何度目かの物資のやり取りを終えた後だった。
――船が来る!
息を呑んだ。
ざわめきが広がるより早く、全員が予定位置へ散る。
身を低くし、布を押さえ、必要なものだけを抱えて影へ滑り込む。
私も陰へ半身を寄せながら、横へ目を流す。
ライナーたちは、もう船を見ていた。
見ていた、というより、顔に出ていた。
隠すつもりがあるのか疑わしいくらい、分かりやすい。
ベルトルトの喉が、小さく動く。
「……ジーク戦士長……」
ほとんど呼吸みたいな声だった。
――マーレの、知性巨人のひとり。
思わず、口元が緩む。
予定は変わる。
奇襲も、強襲も、脅しも要らない。
これは、無理やりこじ開ける盤面じゃない。
そして、扉は向こうから来た。
「ライナー」
名を呼ぶと、肩がびくりと揺れた。
「出なさい」
「……は?」
「そのまま。あなた達三人、分かりやすいように」
ライナーが固まる。
アニの目がこちらへ滑る。ベルトルトは何か言いかけて、飲み込んだ。
「知り合いでしょう?」
最初に見せる札はこれでいい。
迎えに来たのかもしれない。
切り捨てに来たのかもしれない。
どちらにしろ、会話の方が情報は多そうだ。
「……お前、何を」
そのまま、エルヴィン団長へと視線を送る。
団長は黙って私を見る。
その青い目が、一瞬だけ船、ライナーたち、こちらの布陣をなぞる。
判断は早かった。
わずかに頷き、立ち上がる。
ライナー、ベルトルト、アニが姿を現し、高台の縁へ向かう。
私と団長が、その横へと並んだ。
◇
波の音に混じって、船の甲板から1人の男が降りてくる。
「高台までたどり着くなんて」
「島の連中にしては、ずいぶん賢い真似をしたね」
軽い。
けれど、その軽さの中に侮りがある。
少しだけ肩を回す。
無駄のない仕草。力を抜いて見せているのに、抜ききっていない人間の動きだ。
ジーク。戦士長。
――獣の巨人の継承者。
ライナーたちへ視線をやり、次にこちらへ目を向ける。
エルヴィンは、ほんの少し顎を上げた。
無言の仕草だった。
ジークの目が、最後に私へ止まる。
私は、笑う。
仕方がない。
楽しくてたまらなかった。
海の向こうとこちら。
壁の中と外。
今まで別々の卓にあったものが、ようやくひとつの盤の上に乗る。
楽しくないわけがない。
私は一歩、前へ出た。
ライナー達が言葉をこぼす前に。
言葉に詰まっている間に、話の流れが欲しい。
「初めまして」
空気が、一瞬で張り詰める。
「――壁の中の悪魔代表として、ご挨拶しても?」
ジークの口元が、面白そうにわずかに動いた。
「ほう」
それだけで、背筋にうっすら鳥肌が立つ。
いい。
やっぱり、知らない盤面は楽しい。
◇
ライナーたちの確認が済み、そのまま船へと渡ることになった。
相手の盤上。知らない場所。
板の上へ足を乗せた瞬間に分かる。
違う。
湿度が違う。足裏に返る感触が違う。木の軋み方、海風の抜け方、漂う緊張の質まで、壁の中で知っているものと少しずつずれている。
部屋に入ると視線が刺さった、
値踏み。
選別。
警戒。
嫌悪。
こちらを見る目の中には、それが当たり前みたいに混ざっていた。
腕章のある者とない者。
マーレ人と、名誉マーレ人という名前をぶら下げられたエルディア人。
空気の中に、もう線が引かれている。
「調査兵団団長、エルヴィン・スミスだ」
先に名乗ったのは団長だった。
短く、無駄がない。
その後に、私。
「ジラヴェラ=ジェネリンドです」
名乗りながら、相手の顔を順に見る。
ライナー達は、ジークと共に端に控えた。
この場で決める側は中央の椅子に座った人達。
今はこっちだ。
柔らかく言う。
挑発ではなく、訂正として。
「先に一つだけ。
私はエルディア人ではありません」
そこで空気が揺れた。
ジークの目が、ほんの少しだけ動く。
いい。
十分。
「東洋の血です。
壁の中では、珍しい純血なんです」
にっこり笑う。
嘘は言っていない。
言っていないから、相手の頭の中で勝手に線が引き直される。
壁の中の全員が同じではない。
少なくとも、今ここにいる交渉相手はそう見せられる。
ジークの視線がライナーたちへ流れる。
どこまで話した、と測るような無言の圧。
怒っては、ないわね。
思ったより仲が良さそう。信頼なのかしら。
会話は、そのままエルヴィンと私が受け持った。
団長は必要なところで短く補強し、私は相手の表情の変化を拾いながら言葉を選んだ。
マーレ側の優位意識。
島の人間を見下す癖。
だが、未知の情報や、欲と警戒もゼロではない。
少しの沈黙ののち、中央の男性が口を開いた。
「……いいだろう。本国へ連れて行ってやる」
上々。でも、まだ入口。
「それ以上の交渉は自分でやるんだな」
「ええ、もちろん」
男の視線が私と団長をなぞる。
「五名までだ」
成立。
想定内。
むしろ、思ったより多い。
◇
船を降りると、すぐに短い会議になった。
時間がない。全員それを分かっているから、余計な前置きはない。
海風が高台を抜けていく。
その中で、エルヴィンが周囲を見渡した。
「本来なら、私が行きたいところだが」
そこで一度だけ、海の向こうへ視線を向ける。
「壁内の統制を空けるわけにはいかない」
声は淡々としていた。
残念そうに聞こえたかどうかは、聞く側によるだろう。
でも少なくとも、未練がない言い方ではなかった。
「私が行こう!」
ハンジが手を上げる。
目が輝いていた。
「僕も行きます」
間髪入れずに続いたのはモブリットだった。
ハンジが振り向く。
「えっ、ちょっと、モブリット――」
「行きます」
ぴしゃり。
断定。
止まる気が最初からない顔だ。
私は目を細める。
いい。そこはセットで運用した方が安全だろう。
「私は当然行くとして、……」
フロックに目をやると、彼は小さく眉を顰めた。
「分かってる」
ならいいの。
彼は連れて行けない。地下や中央憲兵とやり取りできる人は多くない。
頷いた後、視線を船を見たままどこか遠くを見ているユミルへと向ける。
「ユミルは確定よ」
私が言うと、彼女は肩をすくめた。
「別にいいけどな」
軽い声音。
でも、軽いだけではない。
ユミルは船に乗る意味を、この場で一番分かっている一人だ。
「じゃあ、私も!」
クリスタが一歩前へ出る。
予想通り。でも。
「悪いが、君は外へ出せない」
エルヴィンが切る。
柔らかいが、覆らない声だった。
クリスタが食い下がろうとする前に、私はユミルへ目を向ける。
「ユミル、任せたわ」
「はいはい」
ユミルは面倒くさそうに言いながらも、クリスタの肩を押すようにして少し離れた。
残り一枠。
周りを見渡す。
戸惑うエレンが目に付いた。
――彼は巨人を継承してはいなかった。
連れていく意味はない。
ミカサ。エレンが来ないのだから、無い。
アルミン――私が嫌だ。
それに技術枠はハンジさんで十分だろう。
視線が刺さってくる方へは、目を向けない。
今は考えちゃいけないの。
あと一人。
その場に短い沈黙が落ちた。
「俺が行く」
口を開いたのは、リヴァイ兵長だった。
ハンジが顔を上げる。
「だよねぇ。まぁ、そうなるか」
「当たり前だろ」
兵長は機嫌の悪いまま吐き捨てる。
「向こうの船だ。交渉がこじれりゃ、その場で首が飛ぶ。脅しが通じる札を一枚も持たずに乗り込むほど、お前らはめでたくねぇだろ」
分かりやすい抑止力。
モブリットが小さく息を吐く。少しだけ肩の力が抜けたように見えた。ハンジと自分だけで船内を回す想像をしていたのなら、当然だろう。
ジャンが、何か言いたげに口を開きかける。
でも結局、何も言わなかった。
視線だけが私に刺さった。
置いていくのか、と責めるような、置いていかれる前から腹を立てているみたいな目だった。
目を逸らす。
今ここで、その目に引っ張られるわけにはいかない。
「異論はない」
エルヴィンが言う。
「ハンジ、モブリット、ジラ、ユミル、リヴァイ。
この五名だ」
決定だった。
ハンジが早速、浮き立つ声を上げる。
「船! マーレ! 外の兵器! いやぁ、忙しくなるね!」
「分隊長」
「分かってるよ、モブリット。勝手なことはしない。たぶん」
「最後の一言で信用が消えました」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩む。
リヴァイ兵長はそんな二人を一瞥しただけで、私へ視線を寄越した。
「お前は浮かれるなよ」
「善処しますね」
「しねぇ顔だな」
失礼ね。
でも否定はしない。
振り返れば、マーレの船が、海の上で静かに待っている。
扉は、もう開いていた。
あとは踏み込むだけだ。