休暇当日の夜だった。
石畳の路地を、何度も曲がる。
右、また右、今度は左。
建物の陰を縫うみたいに歩きながら、後ろを振り返らないようにして、でも耳だけは研ぎ澄ませていた。
足音も気配も、分からない。
でも、
「……どうせ、ついてきてんだろ」
ミカサとアルミン。
あいつらが俺を放っておくわけがない。
だから、曲がった。
何度も、何度も。
振り向かない。
撒くために動くたび、胸の奥がチクチクした。
こんなこと、やりたくてやってるわけじゃない。
──数日前のことを、思い出した。
◇
夕食の時間はとっくに終わってて、訓練場の端っこはやけに静かだったのを覚えてる。
訓練場の隅、木製の柵にもたれかかって空を見上げる。
壁の向こう側なんて当然見えない。見えないけど、あっちに巨人がいることだけは分かってる。
――駆逐してやる。
何回も何回も、頭の中で同じ言葉繰り返してるのに、
胸の中のイライラは、たいして減らない。
「壁の中にいりゃ安全だ」とか、
「調査兵団は無駄死にだ」とか、
あの手のこと平気で言える奴らの顔が、次々浮かぶ。
あいつらの目には、何が映ってんだ。
自分のことしか考えてねぇ、腐った大人たちと同じじゃねぇか。
そう考えてたら、近づいてくる足音が聞こえた。
ミカサかアルミン。
そう思って振り返った。
けど違った。
「やぁ、エレン」
ジラ。
風に揺れる黒髪が、妙に整って見える。
中央の貴族。なのに訓練兵。意味が分からないやつ。
ミカサの友人。最近はジャンとやたら近い。
……こいつが声かけてくるの、珍しいどころじゃねぇな。
「何の用だよ」
喉にはまだ苛立ちがこもる。声が荒い。
ジラは肩をすくめて、柵に腰掛けた。木がきしむ。
「んー引き抜き的な話かな?」
「は?」
引き抜き?
何を、誰から、どこへ。
「私が調査兵団志望なのは知ってる?」
「……噂ではな」
貴族が調査兵団。笑い話だと思ってた。
壁の外に出るとか命を賭けるやつらじゃねぇ。
……違ったのか。
「そ」
軽い。声が。
ジラは立ち上がって、俺の正面に回る。
視線が真っ直ぐ刺さる。
「調査兵団は、死にたがりの行く場所。死に急ぎ野郎、とか言われてたね?」
「ああ?喧嘩売ってんのかよ」
一歩踏み出しかける。けど、ジラは動じない。
「そうじゃないよ」
笑う。
その笑いが気に入らない。馬鹿にしてるのか、試してるのか分からない。
「調査兵団は何のためにある?」
そんなの――決まってる。
「巨人を駆逐するためだ」
喉が勝手に震える。
胸の奥からせり上がってくる言葉を、止められない。
「駆逐して、外を見るためだ」
夢見がちなことを言ってるって、また誰かに笑われるかもしれない。
それでも、俺は止まれない。
「壁の中で家畜のように過ごすだけじゃねぇ、外に自由を取り戻すための場所だ!」
空気が震える。
叫んだ声が訓練場の端っこで反響した気がした。
ジラはその全部を、途中で遮ることもせずに聞いていた。
細かく頷きながら、目を逸らさず、ただ受け止めるみたいに。
「そうだね」
静かにそう言って、視線を少しだけ上にあげる。
「その代償に、常に天秤には心臓が掲げられる」
一瞬、背筋がヒヤッとした。
兵団でよく聞く台詞。心臓を捧げよ。
「……それがどうした。何も賭けないで、得られるわけがないだろ」
「正しい。でも今は、天秤が釣り合ってないのよ」
「意味が分からねぇ」
眉間に皺が寄る。
こいつの言葉は、いつもややこしい。
頭はいいんだろうけど、回りくどい言い方ばっかりしやがる。
……アルミンなら、もっと分かりやすく説明してくれるのに。
俺が露骨に「分かんねぇ」って顔したんだろう。
ジラはその表情を見て、ふっと息を漏らす。
「私は、ただ命を投げ捨てる、今の調査兵団に行くつもりは無いの」
「は?志望してるって言っただろ」
「あら。命を投げ出す場所ってことは否定しないのね?」
言葉が詰まる。
否定、できるか?
俺は死ぬつもりはない。けど、死ぬ可能性が高い場所だってことは、分かってる。
ジラは姿勢を正す。まるで講義でも始めるみたいに。
「調査兵団が悪いんじゃない。この国が、そういう場所にしているの」
「国?」
貴族のくせに、国を悪く言うのか。
「この壁の中で生きられない人達。……そうね」
ジラは視線を横に流し、遠くを一瞬だけ見やった。
「エレンの言葉で言うなら、
家畜として育てられない凶暴種」
「……なんだと」
凶暴種。
喉の奥が熱くなる。
「そういった人たちをひとまとめにして置くと、勝手に死んでくれて、手間が減った。効率的だね。
って場所なのよ。――今の調査兵団は」
吐き捨てたわけでもない。
だけど、ジラの言葉はやけに冷たく聞こえた。
吐き気がする。
「ふざけんなよ」
足が勝手に動く。ジラとの距離が縮まる。
「そんなわけあるか。調査兵団は――」
「栄誉ある部隊?」
言葉を奪われる。
「壁の外で人類のために戦う、英雄たち?」
「そうだ!」
叫ぶ。
反射だ。理屈じゃない。
「本物だ!自由を求めて戦った!それで死んだとしても、壁の中で何も考えてないやつより何倍だって凄い!」
呼吸が荒い。
胸が痛い。
ジラは俺を見つめている。
そして、笑った。
優しくもなく、冷たくもなく。
ただ、確信を持った顔で。
「ミカサやアルミンが死んでも、同じこと言うつもり?」
喉が締まる。
空気が重い。
「……決まってんだろ」
即答できなかった自分に腹が立つ。
ミカサは死なない。あいつは強い。俺よりも。
アルミンは賢い。必ず道を見つける。
そう思わなきゃ、前に進めない。
ジラが一歩近づく。
逃げたくない。けど、心臓が速い。
「エレンは、巨人を駆逐したいのよね」
「ああ」
迷いはない。
「――巨人が人間だとしたら、あなたはどうする?」
風が止んだ気がした。
耳鳴り。
何を言ってる?
「は?」
「例えばの話よ。
巨人の正体が、私たちと同じ人間だったら?」
冗談に聞こえない。
笑っているのに、目が笑っていない。
「そんなわけ――」
言い切れない。
巨人は人間を食う。笑いながら踏み潰す。母さんを喰った。あの光景が脳裏に焼き付いている。
――でも、人の姿をしている。
「もしそうだったら?」
ジラは逃がさない。
問いが、刃物みたいに突き刺さる。
「それでも駆逐する?」
胸がざわつく。
母さんの血。瓦礫。叫び声。
あの巨人の顔。
もし、あれが人間だったら?
人間が、母さんを喰った?
「……関係ねぇ」
声が低い。
「人間だろうが何だろうが、巨人として俺たちを襲うなら敵だ」
言いながら、自分の中で何かが軋む。
ジラは目を細める。
「意思、強いわね」
「当たり前だ」
迷ってなんかいない。
迷う理由がない。
「じゃあ、その人間に家族がいたら?」
言葉が重なる。
「あなたと同じように、母親を想っていたら?」
やめろ。
触れるな。
「それでも?」
視線が逸らせない。
「……俺は」
喉が乾く。
「俺は、自由が欲しい」
絞り出す。
「俺たちの自由を奪うやつは、全部、敵だ」
ジラはしばらく黙る。
風がまた吹き始める。
柵がきしむ音。
「エレン」
声が少しだけ低い。
「あなたは、本当に自由が欲しいの?」
「なんだと」
「それとも、怒りの行き先が欲しいだけ?」
心臓が強く打つ。
怒り。
母さんを奪われた怒り。
壁に閉じ込められた怒り。
何もできなかった自分への怒り。
「違う!」
否定する。
けど、胸の奥がざらつく。
ジラが近づく。
そのまま、俺の胸に指を当てた。
心臓の位置。
「――これを捧げるに値するのは、
自由?それとも、復讐?」
触れられた場所が熱い。
振り払おうとして、できなかった。
「私はね」
ジラの声が静かに落ちる。
「調査兵団を、死に場所にするつもりはないの」
「……」
「命を投げる場所じゃなくて、命を使う場所にしたい」
命を、使う。
投げるんじゃなくて。
「そのためには」
ジラの目が鋭く光る。
「あなたが必要なの」
風が止む。
世界が、少しだけ軋む。
理解が追いつかない。
けど、言葉の重さだけは分かる。
「……だから引き抜き」
ジラはそう言って手を下ろして、1歩下がった。
詰めていた息が少し戻る。
「……俺に、何しろって言うんだよ」
「見える敵だけが敵じゃないのよ」
ジラはそう言って、また遠くを見つめた。
空が広い。
壁は見えない。
俺を囲っている檻。
それとは別になんかあるってのか?
ジラの問いが、頭の中で渦巻く。
巨人が人間だったら。
自由が怒りだったら。
調査兵団が、国の都合のいい処理場だったら。
「エレン」
名前を呼ばれる。
妙に真面目な響きで。
「次の休暇、私にくれない?」
「……は?」
一瞬、話が飛んだ気がした。
「休暇?」
「そう。必要な人を集めてるの」
必要な人。
その言い方が、妙に引っかかる。
「エレンは、特に重要な手がかりかもしれないのよね」
手がかり?
俺が?
胸の奥で、何かがドクンと鳴る。
俺はただ、巨人を殺したいだけだ。
外に出たいだけだ。
それ以外に、何があるって言うんだ。
「そこで、全部話すわ」
ジラの目が、まっすぐ俺を射抜く。
冗談じゃない。
ふざけてもいない。
本気だ。
「でも……」
「ミカサやアルミンには、内緒にしてね?」
その瞬間、反射的に眉が動く。
「なんでだよ」
「情報が漏れれば、死ぬ人が増えるわ」
淡々としている。
感情がないわけじゃない。
でも、覚悟がある声。
「――隠して」
心臓が強く打つ。
隠す?
ミカサに?
アルミンに?
あいつらは、俺の――
「……必要、なんだな?」
「えぇ」
「……俺、嘘つくの苦手なんだけど」
思ったより弱い声が出た。
ジラは小さく笑う。
「なら、余計なことは考えないで」
風がまた吹く。
黒髪が揺れる。
「言えないって言い続けるだけでもいいわよ」
簡単に言う。
「……お前、性格悪いな」
ジラは肩をすくめる。
「よく言われるわ」
それで終わりみたいに、あっさりしている。
沈黙が落ちる。
遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
建物の向こう側。
壁の内側。
安全な場所。
でもここは、やけに息苦しい。
だから、確かめに行く。
その時はそれだけ決めて、俺はその場を離れた。
◇
――その確かめる日が、今日だ。
ジラから示された場所について、初めて後ろを振り向いた。
……誰もいない。
ほんとに撒けるとは思ってなかった。
これで着いてきてくれてれば、撒くのが無理だったって言い訳できたのに。
喉が鳴る。
「……これでくだらねぇ話だったら、ぶん殴る」
誰に聞かせるでもなく呟いて、気を持ち直した。
◇
で、扉を開けたら遅いって言われるし、説明は翌日って言われるしで、散々だ。
――明日のほうが揃うの。人が。
ジラの言い方に、帰る選択肢なんてなかった。
泊まるなんて言ってこなかったのに。
そのまま部屋に放り込まれた。
翌日。
泊まった場所から繋がっていた、地下へと歩く。何人かが同じ方向へと向かう。
来た時みたいに、またいくつかの扉を通ると、
そこは広い空洞だった。
思っていたより、ずっと大勢がいた。
同期も何人か見えた。
ジラ。
ライナー。
ベルトルト。
アニ。
ユミル。
フロック。
何だこの人選……。
奥にはよく分からない薄汚れた、どこか頭の良さそうなおっさん達。若いやつもちらほら。
中央憲兵の服を着た、なんか偉そうな人達も散っている。
それに。
――調査兵団の人だ。
エルヴィン団長と、リヴァイ兵長。
なんなんだよこれ。
俺はここにいていいのか?
ミカサやアルミン、やっぱり連れてくりゃ良かったか。
なんで居ないんだよ。
あれくらいで、撒かれてんなよ。