空になった鎖とベッドを見下ろす。
僕の存在を、ジラに気づかれてはいけない。
でもジャンには、動いてもらわないといけない。
ジャンを傷つけて、混乱させて。
僕のこともジラのことも、どっちも信じ切れないように。
これは、ジラの手札を狂わせる唯一の方法だ。
◇
あの日僕は、
ミカサと一緒に、エレンを追いかけていた。
僕ははぐれた振りをした。
路地裏で立ち止まる。
気配なんて読めない。それでも言葉を紡ぐ。
「ケニーさん、ですね」
暗闇から影が顔を出す。
長いコートと深い帽子。
悪趣味なまでに見事な、笑ってない笑顔。
ケニー・アッカーマン。
ジラの、側近の1人。
「……僕を攫えって言ったのは、ジラですか」
最初の一言で名前を出したとき、ケニーの口元が少しだけ吊り上がる。
「なんで知ってんだ?」
予想通りの答えに、胸の奥が冷たく沈む。
「嬢ちゃんが、本気で警戒するだけはあんな。
初めてだぜ?こんな特別待遇は」
ケニーがニヤつきながら続ける。
「お前さん、なんだ?」
その問いに、僕は少しだけ目を伏せた。
――僕は……。
「ただの、アルミンですよ」
そう答えると、ケニーは吹き出した。
「ハッ。ジラの嬢ちゃんがこりゃ正しいな。
『何も変なところは見つからない。でも苦手。勘は信じることにしてるの』
だとさ」
胸の奥が揺れる。
ジラは、やっぱり気づいている。
全部じゃない。
だから僕は動けなかった。
でも彼女が動いた。
ケニーが接触してきた。
動き始めなければいけない。
◇
「なぁ坊主」
ケニーが椅子の背にもたれ、天井を見上げたまま口を開く。
「お前さん、俺に何をさせるつもりだ?」
「嬢ちゃんの想い人攫って、これで終わりってわけじゃねぇんだろ?」
僕は鎖に視線を落としたまま、短く息を吐いた。
「レイス家」
ケニーの笑みが、ほんの一瞬だけ消える。
鎖の冷たさを、あえて無視するように、笑みを作って向き直る。
「ケニーさん。僕をレイス家に繋いでくれませんか」
帽子のつばの下で、目が細まる。
「ほぉ?」
「今すぐじゃなくていい。
近いうちにで構いません。僕はいつか、彼らと話をしなきゃいけない」
静かに言うと、ケニーはあからさまに眉をひそめる。
「嬢ちゃんを差し置いて、か?」
「はい」
迷いなく頷いた。
「僕は、僕の役目を果たしたいんです」
十代の訓練兵の台詞じゃない。
ただのアルミンが言える言葉じゃない。
分かってる。
ケニーも同じことを思ったらしい。
口を歪め、面白がるように目を細める。
「なぁ坊主……」
立ち上がって、ずいと近づいてくる。
コートの裾が床を擦る音が、妙に大きく響いた。
「お前さん、何者だ?」
今度の問いは、さっきよりもずっと真剣だった。
僕は、少しだけ考えてから、見つめ返す。
「――約束をしたんです」
同じ答えを返した。
「でも、『ただのアルミン』でいるために、
僕は、レイス家と話をしなきゃいけない」
ケニーは、しばらく黙って僕を見下ろしていた。
やがて、ふっと目を伏せて笑う。
「……嬢ちゃんが嫌がる顔が、今から楽しみだな」
深く帽子をかぶり直して、踵を返す。
「いいぜ坊主。その話、乗ってやる」
そう言い捨てて、ケニーは部屋を出て行った。
「教えてはダメだ。教えないのもダメだ」
呟いて、自分で苦笑する。
(ごめん)
心の中だけで、もう一度謝る。
ごめん、ジャン。
君のことは信じている。
だからこそ、君には知らないままでいてほしい。
世界の形も。
ジラの全部も。
僕が本当にやっていることも。
ジャンだけが、整いすぎた未来の中で、
合理的じゃない選択肢を選ばせるための鍵だから。
(ジラに洗脳されてる、なんて)
――本当に洗脳してるのは、僕の方だ。