――人間は、空を飛んでいた。
複数の気球が、ゆるやかに風を受け進む。
地上では荷馬車が馬に引かれ、必要な物資を積みながら街道もない地を走っていた。
巨人は上を見上げることもなく、ただ地上をうろついている。
討伐しない。迂回もしない。真正面から戦わない。
これまでの調査兵団ならあり得なかった進軍方法に、古参兵の何人かはいまだに慣れていない顔をしていた。
「……本当に、こうして来ちまったな」
気球の縁に手をかけた兵が、独り言のように呟く。
「夢じゃねぇよな?」
「夢なら、もっと気持ちよく勝たせてくれるだろ」
別の男が笑う。乾いた笑い声だったが、妙に震えて聞こえた。
気球の反対側では、ペトラが身を乗り出して下の荷馬車を見ている。
「……なんか、変な感じですね」
「そうだな」
「もっと感動してもよくないですか?」
「感動で浮力が増すならしてやる」
オルオが鼻を鳴らして口を挟む。
「チッ、まあだが……悪くねぇ景色だな」
「兵長の真似なら、似てないからやめてくれないかな」
ペトラが即座に刺し、エルドが吹き出す。
そのやり取りを、リヴァイは鬱陶しげに聞き流した。
視線だけが、はるか前方を捉えている。
見え始めていた。
地平線の先、空と地の境に、別の色がある。
訓練兵上がりの面々は、もう隠しきれないほど落ち着きを失っていた。
「ねぇ、あれ……エレンが言ってたのじゃない!?」
クリスタが声を弾ませる。
「多分! 多分そうだろ!」
エレンが食い気味に返すと、ミカサも珍しく少しだけ前のめりになる。
「……青い」
ジャンが思わず声を上げた。
「川とか湖とかの大きさじゃねぇぞ、あれ」
「塩水なんだよな!? 本当に!?」
エレンが半ば叫ぶように言うと、アルミンはそれに素直に頷いた。
「そのはず……すごい……本当に、ここまで来られたんだ……!」
違う気球で、ライナー達は無言で近づく海を見ていた。
ベルトルトも同じだった。
アニは外の風に頬を打たれながら、ほとんど瞬きもしない。
帰れるかもしれない、そんな顔だった。希望のようでいて、喉に骨が刺さったみたいな顔。
ユミルだけが、彼らの横顔を見て薄く目を細めたが、何も言わなかった。
私は再びエレン達の気球に目を向ける。
「アルミン! 見ろよ、海だ! 本当に!」
「うん、エレン、見てる。すごいね」
「降りられないのかな、あそこまで!」
「条件次第では……でも、まだ危ないかも」
自然に見える。
ただの、海に浮き足立っている、少年。
ここ数ヶ月を思い返す。
私達は地下で温めていた理論を地上へ上げ、
調査兵団の名目で資材と技術者を動かした。
もっと詰まるはずだった。
試作も、改良も、補給も。
致命的な綻びがないことに、勘が警鐘を鳴らす。
――アルミン。
問題が起こりそうなところには、決まって彼がいた。
そうなるように、私が置いた。
私の勘がいくら理論を並べても例外扱いする彼に、
手が空いていると何をするか分からない彼に、
ちょうどいい足枷のつもりだった。
やる事に追われて、睡眠すらままならなかったはずだ。
なのに。
――何も致命的な問題が上がってこなかった。
薄気味悪い。
それでいて、ただただ、便利だった。
便利で、実際にここまで来てしまった。
視線を海へと外す。
綺麗だとは思う。
空より濃く、壁より広い、見たことの無い景色だ。
エレンは本気で目を輝かせ、
ミカサはそんなエレンを気にしながら、自身も海に視線を奪われている。
クリスタは興奮したのか、違う気球に乗るユミルに向かって体全体で手を振っている。
フロックはさっきから、誰に向けるでもなく高揚を喋り続けている。私の反応が薄いことには気づいていないらしい。
「死んだ連中に見せてやりてぇ景色だ」
エルドのその一言に、誰もすぐには返さなかった。
リヴァイは黙ったまま海を見ている。
エルヴィンもまた何も言わず、ただその青を視界に収めていた。
高台に気球が降下を始める。
マーレが、恐らく楽園送り――エルディア人を巨人化させ、パラディ島に突き落とすために使っている高台だった。
◇
気球から降りると、ジャンが隣に並んだ。
しばらく何も言わずに海を見ている。
その横顔は、呆れてるようにも、少し笑ってるようにも見えた。
海よりも、その横顔の方が目を引かれる。
「……本当にあったんだな」
「何が?」
「海だよ」
そう言ってから、ジャンは私を見る。
「で、お前はまた人見てるだろ」
「ダメ?」
「いや」
ジャンは海の方を顎で示す。
「両方見てるのに」
「嘘つけ。お前のその顔は、景色に感動してる顔じゃねぇ」
言いながらも、ジャンの口元も少しだけ緩んでいる。
その軽いやり取りを横で聞いていたミカサが、海から目を離さないままぽつりと呟いた。
「でも、分かる」
「何が?」
エレンが聞き返す。
「海が綺麗なのも、皆が嬉しそうなのも、どっちも分かる」
その率直さは、私には少しだけ眩しかった。
アルミンは、エレンたちと一緒に海を見て騒いでいる。
どこまでも自然に見えた。
だから余計に、薄気味悪い。
ふっと息を吐く。
まあ、いい。
今は、ここまで来た。
「降りるのはまだ無理だな」
ジャンが地上を見下ろしながら言う。
「見れば分かるでしょ。巨人だらけ」
「分かるけど、悔しいだろ」
「悔しいの?」
「そりゃちょっとはな」
見えたのに届かない。
手前まで来たのに、触れられない。
見えたものに、ただ手を伸ばしたがる。
その真っ直ぐさが少しだけ羨ましくて、少しだけ眩しかった。
エルヴィンが振り返る。
「浮かれるのはそこまでだ。現状、海岸への降下は危険が大きい。巨人の配置、視界、足場、いずれも好ましくない」
声が通る。ざわめいていた兵たちも次第に口を閉ざした。
「本日の目的は達成した。
以降はこの高台を拠点に、監視と待機へ移る」
その言葉に、空気が少しだけ引き締まる。
到達の熱が、次の行動へ変わる。
私は海を見たまま、一歩だけ前へ出る。
風が、結った髪を後ろへ流していく。
眼下では巨人がまだうろついている。
青い海の向こうには、まだ見えない国がある。
ここは終わりではない。ようやく、外へ向かうための岸に立っただけだ。
だから、答えは一つだ。
「……マーレの船が来るまで、私達はここで停泊します」
誰に聞かせるでもなく、だが皆に届く声で、私はそう言った。
期間は狂ったけれど、ここまでは予定調和。