「待て!」
叫ぶのとほとんど同時だった。
ジラの肩に手が届くと思った。
一歩で。二歩で。
泣いて、足元だってふらついてたくせに。
なのに、指先は空を掴んだ。
ジラは真っ直ぐ逃げなかった。
後ろに飛ぶみたいに一歩引いて、荷車の影に体を滑らせた。
その後は、似た服、気配、走る影。
俺の目が迷う方に。
一瞬で選んでやがる。
「っ、クソ!」
追いかける。
自分の石畳を蹴る音がやけにうるさい。
速さで追わねぇと、撒かれる。
さっきまで泣いてた女の逃げ方かよこれが。
角を曲がる。
黒髪が見えた気がした。
そっちへ飛び込む。
違う。黒い上着の女だった。
舌打ちが漏れる。
先の分かれ道。
子供が走って横切った。
――走ったら追いつけると思ったでしょう。
言われてもいない声が、頭の中で鳴った気がした。
誰もいない。
黒髪もいない。
「ジラ!」
思わず名前を呼ぶ。
返事なんかあるわけがねぇ。
足を止めるな。
止めたら、そこで本当に終わる。
さらに走る。
角。階段。低い柵。裏口の並ぶ通り。
息が上がる。
喉が焼ける。
なのに、どこにもいない。
「……マジかよ」
ジラはいない。
見失った。
今度こそ、完全に。
息が荒い。
胸が上下するたび、さっきの言葉まで一緒に揺れる。
――私は同じこと、きっとまたやるわ。
――嫌いになるんでしょう。
――じゃあ今、終わっておく方が、いいに決まってる。
「ふざけんなよ……」
吐き捨てた声は、自分でも笑えるくらい掠れていた。
壁に手をつく。
冷たい。
冷たいくせに、頭の中だけぐちゃぐちゃに熱い。
何なんだよ、今の。
何ひとつ終わってねぇだろ。
まだ俺、話の途中だっただろ。
尾けたこと、ちゃんと言おうと思った。
黙ってるのが嫌だったから。
自分だけ逃げ道残すみたいで、気持ち悪かったから。
それで話した。
見失ったことも。
その後ミカサと会ったことも。
別に、何でもねぇ話だ。
本当に、何でもない。
なのに。
「ミカサ?」
あの一言を聞いた瞬間だった。
ジラの顔から、さっきまでの泣き方が全部消えた。
泣き止んだ、とかじゃねぇ。
凍った、って方が近い。
あそこで止まった。
そこから先、あいつ、多分何も聞いてなかった。
俺は説明しようとした。
二人きりっていうか、とか。
エレンを追ってて、とか。
見失って、とか。
でも、もう遅かった。
ジラの中では、そこで全部終わってた、のか?
「……何なんだよ、それ」
誰に向けた言葉でもない。
ミカサと一緒にいたら何なんだ。
あいつの中で何が繋がった。
何を見た。
頭の中で、さっきの泣きそうな笑い方がちらつく。
――進路。どこに行くか迷ってたのって、私が調査兵団に行くから、なんでしょう。
――もう、憲兵団に行けるわね。
そこで、今度は違う意味で頭に血が上った。
「ざけんな……」
拳を壁に叩きつける。
鈍い痛みが返る。
でも、全然足りねぇ。
何でそうなる。
何でそこで、勝手に話を決める。
俺がどこ行くか迷ってんのが、全部お前のせいだとでも思ってんのか。
……いや、全然関係ねぇとは言わねぇ。
お前が調査兵団行くって聞いて、頭がおかしくなるくらいムカついたし、怖かったし、勝手に巻き込まれに行くって思ったのも本当だ。
でも、それだけじゃねぇだろ。
それを、あんな一言で。
「もう憲兵団いけるわね」で片付けんなよ。
俺のことまで、勝手に整理すんな。
息を吐く。
全然落ち着かない。
さっきまで、あいつ、泣いてたんだぞ。
嫌われたくないって。
世界に嫌われるのはいいのに、俺には嫌われたくないって。
ぐしゃぐしゃに泣いて、俺の袖掴んで、ちゃんと頷いて。
あれは嘘じゃなかった。
そこは分かる。
分かるから、余計に腹が立つ。
本気で泣くくせに、
本気で傷つくくせに、
その直後には、俺の言葉を使って逃げる。
――嫌いになるんでしょう。
違うだろ。
そうじゃねぇって、言おうとしただろ。
このままなら、って言ったんだよ。
同じこと繰り返すなって。
終わらせたいわけじゃなかった。
「っ……」
喉の奥に何か詰まる。
怒りだ。
多分。
そうじゃなきゃ困る。
ミカサのことを、何だと思ってんだ。
俺がまだそっち見てるとでも思ってんのか。
それとも、そこまでじゃなくても、比べられたら終わる程度のもんだと思ってたのか。
……そっちの方が、キツい。
あいつの中じゃ、俺の好きはまだその程度なのかよ。
「っ、クソ……!」
もう一回壁を殴りかけて、やめる。
手が無駄に痛ぇだけだ。
代わりに髪を掻き上げて、深く息を吐く。
全然足りない。
全然整理つかない。
ただひとつだけ、はっきりしてる。
終わってねぇ。
あいつが勝手に決めただけだ。
俺は認めてない。
聞いてもねぇ。
頷いてもねぇ。
だから終わってない。
逃げ切ったと思うなよ。
胸の奥で、怒りに似た熱がじわじわ膨らむ。
悔しい。
腹が立つ。
でも、その全部の真ん中に、まだ好きだって感情が居座ってる。
「……俺は逃げねぇって言っただろ」
今さら返事なんかない場所で、呟く。
お前が逃げた。
本気で。
分かってる。
でも、それで終わりにしてたまるかよ。
足を動かす。
家に戻るしかない。
分かるのに、何歩か進んだところで、また振り返る。
ジラが消えた暗がり。
もう何もない。
それでも目が離れない。
同じだ。
俺はまた見失った。