ジラの声がする。
「……フロック」
目を開けたら、地下だった。
廊下。灯りが半分死んでて、遠くまで、灰色の闇が続く。
足音が響かない。俺の靴は確かに床を踏んでるのに、音だけ、どっかに吸い込まれてる。
「……何だよ」
自分の声だけ、やけにくっきり響いた。
廊下の癖に、扉が一つしかない。
ジラがよく使う部屋。
たぶん、あれだ。
鍵は、かかってない。
回そうとして初めて気づく。鍵穴がない。
ノブを握る俺の手だけが、やけに汗ばんでる。
(夢だな)
そこまで考えて、舌打ちしたくなった。
夢だって分かってるのに、手が離れねぇ。
むしろ、勝手に回してる。
扉が開く。
冷たい空気が、肺に刺さった。
なのに、部屋の中は、じっとりと湿ってる。
ジラが、真ん中に立ってた。
髪は少し乱れてて。
目の縁だけ、真っ赤で。
笑ってないのに、口角だけ上がってる。
あの夜みたいに。
「……居たのね」
声も同じ。
でも、部屋が違う。
机も、ベッドも、本棚もない。
代わりに、
――床一面が血の海だった。
血の上に、ジラが素足で立ってた。
足が勝手に踏み込む。
音も感触も、ない。
「フロック」
名前を呼ばれるたび、胸の奥がざらざら擦れる。
「何だよ」
ジラは、一歩近づく。
「キスして?」
(これ、あの夜かよ)
エコーがかかってるみたいに、同じやり取りが頭の中で何度もリピートされる。
なのに、ジラの顔だけは、初めて見る表情をしてる。
笑ってるのに、目の奥が、真っ黒だ。
「何かで埋めないと、消せないの」
前に聞いた言葉を、同じ声で、違う温度で言う。
「ジャンの代わりか?」
吐き捨てる。
あの時と同じように。
ジラは首を横に振る。
前と同じ。
「そうかもしれない」
そこで終わったはずなのに、今日は続きがある。
「……でも、もうジャンはいないもの」
喉がひりつく。
「……は?」
無意識に腕が動く。
ジラの肩を掴んだつもりだったのに、手が通り抜けた。
肩がない。
形はあるのに、触れない。
水を掴んだみたいに、指だけが冷えた。
ジラは、そのまま俺に寄りかかってくる。
重さはある。
でも、掴めない。
「嫌いになるって言うんだもの」
ジラが笑う。
俺は足元を見る。
人。首から上がない。
でも、これ――ジャンだ。
「……お前」
声が、自分のものじゃないみたいに低かった。
「何した」
ジラは、嬉しそうに目を細める。
「……ねえ、フロック」
ジラが、俺の胸元をぎゅっと掴む。
現実と同じ。
あの夜と同じ。
「私、世界の敵になったの」
嬉しそうな声。
「たくさん死んだわ」
顔も知らない誰かが、血の海の下から手を伸ばしてくる。
「でも、どうでもよかった」
ひとりずつ、ぐしゃりと潰れて床に落ちる。
すぐ血に溶けて沈む。
「だって――」
ジラが顔をあげる。
目の縁が赤い。
笑ってる。
「私には、フロックがいるもの」
胸が、きゅっと鳴った。
痛みかどうかも分からない感覚。
「世界が私を嫌いになっても」
世界が、沈んでいく。
「フロックは、私だけの味方でいてくれる」
言いながら、俺を見る。
まっすぐ。
そうだ。これだ。
いつもこいつは俺をそんな目で見る。
俺に、お前を選べと突きつける。
だからって。
「俺が自分で選んだだけだ。
選ばなかった道勝手に消してんじゃねぇ」
ジラはうっすらと笑う。
知ってた。みたいに。
「だから、世界を先に殺したの」
喉が、カラカラに乾いた。
「……は?」
「フロックも、私以外、いらないでしょう?」
訓練場も、街も、壁も、全部、血の海の下に沈んでいるのに気づいた。
死体の山に何人か見知った顔が混ざってた気がした。
ジラが囁く。
腕を俺の首に回す。
――お前が止まらなくなったら、
――その時は、やるからな。
ジラが、俺の耳元に顔を寄せる。
「フロックに殺されたいの」
聞きたくないのに、聞こえる。
耳から、直接脳に流し込まれる感じ。
俺は、喉を鳴らした。
声が出ない。
「刻んで欲しいの」
ゾワッ、と背筋が粟立つ。
ジラが、俺の手首を掴む。
そのまま、自分の喉へ持っていく。
指先が、あの位置に押し当てられる。
喉。
脈。
首を締める感触。
熱が手のひらにじっとり移ってくる。
「消えない痕」
ジラが、嬉しそうに目を細める。
「私に」
指先が震える。
押せば潰れる。分かってる。
必要なら、やるって言った。
息が止まるまで、ちゃんと見ててやるって決めた。
なのに。
「……お前」
声を絞り出す。
「世界ぶっ壊してまで、
俺にそんなことさせてぇのかよ」
ジラは笑う。
喉に当てた俺の指に自分の手を重ねる。
逃げられないように。
視線は逸らさない。
逸らしたら、全部負ける。
「お前は、死にたいんじゃねぇだろ」
ジラの瞼が、かすかに揺れた。
「死にたいんじゃないわ」
囁く。
「フロックが欲しいの」
甘い。
「全部、欲しいの」
胸の奥で、何かが折れた音がした。
なのに、胸がじわっと熱くなる。
最悪の、はずだ。
「……っ」
指に、力が入る。
喉が、少しだけ潰れる。
ジラの呼吸が乱れる。目が、細くなる。
喉を押さえつけられてるくせに、口元だけ笑い耐えてる。
こいつ、本当に、俺にこういう顔見せるのだけは隠さねぇ。
「……やめろ」
声が掠れた。
「フロック」
ジラが、透き通った声で呼ぶ。
耳のすぐ横で。
「一緒に落ちて」
何度も聞いた。
聞くたびに、ろくでもない場所に連れてかれた。
――落ちねぇよ。
舌は動いた。
喉も震えた。
でも、口から漏れたのは、違う音だった。
「……ああ」
肯定かどうか、自分でも分からない曖昧な声。
ジラの目が、とろりと笑う。
「やっぱり」
喉に食い込んだ俺の指に、自分からさらに体重をかけてくる。
指の下で脈が跳ねるたび、俺の心臓まで、鳴る。
「フロックは、落ちてくれる」
血の海が、
世界を全部、飲み込もうとしてる。
代わりに、ジラの声だけが、耳の奥で反響する。
「私のこと、殺して」
「私だけの味方でいて」
「世界全部捨てて」
喉の下で、脈が跳ねる。
俺の指が、その鼓動を感じてる。
(必要なら、やるだけだ)
自分で言ったくせに、今はその言葉が首に縄みたいに絡みついてる。
「……っ」
息が、うまく吸えない。
ジラのか、俺のか分からない呼吸が、混ざってる。
背中の方で、ぱきん、と乾いた音がした。
振り向かなくても分かった。
入ってきた扉が、今消えた。
ジラが笑う。
声が、妙に優しい。
「ここにはあなたと私だけ」
全てが血の海に沈んだ。
視界が、真っ赤に染まった。
ジラの顔だけが、はっきり見える。
見えるのに表情は見えない。
「ね、フロック」
耳元で囁く声。
「私のフロック」
「私だけの味方」
声が、遠くなっていく。
指先の感覚が消えていく。
落ちていく。
上も下もなくなった世界を、二人で。
最後に聞こえたのは、ジラの声だった。
「おやすみ」
これでやっと、お前だけ見てられる。
◇
喉が潰れたみたいな息で、跳ね起きた。
視界が一瞬、真っ赤だった。
血の海。素足。喉の下の脈。
「……っ、は……」
暗い天井。
いつもの天井。
(……夢、か)
胸も腹も、いやな熱を持ってる。
下の方まで血が降りていってるのが、自分で分かる。
歯を食いしばる。
寝ぼけてる誰かが寝返りを打つ気配がした。反射的に身体が固まる。
静かだ。
暗い。
俺だけが起きてる。
ゆっくり息を吐いて、片手で顔を覆った。
掌の下で、自分の頬が熱い。
さっきまで見てた光景が、じわじわ戻ってくる。
血の海。首のないジャン。ジラの喉。
――フロックに殺されたいの。
――フロックも、私以外いらないでしょう?
――ここにはあなたと私だけ。
全部、俺の頭の中だ。
(……俺の、夢だ)
誰のせいにもしようがねぇ。
「クソ……」
声を押し殺したつもりなのに、掠れた音が漏れた。
布団の中で、拳を握る。
世界が全部沈んだ。
ジラと二人になった瞬間。
俺とあいつだけって、ジラが笑った時。
――楽だ、って思った。
そこだけ、どうしようもなくはっきりしてる。
吐き気の代わりに、笑いがこみ上げる。
笑いたくなんかないのに、喉が勝手に震えた。
――これでやっと、お前だけ見てられる。
「否定できねぇから、最悪なんだっての」
呟いた言葉は、誰にも届かずに溶けて消えた。