予定より、早く終わった。
「……え?」
自分で自分に問い返すみたいな声が出た。
「だから、お前さんがやることもう無いとよ」
ケニーが肩をすくめる。
「……でも、私がやった方がいいわよね?」
ケニーの言葉に、私は懐疑的に返す。
こんなに人が集まることなんてない。やることなんて山ずみのはずなのに。
「嬢ちゃんが居なくても、もう回り始めてんだよ」
思考が一瞬、空白になりかける。
ケニーはニヤつくように笑った。
あの日後回しにした疑問が頭をもたげる。
――アルミンと、何かありましたか?
――別に?
ケニーには、アルミンの隔離を頼んでいた。
エレンを1人連れ出すため。
アルミンは絶対に、地下に入れたくなかったから。
数時間で済むはずのケニーが帰ってきたのは、フロックの演説が始まる直前。
――もう回り始めてんだよ。
含みがあるように聞こえた。
分からない。
線は繋げない。そう決めてる。決めてるのに頭が勝手に繋げようとしている。
ケニーはアルミンと何を話した?
アルミンは何を考えてる?
何を知ってる?
そんなことより。
思考に雑音が混じる。
――ちょっとだけでも。時間が空けてみる。
空けられる。空けられてしまった。
ジャンに会える。
ケニーを見る。
これが罠だとしても。
アルミンの手のひらの上だとしても。
「――じゃあ、少しだけ、抜けますね」
ここに、今。
私はもう、いらない。
そんなわけは無い。私がいないと……。
違う。
私の代わりは、いくらでもいる。
エルヴィン団長も、フロックも。もう私の代わりを担える。
――ごめんなさい。時間取れなかった。
私は時間を空けることを、あの時諦めた。
私が空けないことを選んだ。
関係ない。
私は今、ジャンに会いたかった。
◇
彼の家の前に立つのは、初めてだった。
場所自体はずっと前から知っている。
地図で確認して、道筋まで頭に入れて、迂回路もいくつか用意して。
でも実際に目の前に立つと、紙の上と全然違う。
思ったより小さい。
思ったより温かそう。
――ここにジャンが住んでる。
変な感じ。
知っているジャンの全部と、今目の前にある家が、頭の中でうまく繋がらない。
呼吸を一つ整えて、拳を握る。
扉の前に立つ。
コン、コン。
思ったより小さな音になった。
やり直したくなったところで、もう遅い。
中から足音。
何かが擦れる音。
ガチャ、と鍵が回る音。
扉が開いた。
「……」
ジャンが立っていた。
訓練兵団で見るのより、少しだけラフな服。
でも、顔はいつもより固い。
眉間に皺が寄っていて、目が、私を見てる。
――なんでそんな顔するの?
「……来たな」
「うん」
「……ほんとに、来やがった」
低く、呟くみたいに。
言葉に含みがある。
何があった。何をされた?
「……来ちゃった」
いつもの癖で、少しだけ明るく返す。
その瞬間、ジャンの眉がぴくりと動いた。
その反応が、嫌な予感みたいに胸に沈んだのを、私は振り払う。
女の人の声がした。
「あら、ジャン坊? 誰?」
ジャンが一瞬だけ顔を引きつらせる。
「母ちゃん、ちょっと外、行ってくる」
「なに、彼女?」
ジャンの背後から、ひょいっと顔を覗かれた。
女の人が、玄関の灯りの中にすっと入ってくる。
頬に生活の皺。手に洗い物の匂い。声の温度が、距離を詰めてくるタイプのそれ。
――ジャンに、近い。
――母親。
私は反射で背筋を伸ばした。
口角が上がる。目の形が整う。呼吸が浅くなる。
貴族の顔を、貼る。
「あらまぁ。かわいい子じゃない」
視線が私の顔をなぞる。
値踏みじゃない。警戒でもない。
ただ、「うちの玄関に立ってる子」を見てる目。
(……分からない)
彼女は駒じゃない。
こういう視線の扱い方を、私は知らない。
知らないから、完璧に微笑むしかない。
「いつもお世話になってます」
頭を下げる角度まで、教科書通り。
声も柔らかい。丁寧。間違いはない。
なのに背中に汗が伝う。
「あらまぁ、礼儀正しいのねぇ。ねぇジャン坊、あんた何したのよ」
「母ちゃん!」
ジャンが真っ赤になる。
怒鳴り声のくせに、どこか安心した音が混じってる。
女の人は笑って、私をもう一度じっと見た。
「あんた……貴族のお嬢様みたいだねぇ」
貴族。
何度も使われた言葉。
その後に続くのは、命令か、檻か、謝罪か。
どれも、私を人じゃないものにするためのラベルだった。
――これは違う。
この人は、笑って言ってる。
善意だ。悪気なんてない。
だからこそ、分からない。
私は笑みを崩さない。
崩せない。
でも、返事がほんの少しだけ遅れた。
「……そう、見えますか」
声は綺麗に出た。
綺麗すぎるくらいに。
女の人は何も気にした様子もなく、楽しそうに続ける。
「こういう子がうちの玄関に来るなんてねぇ。
ジャン坊、悪いことしてないでしょうね?」
「してねぇよ!」
ジャンが慌てて言う。
その慌て方を見て、胸の奥がきゅっとなった。
大事にされてる。
口に出さなくても分かる。
この家は、ジャンをジャンのまま置いてる。
脅しも取引も条件もないまま、守ってる。
知らない。
知らない世界だ。
(……羨ましい)
同時に、嫌な熱が喉元まで上がる。
(……壊したい)
壊して、無くしてしまえば。
ジャンはこの知らない場所に逃げられない。
そういう最短ルートが、頭の中に一瞬で浮かんで――
私は、息を止めた。
違う。
それはしてはいけないこと。
考えてもダメ。
これは、絶対に嫌われる。
ジャンは母親の肩をぐいっと押して、半ば強引に扉を閉めた。
私を振り返る。
「外、行くぞ」
「……うん」
手は、伸ばしてこない。伸ばさない。
……眉間の皺。
口の端の硬さ。
こっちを見る目が、いつもよりずっと刺々しい。
(……変だ)
「……ジャン」
名を呼ぶ声は、いつも通りに出た。
いつも通り、に聞こえるはずの音で。
「何か……怒ってる?」
ジャンは答えない。
答えないまま、先に歩き出す。
私は一拍遅れて、その背中についていく。
指先だけが、ずっと冷たい。
◇
家の近くの、少し開けた場所まで歩いた。
家の影が落ちないところ。
道端に腰かけられる低い段差。
ジャンは立ったまま、私は段差に軽く腰を下ろした。
視線の高さが少しだけずれる。
沈黙が落ちる。
「……会いに来たの、ダメだった?」
先に口を開いたのは私だった。
沈黙に負けた。
ジャンの目が、かすかに細くなる。
「……時間、余ったからか?」
「ん?」
「やること終わって、まだちょっと時間あるから。ついでに寄った、って感じか」
喉の奥が、ひゅっと縮んだ。
「ついでじゃないよ。……会いたかったから」
一拍おいて、素直に言う。
ジャンは笑わない。
目を逸らしもしない。
「……なら、なんで最初にそう言わねぇんだよ」
静かな声。
「今の、お前の言い方さ」
言いながら、ジャンは自分のこめかみを指で押さえた。
「ダメだった?って」
真似されると、自分の言葉が急に安っぽく聞こえた。
「……ごめんなさい。そういうつもりじゃ」
「じゃあ、どういうつもりだよ」
被せる声が、少しだけ強くなる。
「……俺に、どう言えば許されるか考えてから喋るなよ」
胸の中で何かがちりっと弾けた。
「……ごめん、なさい」
言葉が、喉で止まる。
ジャンは、ゆっくりと息を吐いた。
それでも落ち着ききれていない呼吸。
突き放される。
嫌われる。
なんで。
どうして。
――私はどうすれば、いい?