壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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60.

 

書類の束を脇に抱えたフロックと、廊下の角でぶつかりそうになった。

 

「……っと」

 

反射的に身を引く。

フロックは書類を落とさないように肘で抱え直して、面倒くさそうに眉をひそめた。

 

「前見ろよ」

 

「悪かったわね」

 

言い返しながら、視線が自然と書類の端に滑る。

 

地下の資料の目印。

外からの報告だ。

 

フロックの歩いていく先を目で追う。

倉庫の方角。

 

(……ちょうど、いい)

 

「私も行くわ」

 

「は?」

 

フロックが露骨に顔をしかめる。

分かりやすいくらい嫌そうな目。

 

「ちょうどいいから、話しましょう」

 

そう言って、彼の歩く方向にそのまま足を向ける。

止められたら戻ろうと思っていたけど、フロックは舌打ちしただけで、結局何も言わなかった。

 

 

 

扉が閉まる。鈍い音が耳の奥で揺れた。

 

「……で、お前はなんで来たんだ」

 

フロックは書類を机にドサっと乱雑に置いて、言葉を私に向けた。

 

私は倉庫の隅の椅子に、膝を抱えて座る。

 

「先にそっちよ。なんの書類?」

 

視線をフロックへと向ける。

何か緊急になりそうなものかもしれない。

 

フロックはため息混じりに一枚だけ抜き取って目を落とす。

 

「……これ、お前が頼んだやつか?

 今いる調査兵団の連中の、訓練兵時の評価リスト」

 

あぁ、それね。

 

「えぇ。面白そうだと思って。

 置いておいて。暇な時にでも読むの」

 

「物好きが」

 

フロックは書類を机の端に追いやると、雑に椅子に座った。

 

「で、なんだ」

「惚気なら聞かねぇぞ」

 

いつもの、棘だらけの声。

 

笑ってしまいそうになる。

惚気。……惚気かもしれないわね。

 

私は一瞬だけフロックの顔を見て、それから視線を天井の梁に滑らせる。

 

 

「ちゃんと……話したのよ。ジャンと」

 

出てきた声は、思っていたより小さかった。

さっきまでの軽口と違う、喉の奥から出てきたもの。

 

「だろうな」

 

フロックは眉一つ動かさない。

いいの。勝手に話すだけ。

 

「好きだって」

 

「誰が」

 

「ジャンが、私を」

 

「知ってる」

 

フロックは律儀に答えてくれる。

でも納得いかなくて、私は膝に顎を乗せたまま唇を尖らせる。

 

フロックは鼻で笑った。

 

「嬉しくねぇのかよ」

 

「嬉しいわ」

 

そう。嬉しい。嫌われてない。まだ。

今はまだ、私のことを考えてくれてる。

 

 

「嬉しくて、怖い」

「だからここに来たのよ」

 

「何だ?その順番」

 

「順番なんてどうでもいいでしょう」

 

分かってほしいわけじゃないのに。

でも、フロックには言いたかった。

 

ジャンの前では出せないものを、詰め込んで隠し持っている場所。

フロックの目の前だけが、そこをちょっとだけ開けていい場所になってる。

 

(……それが良いことかどうかは、知らないけれど)

 

「終わらせられなかったの」

 

膝に回した腕に、ぐっと力を込める。

 

「これ。絶対に地下に影響出すわよ。私」

 

フロックの目が、ほんの一瞬だけこちらをかすめた。

すぐに紙に視線を落とす。

 

「何とかしろ」

 

返事は、冷たくて正しくて、むかつくくらい真っ直ぐだ。

 

フロックは、机の上の紙を一枚抜き取って視線を落とす。

本当に読んでいるかどうかは怪しい。

 

紙の角がぱらぱらと鳴る音が、やけに大きく聞こえた。

 

 

私は膝に額を押しつけ、目を閉じる。

瞼の裏に、ジャンの顔が浮かんでは消えた。

 

――今は、好きだよ。

 

「今は」って、そんなに残酷で甘い言葉だったかしら。

 

喉の奥がひりつく。

涙なんて出ないのに、水で満たされていくみたいに苦しい。

 

フロックとここにいることも、同じくらいに悪くて、心地いい。

 

何か言えば崩れる気がする。

何も言わなければ、このままどこまでも落ちていけそうな気もする。

 

 

だから、口を開いた。

 

「あの日のこと、無かったことにはしないわよ?」

 

フロックの手が止まる。

紙の端が指の下でしわになった。

 

「……あの日?」

 

視線は紙の上にあるのに、意識はこちらに向いたのが分かる。

 

「……キス」

 

私は膝の上で頬杖をついて、少し笑う。

 

湿った空気。暗い倉庫。フロックの唇の固さと、想像以上の熱。

 

フロックは真顔のまま、私の方を見た。

表情に何も出さないようにしてるのが、逆に分かりやすい。

 

「あれが無かったら、私ジャンと仲直り出来なかった」

 

「……便利に使われてんな。俺」

 

「ありがとう」

 

少しだけ、雑に笑う。

 

あの時、フロックがいなければどうなっていただろう。

それはそれで楽しい未来だったかもしれない。

混乱と混沌を求めて、全て壊していたかもしれない。

それはそれで、少し胸がときめく。

 

でも、その選択は今選べない。

失うものが、今の私には大きすぎる。

 

代わりに。

 

 

「……初めてだった?」

 

ふっと、口元だけで笑って、フロックを揶揄ってみる。

 

「何が」

 

「キス」

 

「……は? んな訳ねぇだろ」

 

やっと表情が動いた。眉間に皺。

 

「初めてで舌絡めるかよ」

 

「それ私に言ってる?」

 

肩を揺らして笑う。

 

「まぁ、初めてではなかったけれど」

 

フロックの目が一瞬だけ止まる。

すぐに視線を紙に落として、鼻で笑った。

 

「そりゃあんだけイチャついてりゃ、陰でやることやってるか」

 

思ってたより低い声だった。

 

……あぁ、そこが繋がっちゃったのね。

 

自然と微笑む。

 

 

「ジャンとは、キスしたことないわよ」

 

フロックの眉が、今度は違う意味で動いた。

 

「は?」

 

フロックの思考が一瞬止まった気配が、目の動きで分かる。

 

「したことあるのは――」

 

頭を整理する。

大丈夫。フロックはこれくらいでは離れない。

 

 

「私、飼われてたって、言ったでしょ?」

 

フロックの顔から、冗談めいたものがすっと消えた。

 

「……あぁ」

 

少しだけ低くなる声。

 

「キスはひとつの手段だった」

 

淡々と、自分の過去を並べる。

 

「それだけよ」

 

全部、計算してやっていた。

 

 

あぁ、でも。

 

フロックを見る。目を口を、表情を。

 

「……したいと思って、ちゃんと出来たのは、初めてかしら」

 

フロックの喉がひくりと動いた。

効いてくれたのなら、少し嬉しい。

 

 

「ジャンには止められたの。振り払われた。怒られた」

 

今思い出しても、胸の奥がざわつく。

 

「それからは、1度も試してない」

 

試せない。出来なくなった。

 

 

「……」

 

フロックは何も言わない。

 

机の端に置かれた指が、拳を作るでもなく、ただそこで止まっている。

 

 

「……胸糞悪ぃ話だな」

 

少し間を置いて、吐き捨てるように言った。

 

ほっとする。

ちゃんと、そう言ってくれるから。

 

私がおかしい。

普通じゃないのは知っている。

 

 

「ジャンと会うまでは、好きなんて理解できなかったし」

「したいって感情も知らなかった」

 

好きだから、触れたい。

好きだから、抱きしめたい。

好きだから、唇を重ねたい。

 

存在するのは知っていた。

でも、私の世界に存在するなんて、思ってなかった。

 

ジャンには、止められたけど。

フロックはしてくれた。

 

 

フロックは眉間に深い皺を刻んで、私を睨む。

 

「お前さ」

 

フロックの声が落ちてくる。

 

「別の男の前で膝抱えてんの、自覚あんのか」

 

「知ってるわよ」

 

思ったより素直に返せた。

 

「ここも好きなの」

 

「知るかよ」

 

冷たくて、正しくて、むかつくくらい正直な返事だ。

それでもフロックは立ち上がらないし、出て行かない。

ここに居てくれる。

 

 

 

狭い倉庫の中には、木が軋む音と、自分たちの呼吸だけが漂っていた。

外のざわめきは壁の向こうで遠く、ここだけが世界から切り離されている。

 

どれくらい、そうしていただろう。

 

分厚い壁の向こうから、かすかに声がした。

 

「ジラー!どこにいるのー!?」

 

耳の奥に、はっきり届く。

空気が一瞬で現実に引き戻される。

 

クリスタの声だ。

 

続いて、小さくやり取りの声が混ざる。

 

「ここからは出入り禁止」

「ジラだから居るかも」

「……否定はできない」

 

ミカサ。

胸の奥が、静かに波打った。

 

 

「ジラー居ないー?」

 

分厚い壁ごしなのに、クリスタの声はまっすぐだ。

真っ白な光みたいに、迷いなくここを探している。

 

倉庫の中に、少しだけ埃が舞った気がした。

 

「おい。探されてんぞ?」

 

フロックが呟く。

嘲笑を混ぜた声。

 

私は顔を上げる。

薄暗い倉庫の中と、壁の向こうの世界の距離が、急に形を持った。

 

膝を抱えていた手をほどく。

 

「……行くのかよ」

 

フロックが問う。

机に片手を置いたまま、扉の方を目だけで追う。

 

 

「行く」

 

思考が回り出す音がした。

 

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