壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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58.フロック視点

 

ジラの声がする。

 

「……フロック」

 

目を開けたら、地下だった。

 

廊下。灯りが半分死んでて、遠くまで、灰色の闇が続く。

足音が響かない。俺の靴は確かに床を踏んでるのに、音だけ、どっかに吸い込まれてる。

「……何だよ」

 

自分の声だけ、やけにくっきり響いた。

 

廊下の癖に、扉が一つしかない。

ジラがよく使う部屋。

たぶん、あれだ。

 

鍵は、かかってない。

回そうとして初めて気づく。鍵穴がない。

ノブを握る俺の手だけが、やけに汗ばんでる。

 

(夢だな)

 

そこまで考えて、舌打ちしたくなった。

 

夢だって分かってるのに、手が離れねぇ。

むしろ、勝手に回してる。

 

扉が開く。

 

冷たい空気が、肺に刺さった。

なのに、部屋の中は、じっとりと湿ってる。

 

ジラが、真ん中に立ってた。

 

髪は少し乱れてて。

目の縁だけ、真っ赤で。

笑ってないのに、口角だけ上がってる。

 

あの夜みたいに。

 

「……居たのね」

 

声も同じ。

でも、部屋が違う。

 

机も、ベッドも、本棚もない。

代わりに、

 

 

――床一面が血の海だった。

 

 

血の上に、ジラが素足で立ってた。

足が勝手に踏み込む。

音も感触も、ない。

 

「フロック」

 

名前を呼ばれるたび、胸の奥がざらざら擦れる。

 

「何だよ」

 

ジラは、一歩近づく。

 

「キスして?」

 

(これ、あの夜かよ)

 

エコーがかかってるみたいに、同じやり取りが頭の中で何度もリピートされる。

 

なのに、ジラの顔だけは、初めて見る表情をしてる。

笑ってるのに、目の奥が、真っ黒だ。

 

「何かで埋めないと、消せないの」

 

前に聞いた言葉を、同じ声で、違う温度で言う。

 

「ジャンの代わりか?」

 

吐き捨てる。

あの時と同じように。

 

ジラは首を横に振る。

前と同じ。

 

「そうかもしれない」

 

そこで終わったはずなのに、今日は続きがある。

 

 

「……でも、もうジャンはいないもの」

 

喉がひりつく。

 

「……は?」

 

無意識に腕が動く。

ジラの肩を掴んだつもりだったのに、手が通り抜けた。

 

肩がない。

形はあるのに、触れない。

水を掴んだみたいに、指だけが冷えた。

 

ジラは、そのまま俺に寄りかかってくる。

重さはある。

でも、掴めない。

 

 

「嫌いになるって言うんだもの」

 

ジラが笑う。

 

俺は足元を見る。

 

 

人。首から上がない。

でも、これ――ジャンだ。

 

 

「……お前」

 

声が、自分のものじゃないみたいに低かった。

 

「何した」

 

ジラは、嬉しそうに目を細める。

 

 

「……ねえ、フロック」

 

ジラが、俺の胸元をぎゅっと掴む。

 

現実と同じ。

あの夜と同じ。

 

「私、世界の敵になったの」

 

嬉しそうな声。

 

「たくさん死んだわ」

 

顔も知らない誰かが、血の海の下から手を伸ばしてくる。

 

「でも、どうでもよかった」

 

ひとりずつ、ぐしゃりと潰れて床に落ちる。

すぐ血に溶けて沈む。

 

「だって――」

 

ジラが顔をあげる。

目の縁が赤い。

笑ってる。

 

「私には、フロックがいるもの」

 

胸が、きゅっと鳴った。

痛みかどうかも分からない感覚。

 

「世界が私を嫌いになっても」

 

世界が、沈んでいく。

 

「フロックは、私だけの味方でいてくれる」

 

言いながら、俺を見る。

まっすぐ。

 

そうだ。これだ。

いつもこいつは俺をそんな目で見る。

 

俺に、お前を選べと突きつける。

 

だからって。

 

「俺が自分で選んだだけだ。

 選ばなかった道勝手に消してんじゃねぇ」

 

ジラはうっすらと笑う。

知ってた。みたいに。

 

「だから、世界を先に殺したの」

 

喉が、カラカラに乾いた。

 

「……は?」

 

「フロックも、私以外、いらないでしょう?」

 

訓練場も、街も、壁も、全部、血の海の下に沈んでいるのに気づいた。

死体の山に何人か見知った顔が混ざってた気がした。

 

 

ジラが囁く。

腕を俺の首に回す。

 

――お前が止まらなくなったら、

――その時は、やるからな。

 

 

ジラが、俺の耳元に顔を寄せる。

 

「フロックに殺されたいの」

 

聞きたくないのに、聞こえる。

耳から、直接脳に流し込まれる感じ。

 

 

俺は、喉を鳴らした。

声が出ない。

 

「刻んで欲しいの」

 

ゾワッ、と背筋が粟立つ。

 

ジラが、俺の手首を掴む。

そのまま、自分の喉へ持っていく。

指先が、あの位置に押し当てられる。

 

喉。

脈。

首を締める感触。

 

熱が手のひらにじっとり移ってくる。

 

「消えない痕」

 

ジラが、嬉しそうに目を細める。

 

「私に」

 

指先が震える。

押せば潰れる。分かってる。

 

必要なら、やるって言った。

息が止まるまで、ちゃんと見ててやるって決めた。

 

なのに。

 

「……お前」

 

声を絞り出す。

 

「世界ぶっ壊してまで、

 俺にそんなことさせてぇのかよ」

 

ジラは笑う。

 

喉に当てた俺の指に自分の手を重ねる。

逃げられないように。

 

視線は逸らさない。

逸らしたら、全部負ける。

 

「お前は、死にたいんじゃねぇだろ」

 

ジラの瞼が、かすかに揺れた。

 

「死にたいんじゃないわ」

 

囁く。

 

「フロックが欲しいの」

 

甘い。

 

「全部、欲しいの」

 

胸の奥で、何かが折れた音がした。

なのに、胸がじわっと熱くなる。

最悪の、はずだ。

 

「……っ」

 

指に、力が入る。

喉が、少しだけ潰れる。

 

ジラの呼吸が乱れる。目が、細くなる。

喉を押さえつけられてるくせに、口元だけ笑い耐えてる。

 

こいつ、本当に、俺にこういう顔見せるのだけは隠さねぇ。

 

「……やめろ」

 

声が掠れた。

 

「フロック」

 

ジラが、透き通った声で呼ぶ。

 

耳のすぐ横で。

 

「一緒に落ちて」

 

何度も聞いた。

聞くたびに、ろくでもない場所に連れてかれた。

 

――落ちねぇよ。

 

舌は動いた。

喉も震えた。

 

でも、口から漏れたのは、違う音だった。

 

 

「……ああ」

 

肯定かどうか、自分でも分からない曖昧な声。

 

ジラの目が、とろりと笑う。

 

「やっぱり」

 

喉に食い込んだ俺の指に、自分からさらに体重をかけてくる。

指の下で脈が跳ねるたび、俺の心臓まで、鳴る。

 

「フロックは、落ちてくれる」

 

血の海が、

世界を全部、飲み込もうとしてる。

 

代わりに、ジラの声だけが、耳の奥で反響する。

 

「私のこと、殺して」

 

「私だけの味方でいて」

 

「世界全部捨てて」

 

喉の下で、脈が跳ねる。

俺の指が、その鼓動を感じてる。

 

(必要なら、やるだけだ)

 

自分で言ったくせに、今はその言葉が首に縄みたいに絡みついてる。

 

「……っ」

 

息が、うまく吸えない。

ジラのか、俺のか分からない呼吸が、混ざってる。

 

背中の方で、ぱきん、と乾いた音がした。

振り向かなくても分かった。

入ってきた扉が、今消えた。

 

 

ジラが笑う。

声が、妙に優しい。

 

「ここにはあなたと私だけ」

 

全てが血の海に沈んだ。

 

視界が、真っ赤に染まった。

ジラの顔だけが、はっきり見える。

 

見えるのに表情は見えない。

 

「ね、フロック」

 

耳元で囁く声。

 

「私のフロック」

 

「私だけの味方」

 

声が、遠くなっていく。

 

指先の感覚が消えていく。

 

落ちていく。

 

上も下もなくなった世界を、二人で。

 

最後に聞こえたのは、ジラの声だった。

 

「おやすみ」

 

これでやっと、お前だけ見てられる。

 

 

 

喉が潰れたみたいな息で、跳ね起きた。

 

視界が一瞬、真っ赤だった。

血の海。素足。喉の下の脈。

 

「……っ、は……」

 

暗い天井。

いつもの天井。

 

(……夢、か)

 

 

胸も腹も、いやな熱を持ってる。

下の方まで血が降りていってるのが、自分で分かる。

 

歯を食いしばる。

寝ぼけてる誰かが寝返りを打つ気配がした。反射的に身体が固まる。

 

静かだ。

暗い。

俺だけが起きてる。

 

ゆっくり息を吐いて、片手で顔を覆った。

掌の下で、自分の頬が熱い。

 

さっきまで見てた光景が、じわじわ戻ってくる。

 

血の海。首のないジャン。ジラの喉。

――フロックに殺されたいの。

――フロックも、私以外いらないでしょう?

――ここにはあなたと私だけ。

 

全部、俺の頭の中だ。

 

(……俺の、夢だ)

 

誰のせいにもしようがねぇ。

 

「クソ……」

 

声を押し殺したつもりなのに、掠れた音が漏れた。

 

布団の中で、拳を握る。

 

世界が全部沈んだ。

ジラと二人になった瞬間。

俺とあいつだけって、ジラが笑った時。

 

 

――楽だ、って思った。

 

そこだけ、どうしようもなくはっきりしてる。

 

吐き気の代わりに、笑いがこみ上げる。

笑いたくなんかないのに、喉が勝手に震えた。

 

――これでやっと、お前だけ見てられる。

 

「否定できねぇから、最悪なんだっての」

 

呟いた言葉は、誰にも届かずに溶けて消えた。

 

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