休暇が終わって早々。
訓練兵団に戻ってすぐに、ジャンは私の腕を掴んだ。
「来い」
それだけ。
営舎とは逆方向。
兵舎の裏手をぐるっと回って、訓練場のさらに向こう。
人の気配が薄くなる。
私も、ジャンも、口を開かない。
石畳が土に変わる。
踏みしめる音が軽くなった辺りで、腕が離される。
手の圧が消えたのを、寂しく思った。
そんな関係にした。自分がそうしたのに。
ジャンが振り向いた。
眉間に皺が寄ってる。
その顔、好き。
顔が自然と緩む。
「いきなりどうしたの?
こんなとこまで連れてきて」
私は緩んだ顔のまま、ジャンと話す。
好き。私のこと考えてる顔だ。
ジャンの眉間が、さらにぎゅっと寄った。
「……その顔、やめろ」
「なんで?」
微笑む。首を傾げて、ジャンを見つめる。
好き。ジャンが苦しんでる。
私のせいで。
ジャンの喉が、ぴくっと動いた。
「ジラ……」
低い声。
「今、自分がどんな顔してるのか、分かっててやってんだろ」
分かってる。
「ジャンと会えて嬉しい。って顔。ダメ?」
ジャンは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それから、顔を上げる。
眉間の皺が、さっきよりも深い。
「……ダメに決まってんだろ」
「どうして?」
首を傾げる。
分かってる。ちゃんと、分かってる。
でも、止めない。
「私はジャンに会えて嬉しい」
ジャンの瞳が揺れる。
好き。大好き。
震える口元も、歪んだ眉も、握りしめられた手の指も全部。好き。
私はそのまま顔に出す。
隠してもいいことないもの。
ジャンの喉仏が、ぐっと上下した。
一歩、こっちに踏み出してくる。
思わず、息を飲む。
近い。
一瞬、フロックの顔がチラついた。
「……嬉しい、ねぇ」
ジャンは笑わない。
「じゃあ何で、あの時逃げた」
胸の真ん中が裂かれる気分。
来るとわかってたって衝撃は消えない。
「……あの時?」
とぼけるみたいに返すと、
ジャンの眉間がさらに寄る。
「惚けんな」
吐き捨てるみたいな声。
好き。この声も。あんまり聞けない声。
「泣いて、袖掴んで、嫌われたくねぇとか言って、その直後だぞ」
「ミカサの名前出したら、顔から全部消して。勝手に話畳んで、勝手に終わらせて」
喋るたび、ジャンの肩がわずかに揺れる。
怒ってる。ずっと怒ってた。
知ってる。
怒ってくれる。そういう所も、好き。
でも。
「それで、ジャンは何が聞きたいの?」
私はもうそこにはいないの。
胸の中を全部どこか奥に押し込んで、綺麗に畳んだ声だけを外に出す。
ジャンの喉が、ひくりと動いた。
「何が知りたい、じゃねぇよ」
「……あの時なんで逃げたか、って聞いてんだよ」
真正面から。
「嫌われたくないって泣いた直後に、なんで今終わっといた方がいいなんて言えんだよ。
何がどう繋がったら、そうなんだよ」
怒鳴り声じゃない。
抑えてる。
抑えてるから、余計に刺さる。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
ジャンが私を見てる。私だけを。
「――好き。好きなの。だからなのだけれど……」
私はまた首を傾げる。
困ったように眉根を寄せる。
「……言たって、きっと分からないと思う」
私が何を考えてるかなんて、ジャンに分かるわけがない。
それでもジャンが理解しないと、話は終わらない。
それでも聞くの?、と見上げる。
ジャンは眉根を寄せたまま、また1歩、私に近づく。
「……分かんねぇよ」
私の腕に手を伸ばす。
指先が一瞬だけ震えてた。
「分かんねぇから聞いてんだろ」
手首が、さっきより少し強く握られる。
逃げ道を塞ぐみたいに。
「分かろうとしてんのにだぞ」
喉の奥で笑いそうになってるのが分かる。全然楽しくなさそうな笑い方。
「お前がどうせ分かんねぇって決めて、勝手に話終わらせようとしてんだよ」
私は目線をジャンから逸らした。
手首が熱い。
自分の思考をまとめるには、ジャンを思考から追い出さなきゃいけないのに。
手は振り払えない。
理解して貰えるように、組み立てるしかない。
嘘はつけない。
それだと、私が終われないから。
「……人の感情って、揺らぐものなの。
これは分かるでしょう?」
静かに切り出すと、ジャンの手の力がわずかに変わった気がした。
「その時は絶対って思っても、時間が経てば忘れるし、誓いだって脆くなる」
どれだけ強く約束した言葉だって、二年、三年。
季節がいくつか過ぎれば、薄くなる。
塗り直さなければ、剥がれていく。
「もちろん人によるわ」
淡々と言いながら、自分の中で事実と事象と経験を並び変えていく。
「人には人それぞれの性格がある」
「揺らぎやすい場所と、揺らがない芯の場所」
揺れやすいところは、環境や状況で簡単に引っ張れる。
私がよくやる手法。
けれど、どれだけ引っ張っても、誘導しても、追い詰めたってそこに戻っていくような、芯のような場所も確かに存在する。
「講義かよ」
ジャンがぼそっと零す。
ジャンが説明しろって言ったからしてるのに。
それでも緩まない手首に、少しだけ頬が緩む。
「思い込みと、本能の違い」
私はそこに線を引く。
「ジャンにとって――」
一度だけ、息を吸う。
私が目を背けてきた、分かってて認めてこなかったこと。
「私は揺らぎで、ミカサは本能」
はっきりと言い切ると、手首を掴む指先が、ぴくりと跳ねた。
「勝手に決めんな」
イラついてる。
でも、私はジャンの思考を作った。誘導した。
元々そこにいたのは、ミカサだ。
私が誘導を止めれば、戻るだけ。
「……私、誤魔化してなんかないわよ」
ゆっくりと顔を上げる。
視線が、真っ直ぐジャンの目を捉える。
「それでも違うって言うなら、それはジャンがそう思い込みたいの」
「嬉しいけれど、それ偽物よ?」
ジャンは、本物から目を背けてるだけ。
「私の方が手に入りやすいから、手を離したくないのよね」
私は笑う。
だって私を手に入れようとしてくれる事自体は嬉しいから。
私が逃げる理由。
――本物に怯え続けたくない。
それだけ。
信じてないって言われれば、そう。
私は人を信じてない。
でも、
――芯は変わらない。そう信じてる。
ジャンの表情が、そこで完全に変わった。
さっきまで眉間に寄っていた皺が、そのままぐしゃっと崩れる。
怒りとも呆れともつかない、妙な顔。
ジャンは、しばらく黙って私を見ていた。
目の奥に感情が溜まっていく。
怒りなのか、哀れみなのか、失望なのか。
全部かもしれない。
――どんな感情でも、ジャンに見られてると嬉しい。
どこかで狂ったように、そう思った。
「……っ!」
ぐっと手首を引き寄せられる。
身体が一歩分だけ引きずられる。
距離が、詰まる。近い。
「お前さ」
間近で見るジャンの目は、思っていたよりもずっと暗い色をしていた。
「俺のこと、舐めすぎじゃねぇ?」
「そんなこと」
「舐めてんだよ」
食い気味に叩きつけられる。
「手に入りやすいから、本物はミカサだから」
一つ一つ指折りするみたいに並べられる。
「そんな安い理屈で満足するほど、俺の気持ちが軽いと思ってんのかよ」
真剣な目を、そのまま見返す。
「えぇ。思ってる」
淡々と返した。
今のジャンは確かに私でいっぱい。
嬉しい。凄く。
それがどんな感情だって、今の私は満たされてる。
それでも、
「あなたは、私を嫌いになる」
私は掴まれている手に、もう片方の手を重ねる。
「だって私が、そう動かすんですもの」
きゅっと握る。
私は微笑む。ジャンの目を見つめる。
嬉しくて仕方がないという目をそのままに。
「私の事それでも好きって言えるなら。
誓ってもいいわよ?」
そう言った瞬間、ジャンの目が細くなった。
睨まれてるというより、値踏みされてるみたいな目。
数秒だけ、何も言わない。
風の音と、自分の鼓動だけが耳にうるさい。
ジャンは鼻で小さく笑った。
全然、楽しそうじゃない。
「誓っていいとか、何様だよ」
掴んでる手首に、ぐっと力がこもる。
「そんなのに、乗るわけねぇだろ」
低く言い捨てる。
「……そう」
かろうじて出てきた言葉。
ジャンは短く息を吐いた。
「誓いとかいらねぇから言ってんだよ」
ジャンは眉をしかめながらも、目は逸らさない。
「今、俺はお前が好きだって、何回でも言ってやるって言ってんだ」
喉が変な音を立てた。
「……今は、ね」
そこだけ、どうしても引っかかる。
ジャンが露骨に嫌そうな顔をする。
「だからそこだけ拾うなって」
「しゃーねぇだろ、一生絶対とか言ったら、お前それ握りしめて殴ってくるだろ。絶対」
想像できて、言葉が詰まる。
「俺の逃げ道は、俺が決める」
ぼそっと付け足す。
「いつか本当に嫌いになったら、そのときはちゃんと嫌いになったって言う」
「その代わり、今みたいに好きなときは、好きだって言う」
「それで十分だろ」
「わざわざ誓うとか、そんな芝居いらねぇよ」
息が、少し震え始めているのに、自分で気づく。
「お前が、どう動くかはお前の勝手だけどな」
ジャンの手が、手首から少し上にずれる。
逃げ場を探しても、もうない。
「でも、俺がどう思うかまで、お前が決めんなよ」
視線が刺さる。
「嫌いになるタイミングまでお前の想像通りとか、冗談じゃねぇから」
「分かったか?」
分からない。
分からないけれど、ジャンは、私が思ってるより、私のことが好きなのかもしれない。
私はは小さく頷く。
分かったことだけを、言葉にする。
「……今は、好き、なのね?」
自分でも嫌になるくらい、子供っぽい質問。
ジャンは額に手を当てて、深く溜息を吐いた。
「……あーもう、マジでめんどくせぇな、お前」
それでも、ちゃんとこちらを見る。
「今は、好きだよ。クソ」
少しだけ照れて聞こえた。
胸の奥で何かがきしむ。
嬉しい。怖い。嬉しい。
「そう」
それしか言えなかった。
ジャンは、やっと掴んでいた手首を離した。
急に軽くなる。
同時に、変に寒くなる。
「……戻るぞ」
「話は終わり?」
思わず笑ってしまう。
ジャンも、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「終わりだ、終わり」
「……ねぇ、ジャン」
戻りかけた足を、半歩だけ遅らせる。
「何だよ」
「私、またきっと面倒なことするわよ」
予告。宣言。
ジャンはうんざりしたように溜息を吐いた。
「知ってる」
「だからそのたびに文句言うし、止めるし、怒る」
「それでもお前が勝手にやったら、その時また喧嘩しようぜ」
喧嘩。
「……喧嘩だったのね、これ」
「当たり前だろ。
お前がまた何も言わねぇで消えたら、またやるからな」
胸の中のどこかが、きゅっと鳴った。
「……頑張って嫌われなきゃね」
冗談めかして言う。
ジャンは、嫌そうに口を歪める。
「今すぐ、また喧嘩するか?」
「しないわ?」
嫌われたい。でも嫌わないで欲しい。
私の負けだ。
……嫌われたくないから。
嫌われる態度を、取り切れない。
いつもなら並ぶ選択肢が、浮かびすらしない。
訓練場の向こうに、兵舎の屋根が見えてくる。
日常のざわめきに、戻っていく。
――終わらなかった。
それが良かったのかは、分からない。