俺は訓練兵団の制服のまま、草原を走っていた。
走っていた、というより、追いかけていた。
前を走っているのは――ミカサだ。
腕に抱えたパンが妙に誇らしげで、朝日に照らされて、光って見えた。
……美しい。
なんでパン抱えて光り輝けるんだよ。さすがミカサだ。
俺は後ろから叫ぶ。
「ミカサァ!! そのパン、半分くれぇ!!」
自分でも何を言ってるのか分からない。
分からないけど、口からはそう言葉が出た。
ミカサは振り向かない。目の前だけを見て、ひたすら遠くの――エレンの方へ走っていく。
俺は立ち止まった。
草が揺れる。風が冷たい。
胸の奥が、変に熱い。
気づいたら、隣に――
白馬に乗ったジラがいた。
白馬、だぞ。
いや、まずそこからおかしい。訓練兵団に白馬なんかいたか?
でもジラは当たり前みたいに馬上で笑っている。
あの、ちょっと雑で、挑発的で、俺の神経を逆撫でする笑い方。
「お腹すいてるの?」
俺は反射で叫んだ。
「違う! 違うんだ!? 俺はミカサが……っ」
言ってる自分が訳わかんねぇ。
ジラは馬上から俺を見下ろす。
黒髪が風にほどけて、やけに綺麗だった。
綺麗、なんて言葉をこいつに使うのも癪なのに、脳が勝手にそう判断する。
「――じゃあ私にする?」
世界が静かになった。
草が揺れる音も、息の音も、遠くの鳥の声も、全部止まった気がした。
背後で、パンが地面に落ちる音がする。
トンって、妙に軽い音。
拾おうとして手を伸ばしたのに、身体が動かない。
動かないどころか、いつの間にか俺はジラの目の前にいて――
近い。近すぎる。黒い目が、俺の中の何かを覗いてる。
笑ってるのに、優しくない。
「――二人だけの秘密ね?」
その声が耳に触れた瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「――――ッ!!」
飛び起きた。
天井。木の梁。薄いカーテン。
汗が背中に張りついて、寝巻きが冷たい。
息が荒い。喉が乾く。
心臓だけが訓練中みたいに暴れている。
「……なんだよ、それ……」
頭の中に、まだ草原が残っている。
パンの落ちる音と、ジラの声。
あいつの黒髪が風に揺れる感じまで、やけに細かい。
「――ジャン坊! 起きてるんなら早く降りてきて、手伝っておくれ!」
母さんの声が階下から飛んできた。
そうだ。休暇だ。俺の部屋だ。草原でも訓練場でもない。
「――ジャン坊! まだ起きてないのかい?」
「うるせぇ!! 起きてんだよ!!」
返事が荒くなる。
荒くなるのは、寝起きのせいじゃない。
(――二人だけの秘密ね?)
脳にこびりついて離れない。
あいつの声は、なんでああいう言い方をするんだ。
俺のことなんかどうでもいいみたいに。
じゃあなんであんなこと言うんだよ!
「……なんなんだよ、あいつは」
(恋してる女の子に、横槍入れて楽しい?)
こっちも蘇る。
刺さる言葉しか言わねぇ。
しかも妙に正しい感じがするのが最悪だ。
俺はミカサが好きだ。
……いや、好きって言うな。違う。
ミカサはエレンしか見てない。
それも分かってる。分かってるのに、諦めるって言葉が口に乗らない。
「……パンくらい、くれてもいいじゃねぇか」
出てきたのがそれなのが、自分でも情けない。
◇
母さんに買い出しを押し付けられて、町を歩いた。
袋が重い。
休暇ってのは、休ませる気がないのかもしれない。
「ジャン坊、久しぶりじゃねぇか」
「訓練兵団行ってんだよ。またすぐ戻る」
「憲兵団入るんだったな! 頑張れよ」
近所の親父が笑って、野菜を一つおまけしてくれた。
ここは俺の地元だ。知り合いが多い。
だからこそ、変な顔をしたくない。
なのに。
曲がり角で、どこかで見た気がする黒髪が視界を掠めた。
反射で目が引っ張られる。
黒い。黒すぎる。光の中で青く見える、あの黒。
「……ジラ?」
自分でも驚くくらい、小さい声だった。
ただの見間違いだ。休暇だ。ここにいるわけがない。
分かってるのに、足が止まる。
そのつぶやきに、あいつは気づいたのか、気づかなかったのか。
黒髪の女が、ふっとこっちを見た。
……見えた気がしただけかもしれない。
でも確かに、口元が動いた。
人差し指を口に当てて、静かに。
(ひ、み、つ……?)
「はぁ!?」
声がでかい。
周りの視線が一斉に刺さる。
「な、なんでもねぇ!」
俺は慌てて視線を戻した。
もう一度、ジラがいたはずの場所を見る。
……いない。
そこにはただ、角を曲がる人影と、風に揺れる洗濯物と、地面の影だけがあった。
黒髪なんて、どこにもない。
喉が詰まる。
袋がやけに重い。
「……なんなんだよ」
俺は小さく呟いた。