壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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56.フロック視点

 

休暇が終わる少し前。

 

俺はジラより先に、地下から訓練場へと戻っていた。

 

兵舎のから少し離れた倉庫群の中。

上から出入りを禁じられた、用がなければ誰も近寄らない一角の中の、ひとつの倉庫。

 

鍵は俺らしか持ってない。

教官すら持ってない。

 

 

倉庫の中は、相変わらず狭くて薄暗い。

 

「……」

 

机に手をついて、息を吐く。

胸の奥がざわつくのを、無理やり押さえ込む。

 

外はもうとっくに日が落ちていた。

訓練兵団の営舎の灯りも、もう半分以上が消えてる。

 

取りに来た書類を片手に、ふっと思い出した。

 

 

――時間が空いたから、ジャンのとこに行ってくるわね。

 

ジラは浮かれた顔を隠さずに、地下から出ていった。

嬉しそうな顔が思い浮かんで、顔を咄嗟に顰める。

 

もう地下に戻ったか、そのまま2人でいるか……。

――その時。

 

 

コン。

 

小さなノック。

 

心臓がすべるみたいに跳ねた。

 

この隠し倉庫を知ってるやつは、そう多くねぇ。

ケニーか、中央憲兵の何人かと、

 

「誰だ」

 

反射で声が出る。

 

一拍置いて。

 

「……私」

 

少し掠れた声。

――ジラ。

 

 

鍵を外す。扉を開ける。

 

髪は乱れて、頬には乾きかけた涙の跡。

目の縁だけ真っ赤で、笑ってないのに口角だけが、ちょっとだけ上がってる。

 

「……フロック、居たのね」

 

「……入れ」

 

そう言うしかなかった。

 

 

扉を閉めて鍵をかける。

俺はノブを握ったまま、しばらく離せなかった。

 

見ろって分かってるのに、振り向くまでの一歩が重い。

 

ゆっくりと、振り返る。

 

ジラは、部屋の真ん中に立っていた。

いつもの机にも壁にも寄りかからない。

ふとすれば、その場で崩れ落ちそうなバランスで、ただ立ってる。

 

「何やったんだ」

 

俺の声は、自分でも驚くくらい低かった。

 

ジラは、しばらく黙ってた。

喉が、こくりと一度だけ動いた。

 

「――逃げた」

 

「は?」

 

「ジャンから」

 

それだけ言って、ふっと笑う。

笑ってるのに、目だけが全く笑ってない。

 

(あー……)

 

 

胸の奥で、何かが冷える。

 

「ケンカか?」

 

「違う」

 

「じゃあ何だよ」

 

「……分からない」

 

妙に落ち着いた声で言う。

 

「ただ……」

 

ジラはそこで止めた。気づいたかのように俺を見る。

 

 

一歩、俺に近づく。

床板が小さく鳴った。

 

 

「フロック」

 

名前を呼ばれて、胸がざらついた。

 

 

「キスして?」

 

 

唐突に、それ。

 

ほんの一瞬、意味が飛んだ。

 

 

「……おい、止まれ」

「やめろ」

 

声が出た時には、もう目の前に来てた。

 

距離が近い。いつもより、ずっと近い。

手を伸ばせば触れられる距離じゃない。

何もしなくても、今にもぶつかりそうな距離で、止まった。

 

「頭どうかしてんのか?」

 

「元々でしょう」

 

あっさり返してくる。そのくせ、目は真っ直ぐだ。

 

黒い瞳が、まっすぐ俺を捉えて離さない。

涙で潤んだ跡だけ残ってて、今はもう乾いてる。

 

 

「ねぇ」

 

ジラは、俺の胸元を掴んだ。

 

そこで止まる。俯く。

 

「何かで埋めないと、消せないの」

 

甘えるというより、確認するみたいな声。

 

 

「……ジャンの代わりか?」

 

吐き捨てるように言った。

 

ジラは目を伏せた。

 

「……そうかもしれない」

 

「なら」

――離れろ。

 

言葉は出なかった。

 

 

「――一緒に落ちて」

 

そのまま――ジラが距離をゼロにした。

 

 

唇が、触れた。

 

一瞬、呼吸の仕方を忘れる。

 

柔らかい、温かい。

さっきまで泣いてたやつの温度。

 

押し付けてるわけでも、奪ってるわけでもない。

ただ、触れてる。

 

それだけなのに、頭の中が真っ白になりかける。

 

(……あ、やべぇ)

 

胸の奥で何かが跳ね回る。

指先から変な痺れが上がってきて、手に余計な力が入る。

 

もう少し。

もっと、深く――

 

 

ジラの唇が、少し開いた。

 

ぬるい息が、隙間から流れ込んでくる。

同時に、柔らかいものが、俺の下唇に触れた。

 

舌だ。

 

時間が、一瞬だけスローモーションになる。

 

(おい)

 

喉の奥で何かが跳ねた。

 

体は正直だ。

ビクっと反応する。

腹の奥がぴくりと熱を持つ。

 

舌が、もう一度触れる。

さっきより、深く。

今度は入ろうとしてくる。

 

 

もっと。

奥まで。

 

——そう言われた気がした。

 

声じゃない。

体の動きが、そう言ってる。

 

心の中で、派手に舌打ちした。

 

(――あぁもう)

 

 

何かが、折れた。

 

腕を伸ばす。

肩に置くつもりだった手が、自然にジラの首の後ろを掴んでいた。

 

引き寄せる。

さっきまで受け身だった唇を、今度はこっちから押しつぶすみたいに。

 

唇の形なんてどうでもよくなるくらい、力任せに塞ぐ。

 

ぶつかる歯の感触。ジラの息が一瞬止まって、すぐに自分からも押し返してくる。

胸のあたりで小さく拳を握られた。

 

(……っ)

 

舌先が触れた瞬間、頭の中で何かが弾ける。

誘うような舌を捕まえて、逃がさないように絡め取った。

 

ジラの喉から、低い息が漏れる。

 

「……ん」

 

鼻先がぶつかる。頬が擦れる。

距離がなくなるたびに、余計なものが全部、押し出されていくみたいだった。

 

(何やってんだ俺は)

 

そう思うのに、止まらない。

 

 

ジラの首の後ろを掴んだ指に、ますます力が入る。

肩越しに落ちてる髪を、指先がかき分ける。

触ったら、ちゃんと生きてる温度をしてた。

 

 

(ジャンの代わりとか、もう、知らねぇ)

 

今この瞬間だけはそれでいいって思っちまってる。

最悪だ。

 

――一緒に落ちて。

 

こういう落ち方までセットだなんて聞いてねぇ。

 

 

息が続かなくなって、やっと唇を離す。

 

ジラも、俺も、肩で息をしてた。

濡れた唇を、乱暴に手の甲で拭う。

 

頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 

 

「……っは」

 

近い。

互いの息がそのまま顔に当たる距離。

 

ジラは、ぼうっとした目で俺を見て、それから笑った。

さっきの、空っぽな笑いじゃない。

余計なものを全部削り落とした後に残った、厄介なやつだ。

 

 

「ね」

 

掴んでた俺の服を、さらに強く握る。

 

「フロックは、落ちてくれる」

 

「調子に乗んな」

 

反射で言い返してしまう。

声が掠れてた。自分で自分に笑えてくる。

 

 

「……ジャンに、どの面下げて会う気だ?」

 

ジラに向けたはずの言葉だった。

でも、自分にも刺さってる。分かってる。

 

今、目の前で俺の服を握ってるジラと、ジャンの隣で笑うジラが、頭の中で上手く重ならない。

 

睨みつけると、ジラは目を逸らした。

口元だけで笑う。

 

「もう、会えないわね?」

 

「……は?」

 

会えない?誰と。

いや、会うだろ。まだ訓練兵だぞ俺らは。

 

「ジャンと話せ」

 

あいつはどうせ終わってねぇんだろ?

お前だって。

 

ジラは、少しだけ肩をすくめる。

 

「……分かってる。

 休暇終わったらどうせ毎日会うもの」

 

――大丈夫。話すわ。終わらせてくる。

 

 

 

 

 

休暇が終わって早々、ジャンはジラを連れてどこかへ消えた。

 

「来い」

 

聞こえたのは、それだけ。

 

ジラは抵抗しなかった。

むしろ嬉しそうにすら見えた。

 

――終わらせてくるって、本気か……?

 

 

「何だあれ」

横でコニーが小さく呟いた。

 

「さぁな」

口が勝手にそう返す。

興味なんかねぇみたいな声で。

 

けど、消えていく背中から目が離せなかった。

 

横で、マルコが一度だけこっちを見た気配がした。

 

何か言われるかと思ったが、何も来ない。

 

 

「これ、先に片付けよう」

とだけ周りに声をかけたのが聞こえた。

 

コニーがそっちへ向く。

何人かがつられて動く。

 

俺だけが、一拍遅れて視線を切った。

 

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