書類の束を脇に抱えたフロックと、廊下の角でぶつかりそうになった。
「……っと」
反射的に身を引く。
フロックは書類を落とさないように肘で抱え直して、面倒くさそうに眉をひそめた。
「前見ろよ」
「悪かったわね」
言い返しながら、視線が自然と書類の端に滑る。
地下の資料の目印。
外からの報告だ。
フロックの歩いていく先を目で追う。
倉庫の方角。
(……ちょうど、いい)
「私も行くわ」
「は?」
フロックが露骨に顔をしかめる。
分かりやすいくらい嫌そうな目。
「ちょうどいいから、話しましょう」
そう言って、彼の歩く方向にそのまま足を向ける。
止められたら戻ろうと思っていたけど、フロックは舌打ちしただけで、結局何も言わなかった。
◇
扉が閉まる。鈍い音が耳の奥で揺れた。
「……で、お前はなんで来たんだ」
フロックは書類を机にドサっと乱雑に置いて、言葉を私に向けた。
私は倉庫の隅の椅子に、膝を抱えて座る。
「先にそっちよ。なんの書類?」
視線をフロックへと向ける。
何か緊急になりそうなものかもしれない。
フロックはため息混じりに一枚だけ抜き取って目を落とす。
「……これ、お前が頼んだやつか?
今いる調査兵団の連中の、訓練兵時の評価リスト」
あぁ、それね。
「えぇ。面白そうだと思って。
置いておいて。暇な時にでも読むの」
「物好きが」
フロックは書類を机の端に追いやると、雑に椅子に座った。
「で、なんだ」
「惚気なら聞かねぇぞ」
いつもの、棘だらけの声。
笑ってしまいそうになる。
惚気。……惚気かもしれないわね。
私は一瞬だけフロックの顔を見て、それから視線を天井の梁に滑らせる。
「ちゃんと……話したのよ。ジャンと」
出てきた声は、思っていたより小さかった。
さっきまでの軽口と違う、喉の奥から出てきたもの。
「だろうな」
フロックは眉一つ動かさない。
いいの。勝手に話すだけ。
「好きだって」
「誰が」
「ジャンが、私を」
「知ってる」
フロックは律儀に答えてくれる。
でも納得いかなくて、私は膝に顎を乗せたまま唇を尖らせる。
フロックは鼻で笑った。
「嬉しくねぇのかよ」
「嬉しいわ」
そう。嬉しい。嫌われてない。まだ。
今はまだ、私のことを考えてくれてる。
「嬉しくて、怖い」
「だからここに来たのよ」
「何だ?その順番」
「順番なんてどうでもいいでしょう」
分かってほしいわけじゃないのに。
でも、フロックには言いたかった。
ジャンの前では出せないものを、詰め込んで隠し持っている場所。
フロックの目の前だけが、そこをちょっとだけ開けていい場所になってる。
(……それが良いことかどうかは、知らないけれど)
「終わらせられなかったの」
膝に回した腕に、ぐっと力を込める。
「これ。絶対に地下に影響出すわよ。私」
フロックの目が、ほんの一瞬だけこちらをかすめた。
すぐに紙に視線を落とす。
「何とかしろ」
返事は、冷たくて正しくて、むかつくくらい真っ直ぐだ。
フロックは、机の上の紙を一枚抜き取って視線を落とす。
本当に読んでいるかどうかは怪しい。
紙の角がぱらぱらと鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
私は膝に額を押しつけ、目を閉じる。
瞼の裏に、ジャンの顔が浮かんでは消えた。
――今は、好きだよ。
「今は」って、そんなに残酷で甘い言葉だったかしら。
喉の奥がひりつく。
涙なんて出ないのに、水で満たされていくみたいに苦しい。
フロックとここにいることも、同じくらいに悪くて、心地いい。
何か言えば崩れる気がする。
何も言わなければ、このままどこまでも落ちていけそうな気もする。
だから、口を開いた。
「あの日のこと、無かったことにはしないわよ?」
フロックの手が止まる。
紙の端が指の下でしわになった。
「……あの日?」
視線は紙の上にあるのに、意識はこちらに向いたのが分かる。
「……キス」
私は膝の上で頬杖をついて、少し笑う。
湿った空気。暗い倉庫。フロックの唇の固さと、想像以上の熱。
フロックは真顔のまま、私の方を見た。
表情に何も出さないようにしてるのが、逆に分かりやすい。
「あれが無かったら、私ジャンと仲直り出来なかった」
「……便利に使われてんな。俺」
「ありがとう」
少しだけ、雑に笑う。
あの時、フロックがいなければどうなっていただろう。
それはそれで楽しい未来だったかもしれない。
混乱と混沌を求めて、全て壊していたかもしれない。
それはそれで、少し胸がときめく。
でも、その選択は今選べない。
失うものが、今の私には大きすぎる。
代わりに。
「……初めてだった?」
ふっと、口元だけで笑って、フロックを揶揄ってみる。
「何が」
「キス」
「……は? んな訳ねぇだろ」
やっと表情が動いた。眉間に皺。
「初めてで舌絡めるかよ」
「それ私に言ってる?」
肩を揺らして笑う。
「まぁ、初めてではなかったけれど」
フロックの目が一瞬だけ止まる。
すぐに視線を紙に落として、鼻で笑った。
「そりゃあんだけイチャついてりゃ、陰でやることやってるか」
思ってたより低い声だった。
……あぁ、そこが繋がっちゃったのね。
自然と微笑む。
「ジャンとは、キスしたことないわよ」
フロックの眉が、今度は違う意味で動いた。
「は?」
フロックの思考が一瞬止まった気配が、目の動きで分かる。
「したことあるのは――」
頭を整理する。
大丈夫。フロックはこれくらいでは離れない。
「私、飼われてたって、言ったでしょ?」
フロックの顔から、冗談めいたものがすっと消えた。
「……あぁ」
少しだけ低くなる声。
「キスはひとつの手段だった」
淡々と、自分の過去を並べる。
「それだけよ」
全部、計算してやっていた。
あぁ、でも。
フロックを見る。目を口を、表情を。
「……したいと思って、ちゃんと出来たのは、初めてかしら」
フロックの喉がひくりと動いた。
効いてくれたのなら、少し嬉しい。
「ジャンには止められたの。振り払われた。怒られた」
今思い出しても、胸の奥がざわつく。
「それからは、1度も試してない」
試せない。出来なくなった。
「……」
フロックは何も言わない。
机の端に置かれた指が、拳を作るでもなく、ただそこで止まっている。
「……胸糞悪ぃ話だな」
少し間を置いて、吐き捨てるように言った。
ほっとする。
ちゃんと、そう言ってくれるから。
私がおかしい。
普通じゃないのは知っている。
「ジャンと会うまでは、好きなんて理解できなかったし」
「したいって感情も知らなかった」
好きだから、触れたい。
好きだから、抱きしめたい。
好きだから、唇を重ねたい。
存在するのは知っていた。
でも、私の世界に存在するなんて、思ってなかった。
ジャンには、止められたけど。
フロックはしてくれた。
フロックは眉間に深い皺を刻んで、私を睨む。
「お前さ」
フロックの声が落ちてくる。
「別の男の前で膝抱えてんの、自覚あんのか」
「知ってるわよ」
思ったより素直に返せた。
「ここも好きなの」
「知るかよ」
冷たくて、正しくて、むかつくくらい正直な返事だ。
それでもフロックは立ち上がらないし、出て行かない。
ここに居てくれる。
◇
狭い倉庫の中には、木が軋む音と、自分たちの呼吸だけが漂っていた。
外のざわめきは壁の向こうで遠く、ここだけが世界から切り離されている。
どれくらい、そうしていただろう。
分厚い壁の向こうから、かすかに声がした。
「ジラー!どこにいるのー!?」
耳の奥に、はっきり届く。
空気が一瞬で現実に引き戻される。
クリスタの声だ。
続いて、小さくやり取りの声が混ざる。
「ここからは出入り禁止」
「ジラだから居るかも」
「……否定はできない」
ミカサ。
胸の奥が、静かに波打った。
「ジラー居ないー?」
分厚い壁ごしなのに、クリスタの声はまっすぐだ。
真っ白な光みたいに、迷いなくここを探している。
倉庫の中に、少しだけ埃が舞った気がした。
「おい。探されてんぞ?」
フロックが呟く。
嘲笑を混ぜた声。
私は顔を上げる。
薄暗い倉庫の中と、壁の向こうの世界の距離が、急に形を持った。
膝を抱えていた手をほどく。
「……行くのかよ」
フロックが問う。
机に片手を置いたまま、扉の方を目だけで追う。
「行く」
思考が回り出す音がした。