目を開けた瞬間、胸の奥がひゅっと縮む。
知らない天井だった。
見慣れた隊舎の木の梁も、実家のぼろい板張りもない。白とも灰色ともつかない、のっぺりした天井がじわっと視界を埋める。
――どこだ、ここ。
「おはよう、ジャン」
落ち着いた声がして、反射でそっちを向いた。
「……アルミン?」
視界に入った金髪に、一瞬だけ安心しかける。
けどすぐ、その安心した自分に腹が立った。
なんでお前がいる。
俺は――家で寝てた、はずだ。
ジラを追っかけて、見失って。ミカサと一緒にエレンを追って、そっちも見失って。
隊舎に戻ったら、お前はいなかった。
どうしようもなくて、そのまま解散して、俺は実家に帰って――。
そこまで思い出したところで、首の後ろがじくっと疼いた。
違う。
一回起きた。
喉が渇いて、水を飲もうとして、……その後が、ない。
「……っ」
反射で手を上げようとして、ジャラッ、と耳に嫌な音が刺さった。鉄の擦れる音。手首に、冷たい感触。
見下ろすと、両手首に鉄の輪。
鎖が繋がってて、ベッドの柱にぐるりと回されてる。
……何が起こってんだ。
アルミンはベッド脇の椅子に座っていた。俺の顔を一度だけじっと見て、ほんの一瞬だけ、眉を下げる。謝る前みたいな、責められる前みたいな顔。
けど、その目の奥は妙に澄んでいた。覚悟を決めた人間の目だ。
すぐに、その表情を消して、いつもの真面目なアルミンの顔に戻る。
「ジャン。君は……」
一拍、置く。わざとらしいくらいに。
「――洗脳されてるんだ」
頭の中で、音が止まった。
背骨の内側を、冷たいものがぞわっと這い上がる。
洗脳。
アルミンの声だけが、やけにはっきり聞こえる。
「は?……アルミン、何言って」
俺は軽く声に出す。震えてなんかねぇ。
アルミンは態度を変えない。
「ジラは、そういうことをする人だ」
さらっと続けられて、喉が鳴った。
否定の言葉が、すぐには出てこない。
「ジャンも分かるよね?」
アルミンの目が、真っ直ぐこっちを見る。
真剣で、苦しそうで、でも、どこか冷静だ。
洗脳。人を操るってことか?
ジラは、人の扱いが上手ぇ。それは認める。
でも。
――俺の好きな気持ちまで、あいつの手口みたいな扱いすんなよ。
胸の中で、何かがギリッと鳴る。
「……んな、わけねぇだろ」
やっと出た声は、自分でも分かるくらい震えてた。否定なのに、弱い。余計に腹が立つ。
アルミンはすぐには反論しない。少しだけ視線を落として、それから声を落とす。
「……よく考えてみて?」
その言い方が、妙に優しいのが腹立つ。
「ジャンは元々、ミカサが好きだったよね」
胸の奥がひやっと冷えた。
やめろ。そこでミカサを出すな。
「あれは、……憧れだっただけだ」
気まずげに噛み付く。
なんでみんな知ってんだよ。
アルミンは頷きもしないで、淡々と続ける。
「確かに、見た目はどこか似てるんだ」
「――似てねぇよ」
否定した。
自分でも驚くくらい、すぐ出た。
「目と髪が黒いくらいだ。中身、全然違ぇだろ」
ミカサは、真っ直ぐ過ぎるし、何もかも強い。
ジラは、笑って誤魔化して、全部飲み込む奴。でもあれは強いんじゃねぇ、あれは……。
似てるわけ、ない。
俺は自然と目を伏せた。
アルミンは俺の言葉を否定しない。
また外側だけ柔らかくした言葉が、降ってくる。
「……ジラは錯覚を、利用したんだ」
静かに告げる声。
「ジャンが自分を好きになるように。
ミカサへの気持ちと混ざるように。そう仕向けた」
俺はアルミンへと視線を戻す。
アルミンの目は、ゆっくりと俺から外れた。
表情は苦しそうなのに、その視線だけは刺すみたいに冷たい。
「ジャンはその、……遊ばれてるんだよ」
喉の奥で、なにかが切れた。
「は?」
ひきつった声が出る。
遊ばれてる?
俺が?
「ジラは、人の痛いところを見つけるのが上手い。
傷つけるのが楽しいんだ」
アルミンは、あくまで分析するみたいな調子で続ける。
「タチが悪いのは、その後だよ」
「聞いたことない?
君にだけ。誰にも言わない。秘密。みたいな言葉」
――二人だけの秘密。
「そういった甘さを向けて、傷だらけの人の心に滑り込む」
心臓が、ぎくりと跳ねた。
あの時のジラの笑いが、鮮明に浮かぶ。
喉の奥でくすっと笑う、あの声。
そうだ。あれが最初だ。
違う。
ジラは言ってた。
――惚れてくれたら、いいように使ってやろうって、そう思ってた。
俺はもう知ってる。
最初は、……そうだ。遊びだったのかもしれない。
でも。
――今は、違うから。
――私、人を好きになったの、ジャンが初めて。
触れていた手の体温を思い出す。
……あれが嘘なわけ、あるかよ。
「遊ばれてたのかどうかくらい、
俺が一番分かってる」
言いながら、無意識に手首に力が入る。
鎖がギチッ、と鳴った。
アルミンを睨みつける。
こいつは何がしたいんだ。
アルミンはただ、視線を落とした。
「貴方だけ。君にしかできない」
ぽつりと落とすみたいに言葉をこぼしてから、続ける。
「ジラがそう言った言葉を向ける相手って、ジャンだけじゃないんだよ」
「誰だよ」
反射で噛み付く。
「……フロックか?」
名前が勝手に口から出た。
アルミンは目を伏せたまま、それを肯定とも否定ともつかない沈黙で受け止める。
その沈黙が、答えと言っているように聞こえて腹が立った。
「ジラは今頃フロックと……」
そこでアルミンは言葉を切った。言いかけた言葉を飲み込むように、奥歯を噛む。
勝手に頭の中に浮かぶ。
ジラが、あの剣呑な笑みをフロックに向けている姿。
俺の知らない顔で。俺なんか知らないって顔で。
もしかしたら俺に向けてた目を、そのまま――。
頭に血が上る。
違う。違うだろ。
錯覚でも、洗脳でもない。そんな馬鹿げた話、あるわけがない。あいつが笑った顔も、からかう声も、真剣に俺を見つめた目も、全部、全部――。
だったら何だ。全部仕組まれてたって言うのか。
俺が勝手に好きになったんじゃないってのか。
……違う。
最初がどうだろうと、選ぶって決めたのは俺だ。
「……適当なこと言ってからかってんのか?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
喉が焼けてるみたいに熱い。
鎖がまた音を立てる。外せるか試す。びくともしない。
「……ごめん。今君に逃げられると困るんだ」
アルミンが淡々と言葉にする。外すつもりはないらしい。
「……困る?」
思考がうまく回らない。怒りと混乱と、鎖の冷たさが、頭の中をごちゃごちゃにかき混ぜていく。
アルミンがゆっくり息を吸い込む。何かを覚悟するみたいに背筋を伸ばした。
「詳しいことは言えない」
真っ直ぐ、俺を見る。
「今はここに居てくれないか」
その声音には、押しつける力も、命令の硬さもない。ただ必死だった。頼み込むような、それでいて引く気はないと告げる固さが混じっている。
「最悪ジラを信じたままでもいい。
ジラを死なせたくはないだろう?」
胸がぎゅっと締め付けられた。
反射的に、当たり前だ、と叫びそうになる。
でも、その瞬間、さっきの言葉が脳裏に蘇る。
――ジャンだけじゃないんだよ。
ジラはフロックと、今、二人なのか……?
ぐちゃぐちゃだ。
何を信じればいい。自分の感情か。アルミンの理屈か。
しばらく声を出せない。
ジラとフロック。
アルミンはなんで動いてる?
エレン関係か?
ジラと同じ方向に消えた。
ミカサは追ってた。だから俺と同じだ。知らないはずだろ。
エレンを見失って、訓練兵団に戻った時のことを不意に思い出した。
――ユミルどこに行ったか知らない?
――一緒に帰るって言ってたのに。
クリスタが不安そうに、そう話してた。
タイミングが良すぎる。
あのクリスタ馬鹿のユミルが、クリスタに何も言わないで消える?有り得ない。
きっとユミルもだ。
他……あーくそ。分かんねぇ。
ジラ、フロック、エレン、ユミル。
なんなんだよこの人選。何も結びつかねぇ。
アルミンは静かに窓の外へと目を向ける。話し出す気配がない。
何を言うか、何を聞くか。
躊躇っていたら。
足音が聞こえた。すぐにドアが開く。
「おい坊主。……って起きたのか」
見た事ねぇおっさん。
長いコート。つばの深い帽子。
「へぇ……起きてるとこ見るのは初めてだな?」
バカにしたような声でニヤケながら、そいつは部屋に入ってくる。
「……誰だよ」
喉が焼けてるのに、声は勝手に荒くなる。
男は肩をすくめた。
「ケニーだ。ただのケニー。
まぁ、お前をここに攫ってきたヤツだな」
「……は?」
意味を理解するのに、数秒かかった。
理解した瞬間、血が一気に頭に上る。
「てめぇが……!」
体勢も考えずに跳ね起きようとして、鎖がギチっと鳴る。
手首の皮が引きちぎれそうに痛い。
ケニーと名乗った男は、鼻で笑うだけだった。
「おっとそうだった。
あれ、終わったぞ」
ケニーがアルミンへと視線を向ける。
あれ、って何だよ。
アルミンは部屋の隅の椅子に座ったまま、黙って俺を見ていた。
視線が合うと、ほんの一瞬だけ眉を下げる。
「……」
無言で立ち上がると、俺へと近づく。
指が、鎖の金具に触れた。
カチャ、と乾いた音がして、鎖が外れた。
痺れていた感覚が一気に戻ってくる。
「……っ」
俺は反射で手首を押さえる。皮膚が少し赤く擦れていた。
目の前にいるのはアルミン。
そして、ケニーとかいう知らねぇおっさん。
「ふざけんなよ」
声が自分でも分かるくらい低い。
「俺をさらって、縛って、ジラが洗脳とか訳わかんねぇこと言って――」
言いながら、視線をケニーに向ける。
「てめぇがやったんだな?」
ケニーは肩をすくめた。
「俺はこの坊主に頼まれたことを、やっただけだぜ?」
「んなこと信じる訳ねぇだろ!!」
「いいねぇ。若いねぇ」
「……調子乗ってんじゃねぇ」
俺はベッドから降りる。
足が床に触れた瞬間、ふらつきそうになる。
そんな俺の前に、アルミンが立つ。
止めるためじゃない。
殴られるのを待つみたいに、ただ立った。
「ジャン」
名前を呼ばれて、余計に腹が立つ。
アルミンは一瞬だけ眉を下げる。
謝りたい顔。――でも謝らない顔。
「殴ってもいい」
ぽつりと言った。
「僕のこと殴って、スッキリするなら」
その言い方が、最悪に腹立つ。
「スッキリするわけねぇだろ」
俺は吐き捨てる。
「言えよ、説明しろ。
ジラは何をやっていて、お前は俺にどうさせたいんだ?」
アルミンは真剣な顔で息を飲んだ後、口を開く。
「……詳しいことは言えない」
同じ一言で、血が逆流した。
「言えよ!」
「言えないんだ」
アルミン同じ言葉を、何度も言い直す。
俺のためじゃない。自分に言い聞かせてるみたいだった。
「ふざけんな」
俺はアルミンの胸ぐらを掴んだ。布が指に食い込む。
「俺を攫って鎖に繋いで、言えない、で済むかよ」
詰めても、アルミンは首を振らない。頷きもしない。
その隙に、怒りが戻る。
「言えよ。言えないなら――最初から関わらせるなよ」
アルミンの喉が、かすかに動いた。
「数日後に、ジラが君の家に来る」
「ジャンが動きたいように動いて」
――僕から言えるのはそれだけなんだ。