壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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65.ジャン視点

 

 海は、待つには広すぎた。

 

 高台に立って、ぼんやり水平線を見てると、だんだん自分が何を待ってるのか分からなくなる。船なのか、人なのか、報せなのか。

 

 隣で双眼鏡を覗いていた、調査兵団の先輩兵士が、小さく息を吐く。

 

「今日も見えないな」

 

「……そうですね」

 

 三日交代の高台待機も、これで何度目だったか。

 最初は少しの物珍しさがあった。空での移動、海を見下ろせる高台、地上をうろつく巨人。

 けど、何日も繰り返していれば、結局やることは同じになる。

 

 海を見て、巨人を見て、交代して、壁内へ戻る。

 その間に、海の向こうでは何かが進んでるんだろ。こっちには見えないだけで。

 

 見えない、っていうのが一番腹が立った。

 

 

 だから、船が見えた時、最初は信じられなかった。

 

 あの水平線の向こうに、ちゃんと戻ってくるものがあるなんて。

 遠くに黒い影が浮かんで、それが帆で、船体で、人を乗せていると分かるまで、妙に時間がかかった。

 

 戻ってきた。

 

 その事実が腹の底まで落ちる前に、双眼鏡を奪うみたいに掴んで覗く。

 

 甲板の上は小さくて、顔まではよく見えない。けど、いる。人数も輪郭も違う影の中に、見慣れた細い形が混じっている気がして、喉が詰まる。

 

 隣で先輩兵士が何か言っていたが、半分も頭に入らなかった。

 

 船が寄る。

 波の音が近くなる。

 腹のあたりが、落ち着かないままざわざわしている。

 

 無事か。

 怪我は。

 何を見てきた。

 何を持って帰ってきた。

 言いたいことも聞きたいことも山ほどあったはずなのに、いざ船が近づくと、頭の中身が妙に薄くなる。

 

 先に動いたのは、向こうだった。

 

 甲板から降りてきた人影の中で、ジラがふっと顔を上げる。

 高台のこっちを見た。いや、こっちじゃない。たぶん、最初から、まっすぐ俺を見た。

 

 その瞬間、変な感じがした。

 

 あ、って顔だった。

 

 嬉しそう、というより、見つけてしまった、みたいな顔。

 そして次の瞬間には、もう駄目そうだった。

 

 周りにはハンジ分隊長も、モブリットさんも、兵長もいる。帰還したばかりなら、普通はそっちの流れが先だろう。そういうことくらい俺にだって分かる。

 

 なのにジラは、一回だけ周囲を見たあと、そのままこっちへ歩き出した。

 

「おい」

 

 低い声が飛ぶ。

 兵長だ。

 

 さすがに止まるだろ、と反射で思った。

 

 止まらなかった。

 

 聞こえてないわけじゃないはずなのに、まるで聞こえてないみたいに、こっちだけ見て歩いてくる。

 

 何だそれ。

 いいのか、それ。

 いや、よくないだろ絶対。

 

 なのに俺は、その場から動けなかった。

 

 ジラが来る。

 ほんとに来る。

 兵長の声すら無視して、真っ直ぐこっちへ。

 

 心臓が、変な跳ね方をした。

 

「……お、おい」

 

 やっとそれだけ口から出た時には、もう目の前だった。

 

 近い。

 思っていたよりずっと近い。

 顔色は悪くない。痩せた感じもない。目も生きてる。ちゃんと、いつもの黒い目だ。

 

 なのに、いつものジラと少し違った。

 

 黙ってる。

 

 いや、正確には、何か言おうとして言えない顔をしてる。

 

 視線が落ち着かない。俺を見たと思ったら、肩口に落ちて、また上がって、でも今度は途中で止まる。あのジラが、目の前まで来て言葉を失ってる。

 

 こっちまで頭がおかしくなる。

 

「……何だよ」

 

 言った声が、思っていたよりずっと弱かった。

 

 もっといろいろ言うつもりだった。遅いとか、勝手に行くなとか、無事かとか。なのに、出たのはそれだけだった。

 

 ジラは少し唇を動かして、でも最初の言葉に迷ったみたいに、変な間を空ける。

 

「……えっと」

 

 何だ、その反応。

 

 思わずまじまじと見てしまう。

 マーレなんて場所に行って帰ってきたばかりのくせに、なんで今ここでそんな顔をするんだ。

 

 その時、後ろの方でハンジ分隊長の笑いを噛み殺すような気配がした。兵長の機嫌の悪そうな空気も、痛いくらい分かる。なのにジラはもうそっちに意識が向いていないらしかった。

 

「……戻れって」

 

 ようやくまともそうなことを言うと、ジラがちょっとだけ眉を寄せる。

 

「……そんなの、後でいいもの」

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

 後でよくないだろ。

 絶対によくない。

 だが、それより先に頭に来たのは、別の方だった。

 

 そんなの、って何だ。

 後でいいって何だ。

 

 いや、分かる。

 分かってしまう。

 今この場で、報告とか手続きとかより先に、俺のところへ来たってことだ。

 

 理解した瞬間、余計に言葉が詰まった。

 

「よ、よくねぇだろ」

 

 精一杯それだけ返す。

 なのに声に全然迫力がない。

 

 ジラはたぶん自分でもよくないと分かってる顔をしていた。分かってるくせに、引かない。いや、引けないのかもしれない。

 

 少しだけ黙って、それからまた視線がうろうろする。

 

 

「……置いてって、ごめんね?」

 

 それを言うのかよ、と本気で思った。

 

 今さら。

 遅い。

 ずっとそれに腹を立ててたくせに、そんな顔でそんな声出されたら、こっちがどうしたらいいか分からなくなる。

 

 ジラは不安そうだった。

 探るみたいに、こっちの顔色を見ている。

 あの、何でも分かった顔で相手を転がす女が、こんな時だけ分かりやすく怯えるのが本当にずるい。

 

「……おせぇよ」

 

 やっと出たのは、それだった。

 

 ジラの肩が少しだけ揺れる。

 怒られたと思ったのかもしれない。

 

「そう思うなら最初から置いてくな」

 

 続けて言うと、ジラは目を瞬いた。

 その反応だけで、少しだけ溜飲が下がる。下がるくせに、同時にどうしようもなく安心している自分がいて、余計に腹が立つ。

 

「うん」

 

 ジラが小さく言う。

 

「会いたかった」

 

 心臓に悪い。

 本当に悪い。

 

 何だそれ。

 マーレから帰ってきたばっかりで、兵長の声無視して真っ直ぐ来て、目の前でおろおろして、最後にそれか。

 

 可愛いとか、そういう言葉で片づけたくないのに、片づかない。

 

 たぶん今、ひどい顔をしてる。

 赤いかもしれないし、間抜けかもしれないし、どっちにしろ見せたくない顔だ。

 

 ジラはそんなこっちを見て、ちょっとだけ困ったみたいに、それでも嬉しそうに笑った。

 

 ああ、駄目だ、と思った。

 

 こいつ、何なんだよ。なんでそんな顔するんだ。

 

 置いてったくせに。マーレにいた間は、俺のこと考えてる暇なんかなかったくせに。

 いや、逆か?

 考えないようにしてて、俺を見た瞬間に全部吹っ飛んだのか。

 

 ……そう思ったら、怒るのも少し難しくなった。

 

 

 そこまで思ったところで、はっきりと舌打ちが聞こえた。

 

「ッチ。色ボケは終わったか」

 

 兵長の声だった。

 

 その一言で、現実に引き戻される。

 ジラの肩がぴくっと揺れた。やっと思い出したみたいに、そっちへほんの少しだけ顔を向けて、でもまた俺へ戻る。

 

 いや、戻るな。

 戻るなよ。

 気持ちは嬉しいけど、今は戻るな。

 

 

「お、おい、もう行けって」

 

 言うと、ジラがちょっとだけ拗ねた顔になる。

 そういう顔するな、と思うのに目が離せない

 

 俺の服の裾を掴む。おい。

 そのまま兵長の方を向かずに、

 

「私、一番働いたんだから、今くらい良くないですか」

 

 拗ねた。

 

 兵長の目が細くなる。

 ハンジ分隊長がとうとう吹き出して、モブリットが頭を抱えた。

 

「良くねぇ」

 

 兵長がイライラと声を返す。

 

 ジラは明らかに不満そうに口を尖らせ、それから

 ――俺の背中側にまわった。

 

 服が引かれる。

 

 体が跳ねた。

 

 おい。

 おい待て。

 何してんだお前。

 

「おい、てめぇ何隠れてやがる」

 

「隠れてません」

 

 ジラは俺の背中から言う。

 

「壁にしてるだけです」

 

「もっと悪い」

 

 兵長の怒りの声に、今度はハンジ分隊長がはっきり声を上げて笑いだした。

 

 俺はもうずっと、何にどう反応していいか分からない。兵長に怒られるのも怖いし、ジラに背中に寄られてるのも心臓に悪い。

 

「お、おい。ジラ……離れろって」

 

「いやよ」

 

「いやよ、じゃねぇよ!」

 

「ジャンは私の味方じゃないの?」

 

「そ、そういうことじゃねぇだろ!」

 

 言い返すと、ジラはほんの少しだけむっとして、それでも離れなかった。

 

 兵長が深く息を吐く。

 本気で呆れている時の顔だ。

 

「ハンジ」

 

「はいはい、分かってるよリヴァイ」

 

 ハンジさんがまだ笑いを引きずったまま手を振る。

 

「ジラ。せめて最低限だけ済ませてからにしてくれないか。帰りの気球で好きなだけくっついてていいからさ」

 

「……好きなだけ」

 

 ジラが小さく繰り返す。

 おい、そこ拾うな。

 

 ハンジ分隊長は、笑いを堪えきれていない顔のまま頷く。

 

「うん、好きなだけ。だから今は一回戻っておいで。最低限の報告と確認だけ。ね?」

 

 

「……行きます」

 

 俺の服から、名残惜しげに手が離れる。

 

 離れた。

 離れたけど、今度は離れたことに俺の方が妙な物足りなさを感じて、余計に自分に腹が立った。

 

「……あとで、ね?」

 

 ジラが、また不安げに俺を見て言った。

 

「お前な……」

 

 それだけしか言えない。

 

 ジラは少しだけ困ったみたいに笑って、それからようやくハンジ分隊長の方へ歩き出した。歩き出して、二歩目でまた振り返る。

 

 また俺を見る。

 

 何なんだほんとに。

 

 ハンジ分隊長がそれを見てまた笑った。

 

「いやぁ、これは重症だ」

 

「茶化してんじゃねぇ」

 

 兵長が言う。

 でもさっきまでよりは少しだけ本気の怒りが薄い。

 

 モブリットさんが気球の準備を確認しながら、疲れ切った顔でこっちを見た。

 

「ジャン、交代のタイミングじゃないかもしれないけど、帰路は同じ気球で」

 

「あっ。はい……」

 

 

 

 

 やがて気球が上がる。

 高台を離れ、壁内へ戻る長い道のりが始まる。

 

 

 結局、高台から壁内へ戻る気球の中で、俺たちは並んで座ることになった。

 

 他にも人はいる。完全に二人きりじゃない。だから逆に助かった。そうじゃなかったら、たぶんもっとどうしていいか分からなかった。

 

 ジラは乗ってしばらく、ほんとに静かだった。

 さっきまでの勢いが嘘みたいに、時々こっちを見て、視線がぶつかると逸らす。

 

 なのに、少ししてから。

 

 不意に手が伸びてきて、俺の腕を取った。

 

「……おい」

 

 言うより早く、そのまま腕ごと抱え込まれる。

 

 体温が近い。

 柔らかい感触が服越しに伝わって、頭が一瞬で真っ白になった。

 

 何してんだこいつ。

 

 いや、本当に何してんだ。

 

 他にも人はいる。

 完全に二人きりじゃない。

 そういうの、さっき兵長に怒られたばっかだろうが。

 

 でもジラは、そんなこと知らないみたいな顔で俺の腕に頬を寄せたまま、ちらっとだけこっちを見る。

 

 心臓に悪い。

 本当に悪い。

 

「……お前、ほんと何なんだよ」

 

 やっとそれだけ言うと、ジラは少しだけ目を細めた。

 

「好きにくっついていい、でしょ?」

 

 

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