休暇が終わる少し前。
俺はジラより先に、地下から訓練場へと戻っていた。
兵舎のから少し離れた倉庫群の中。
上から出入りを禁じられた、用がなければ誰も近寄らない一角の中の、ひとつの倉庫。
鍵は俺らしか持ってない。
教官すら持ってない。
倉庫の中は、相変わらず狭くて薄暗い。
「……」
机に手をついて、息を吐く。
胸の奥がざわつくのを、無理やり押さえ込む。
外はもうとっくに日が落ちていた。
訓練兵団の営舎の灯りも、もう半分以上が消えてる。
取りに来た書類を片手に、ふっと思い出した。
――時間が空いたから、ジャンのとこに行ってくるわね。
ジラは浮かれた顔を隠さずに、地下から出ていった。
嬉しそうな顔が思い浮かんで、顔を咄嗟に顰める。
もう地下に戻ったか、そのまま2人でいるか……。
――その時。
コン。
小さなノック。
心臓がすべるみたいに跳ねた。
この隠し倉庫を知ってるやつは、そう多くねぇ。
ケニーか、中央憲兵の何人かと、
「誰だ」
反射で声が出る。
一拍置いて。
「……私」
少し掠れた声。
――ジラ。
鍵を外す。扉を開ける。
髪は乱れて、頬には乾きかけた涙の跡。
目の縁だけ真っ赤で、笑ってないのに口角だけが、ちょっとだけ上がってる。
「……フロック、居たのね」
「……入れ」
そう言うしかなかった。
扉を閉めて鍵をかける。
俺はノブを握ったまま、しばらく離せなかった。
見ろって分かってるのに、振り向くまでの一歩が重い。
ゆっくりと、振り返る。
ジラは、部屋の真ん中に立っていた。
いつもの机にも壁にも寄りかからない。
ふとすれば、その場で崩れ落ちそうなバランスで、ただ立ってる。
「何やったんだ」
俺の声は、自分でも驚くくらい低かった。
ジラは、しばらく黙ってた。
喉が、こくりと一度だけ動いた。
「――逃げた」
「は?」
「ジャンから」
それだけ言って、ふっと笑う。
笑ってるのに、目だけが全く笑ってない。
(あー……)
胸の奥で、何かが冷える。
「ケンカか?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
「……分からない」
妙に落ち着いた声で言う。
「ただ……」
ジラはそこで止めた。気づいたかのように俺を見る。
一歩、俺に近づく。
床板が小さく鳴った。
「フロック」
名前を呼ばれて、胸がざらついた。
「キスして?」
唐突に、それ。
ほんの一瞬、意味が飛んだ。
「……おい、止まれ」
「やめろ」
声が出た時には、もう目の前に来てた。
距離が近い。いつもより、ずっと近い。
手を伸ばせば触れられる距離じゃない。
何もしなくても、今にもぶつかりそうな距離で、止まった。
「頭どうかしてんのか?」
「元々でしょう」
あっさり返してくる。そのくせ、目は真っ直ぐだ。
黒い瞳が、まっすぐ俺を捉えて離さない。
涙で潤んだ跡だけ残ってて、今はもう乾いてる。
「ねぇ」
ジラは、俺の胸元を掴んだ。
そこで止まる。俯く。
「何かで埋めないと、消せないの」
甘えるというより、確認するみたいな声。
「……ジャンの代わりか?」
吐き捨てるように言った。
ジラは目を伏せた。
「……そうかもしれない」
「なら」
――離れろ。
言葉は出なかった。
「――一緒に落ちて」
そのまま――ジラが距離をゼロにした。
唇が、触れた。
一瞬、呼吸の仕方を忘れる。
柔らかい、温かい。
さっきまで泣いてたやつの温度。
押し付けてるわけでも、奪ってるわけでもない。
ただ、触れてる。
それだけなのに、頭の中が真っ白になりかける。
(……あ、やべぇ)
胸の奥で何かが跳ね回る。
指先から変な痺れが上がってきて、手に余計な力が入る。
もう少し。
もっと、深く――
ジラの唇が、少し開いた。
ぬるい息が、隙間から流れ込んでくる。
同時に、柔らかいものが、俺の下唇に触れた。
舌だ。
時間が、一瞬だけスローモーションになる。
(おい)
喉の奥で何かが跳ねた。
体は正直だ。
ビクっと反応する。
腹の奥がぴくりと熱を持つ。
舌が、もう一度触れる。
さっきより、深く。
今度は入ろうとしてくる。
もっと。
奥まで。
——そう言われた気がした。
声じゃない。
体の動きが、そう言ってる。
心の中で、派手に舌打ちした。
(――あぁもう)
何かが、折れた。
腕を伸ばす。
肩に置くつもりだった手が、自然にジラの首の後ろを掴んでいた。
引き寄せる。
さっきまで受け身だった唇を、今度はこっちから押しつぶすみたいに。
唇の形なんてどうでもよくなるくらい、力任せに塞ぐ。
ぶつかる歯の感触。ジラの息が一瞬止まって、すぐに自分からも押し返してくる。
胸のあたりで小さく拳を握られた。
(……っ)
舌先が触れた瞬間、頭の中で何かが弾ける。
誘うような舌を捕まえて、逃がさないように絡め取った。
ジラの喉から、低い息が漏れる。
「……ん」
鼻先がぶつかる。頬が擦れる。
距離がなくなるたびに、余計なものが全部、押し出されていくみたいだった。
(何やってんだ俺は)
そう思うのに、止まらない。
ジラの首の後ろを掴んだ指に、ますます力が入る。
肩越しに落ちてる髪を、指先がかき分ける。
触ったら、ちゃんと生きてる温度をしてた。
(ジャンの代わりとか、もう、知らねぇ)
今この瞬間だけはそれでいいって思っちまってる。
最悪だ。
――一緒に落ちて。
こういう落ち方までセットだなんて聞いてねぇ。
息が続かなくなって、やっと唇を離す。
ジラも、俺も、肩で息をしてた。
濡れた唇を、乱暴に手の甲で拭う。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「……っは」
近い。
互いの息がそのまま顔に当たる距離。
ジラは、ぼうっとした目で俺を見て、それから笑った。
さっきの、空っぽな笑いじゃない。
余計なものを全部削り落とした後に残った、厄介なやつだ。
「ね」
掴んでた俺の服を、さらに強く握る。
「フロックは、落ちてくれる」
「調子に乗んな」
反射で言い返してしまう。
声が掠れてた。自分で自分に笑えてくる。
「……ジャンに、どの面下げて会う気だ?」
ジラに向けたはずの言葉だった。
でも、自分にも刺さってる。分かってる。
今、目の前で俺の服を握ってるジラと、ジャンの隣で笑うジラが、頭の中で上手く重ならない。
睨みつけると、ジラは目を逸らした。
口元だけで笑う。
「もう、会えないわね?」
「……は?」
会えない?誰と。
いや、会うだろ。まだ訓練兵だぞ俺らは。
「ジャンと話せ」
あいつはどうせ終わってねぇんだろ?
お前だって。
ジラは、少しだけ肩をすくめる。
「……分かってる。
休暇終わったらどうせ毎日会うもの」
――大丈夫。話すわ。終わらせてくる。
◇
休暇が終わって早々、ジャンはジラを連れてどこかへ消えた。
「来い」
聞こえたのは、それだけ。
ジラは抵抗しなかった。
むしろ嬉しそうにすら見えた。
――終わらせてくるって、本気か……?
「何だあれ」
横でコニーが小さく呟いた。
「さぁな」
口が勝手にそう返す。
興味なんかねぇみたいな声で。
けど、消えていく背中から目が離せなかった。
横で、マルコが一度だけこっちを見た気配がした。
何か言われるかと思ったが、何も来ない。
「これ、先に片付けよう」
とだけ周りに声をかけたのが聞こえた。
コニーがそっちへ向く。
何人かがつられて動く。
俺だけが、一拍遅れて視線を切った。