬だけジャンの視線を感じて、それから唇を水の縁にそっと押し当てる。
冷たくはない。それでも体内に水が流れていく軌道が分かる。
喉が大げさに動く。
……生き返る。
一口、二口。
肺にまで水が落ちてくる感覚を味わってから、ふと横を見る。
ジャンが、ようやく気づいたみたいな顔で、こっちを見て固まっていた。
遅い。かわいい。
そのまま、何回か嚥下する。喉が上下する。
ジャンの視線が、そこに刺さってるのが分かる。
「……何見てるの?」
わざと何でもない風に問いかけると、ジャンは一瞬視線を逸らす。
「……見てねぇよ、もういいのか?」
そう言いつつ、片手を伸ばしてくる。
「まだ残ってるよ」
口元が緩む。
さっきよりはちゃんと笑えてる、はず。
私は水を持ったまま、ジャンの方へ手を伸ばす。
……どうせなら。
少しぎこちない動きで、私は水をそのままジャンの口元へと運んだ。
「ほら。ジャンも飲んで」
ためらいがちな手が伸びてきたから、そのまま水を渡す。
ジャンの唇が、そのまま水の縁に触れる。
さっきまで、私が触れていた場所。
あ。……少しだけ、私が飲んだ位置からズラした。
意識してる。
どこか胸がくすぐられる。
喉仏が動く。
私が飲んだ水を、飲んでる。
「……あんまり見んな」
口を離したあと、視線をそらしてジャンはそれだけ言った。
水を軽く振って残りを確かめる。まだ少しあるらしい。
「やだ」
喉の渇きはだいぶ収まってきた。
けど、まだ飲みたい。からかいたい。
私は手を伸ばす。
「もう少し、飲んでいい?」
ジャンの喉仏が、また小さく動いた。
迷った顔。それでも、手は引っ込まない。
「……勝手にしろ」
ぼそっと言いながら、もう一度差し出してくる。
受け取って、また一口だけ飲む。
そこへ、訓練場の方から声が飛んできた。
「おーい、いちゃいちゃしてんなよー!」
コニーの声。うるさい。
「うっせ! ほっとけ!」
ジャンが即座に噛みつく。
でも、離れない。そこがいい。
別の班の誰かがニヤニヤしながら通り過ぎる。
「お前ら、やっとくっついたのか」
「やっととか言うな!」
ジャンはからかわれるのがうざったくなったのか、壁に背中を預けるように体勢を変えた。
私はその動きに合わせて、ずれないように少し身体を寄せる。
「あいつら、好き勝手言いやがって」
ジャンは小声でそう呟いた。
耳の横で、低い声が震える。疲労と、ちょっとした苛立ちと。
私は蓋を閉めてから、わざと何でもない顔をした。
「私は嬉しいけどな」
怪訝そうな視線がこちらに向く。
でも説明する前に。
ジャンの肩に、そっと自分の体重を預ける。
「……疲れたから」
いいよね?
ジャンの肩が、びくっと跳ねた。
そのあと、私を安定させるように少しだけ動いて、そのまま力を抜く。
「……お前なぁ」
文句みたいな声が頭の上で落ちてきたけど、どかされはしない。
むしろ、体重を預けやすい角度になった。
しばらく、そのまま。
ジャンの体温と、息遣いと、鼓動。
訓練場のざわめきが遠ざかっていく。
――こういうのを、日常って呼ぶのかもしれない。
私は日常をほとんど知らないから、定義は怪しいけれど。
ジャンが、迷うような、決意するような、変な間を挟んでから声を出した。
彼の心臓の鼓動が、さっきより早くなった気がした。
私のも、多分同じくらい速い。
「なぁ、ジラ」
やっと、彼が口を開く。
迷いを引きずったみたいな声。
「――もう、中央は行かないでいいのか?」
聞くんだ。
聞きたくない方の内容なのに。
偉いな、と思う。馬鹿、とも思う。
「うん」
教官の顔が浮かぶ。
真面目で、少し頑固で、私を扱いかねてる顔。
……これ以上休暇を貰ってたら、もう一年訓練兵をやれとか普通に言われる勢いだった。
貴族とか関係なしに。あの人、心配してるんだろうな。
教官としては、いいのか悪いのか。
教える側が先に心を壊してちゃ、務まらないけれど。
そうやって考えを遠くに飛ばしていると――
手が握られる感覚。
予告なしに、指先をすくわれた。
「……っ」
反射で肩が動く。
見上げると、ジャンが、いつもよりほんの少しだけ真面目な顔をしていた。
さっきよりもずっと近い距離。
彼の瞳の中に、自分が映っているのが分かる。
逃げ場がなさそうな顔。
でも、逃げないと決めた人間の顔でもある。
「……次のさ」
喉の奥で一回転がした言葉を、彼がゆっくり押し出す。
「ん?」
「次の休暇」
そこまで言ってから、また一拍、沈黙。
指先に力が入る。
「お前、その……空いてるか?」
絞り出すみたいな声から、私は目をそらした。
空いてない。空けられない。
ジラとして外を動ける貴重な休日。
訓練兵所属の最後の休日。
既にやることが山ずみで、そこに合わせて計画を組んでいる。
いくら今頭が動いていないからと言って……。
急速に頭が冷えていく。
ジャンの指が、少し強くなる。
その熱が、現実みたいで。
現実って何。
――私、何のためにやってるんだっけ。
私が私であるために。
私と同じ視界にみんなを染めてやりたいから。
――なんで?
ジャンと一緒にいる方が幸せじゃないの?
――私が私じゃなくなるから。
私でいることってそんなに重要?
そこまで一気に思考が飛んだ。
答えは出ない。
変わりに、言葉が零れていた。
「……予定、あるんだけど、
空けられないか、やって見る」
口元は自然な笑み。
出来てると思う。体が覚えてるから。
ジャンは一瞬詰まった後、私の指を撫でた。
「……無理はすんなよ」
「……本当にダメなら先に言え」
私は、もう、ジャンとの時間を作るために、組み直し始めている。
――中途半端がいちばんダメなのに。
でも口では言葉を返す。
「大丈夫。ちょっとだけでも作る」
そこで気づく。
「……ちょっとだけだと、ダメ?」
そのためにジャンの時間使う程じゃない……?
ダメなんてジャンは言わない。
知ってて聞く。
――嫌われたくない。
矛盾してる。
それなら全部やめるべきだ。
計画を続ければ私はジャンの前からいなくなる。
死ぬかもしれない。
平穏とは程遠い世界へと行く。
ジャンの好む場所じゃない。
――だから今くらいは。
そう思ったって、思考の奥は変わらない。
繋いだ指が温かい。
温かいのが、怖かった。