海は、待つには広すぎた。
高台に立って、ぼんやり水平線を見てると、だんだん自分が何を待ってるのか分からなくなる。船なのか、人なのか、報せなのか。
隣で双眼鏡を覗いていた、調査兵団の先輩兵士が、小さく息を吐く。
「今日も見えないな」
「……そうですね」
三日交代の高台待機も、これで何度目だったか。
最初は少しの物珍しさがあった。空での移動、海を見下ろせる高台、地上をうろつく巨人。
けど、何日も繰り返していれば、結局やることは同じになる。
海を見て、巨人を見て、交代して、壁内へ戻る。
その間に、海の向こうでは何かが進んでるんだろ。こっちには見えないだけで。
見えない、っていうのが一番腹が立った。
だから、船が見えた時、最初は信じられなかった。
あの水平線の向こうに、ちゃんと戻ってくるものがあるなんて。
遠くに黒い影が浮かんで、それが帆で、船体で、人を乗せていると分かるまで、妙に時間がかかった。
戻ってきた。
その事実が腹の底まで落ちる前に、双眼鏡を奪うみたいに掴んで覗く。
甲板の上は小さくて、顔まではよく見えない。けど、いる。人数も輪郭も違う影の中に、見慣れた細い形が混じっている気がして、喉が詰まる。
隣で先輩兵士が何か言っていたが、半分も頭に入らなかった。
船が寄る。
波の音が近くなる。
腹のあたりが、落ち着かないままざわざわしている。
無事か。
怪我は。
何を見てきた。
何を持って帰ってきた。
言いたいことも聞きたいことも山ほどあったはずなのに、いざ船が近づくと、頭の中身が妙に薄くなる。
先に動いたのは、向こうだった。
甲板から降りてきた人影の中で、ジラがふっと顔を上げる。
高台のこっちを見た。いや、こっちじゃない。たぶん、最初から、まっすぐ俺を見た。
その瞬間、変な感じがした。
あ、って顔だった。
嬉しそう、というより、見つけてしまった、みたいな顔。
そして次の瞬間には、もう駄目そうだった。
周りにはハンジ分隊長も、モブリットさんも、兵長もいる。帰還したばかりなら、普通はそっちの流れが先だろう。そういうことくらい俺にだって分かる。
なのにジラは、一回だけ周囲を見たあと、そのままこっちへ歩き出した。
「おい」
低い声が飛ぶ。
兵長だ。
さすがに止まるだろ、と反射で思った。
止まらなかった。
聞こえてないわけじゃないはずなのに、まるで聞こえてないみたいに、こっちだけ見て歩いてくる。
何だそれ。
いいのか、それ。
いや、よくないだろ絶対。
なのに俺は、その場から動けなかった。
ジラが来る。
ほんとに来る。
兵長の声すら無視して、真っ直ぐこっちへ。
心臓が、変な跳ね方をした。
「……お、おい」
やっとそれだけ口から出た時には、もう目の前だった。
近い。
思っていたよりずっと近い。
顔色は悪くない。痩せた感じもない。目も生きてる。ちゃんと、いつもの黒い目だ。
なのに、いつものジラと少し違った。
黙ってる。
いや、正確には、何か言おうとして言えない顔をしてる。
視線が落ち着かない。俺を見たと思ったら、肩口に落ちて、また上がって、でも今度は途中で止まる。あのジラが、目の前まで来て言葉を失ってる。
こっちまで頭がおかしくなる。
「……何だよ」
言った声が、思っていたよりずっと弱かった。
もっといろいろ言うつもりだった。遅いとか、勝手に行くなとか、無事かとか。なのに、出たのはそれだけだった。
ジラは少し唇を動かして、でも最初の言葉に迷ったみたいに、変な間を空ける。
「……えっと」
何だ、その反応。
思わずまじまじと見てしまう。
マーレなんて場所に行って帰ってきたばかりのくせに、なんで今ここでそんな顔をするんだ。
その時、後ろの方でハンジ分隊長の笑いを噛み殺すような気配がした。兵長の機嫌の悪そうな空気も、痛いくらい分かる。なのにジラはもうそっちに意識が向いていないらしかった。
「……戻れって」
ようやくまともそうなことを言うと、ジラがちょっとだけ眉を寄せる。
「……そんなの、後でいいもの」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
後でよくないだろ。
絶対によくない。
だが、それより先に頭に来たのは、別の方だった。
そんなの、って何だ。
後でいいって何だ。
いや、分かる。
分かってしまう。
今この場で、報告とか手続きとかより先に、俺のところへ来たってことだ。
理解した瞬間、余計に言葉が詰まった。
「よ、よくねぇだろ」
精一杯それだけ返す。
なのに声に全然迫力がない。
ジラはたぶん自分でもよくないと分かってる顔をしていた。分かってるくせに、引かない。いや、引けないのかもしれない。
少しだけ黙って、それからまた視線がうろうろする。
「……置いてって、ごめんね?」
それを言うのかよ、と本気で思った。
今さら。
遅い。
ずっとそれに腹を立ててたくせに、そんな顔でそんな声出されたら、こっちがどうしたらいいか分からなくなる。
ジラは不安そうだった。
探るみたいに、こっちの顔色を見ている。
あの、何でも分かった顔で相手を転がす女が、こんな時だけ分かりやすく怯えるのが本当にずるい。
「……おせぇよ」
やっと出たのは、それだった。
ジラの肩が少しだけ揺れる。
怒られたと思ったのかもしれない。
「そう思うなら最初から置いてくな」
続けて言うと、ジラは目を瞬いた。
その反応だけで、少しだけ溜飲が下がる。下がるくせに、同時にどうしようもなく安心している自分がいて、余計に腹が立つ。
「うん」
ジラが小さく言う。
「会いたかった」
心臓に悪い。
本当に悪い。
何だそれ。
マーレから帰ってきたばっかりで、兵長の声無視して真っ直ぐ来て、目の前でおろおろして、最後にそれか。
可愛いとか、そういう言葉で片づけたくないのに、片づかない。
たぶん今、ひどい顔をしてる。
赤いかもしれないし、間抜けかもしれないし、どっちにしろ見せたくない顔だ。
ジラはそんなこっちを見て、ちょっとだけ困ったみたいに、それでも嬉しそうに笑った。
ああ、駄目だ、と思った。
こいつ、何なんだよ。なんでそんな顔するんだ。
置いてったくせに。マーレにいた間は、俺のこと考えてる暇なんかなかったくせに。
いや、逆か?
考えないようにしてて、俺を見た瞬間に全部吹っ飛んだのか。
……そう思ったら、怒るのも少し難しくなった。
そこまで思ったところで、はっきりと舌打ちが聞こえた。
「ッチ。色ボケは終わったか」
兵長の声だった。
その一言で、現実に引き戻される。
ジラの肩がぴくっと揺れた。やっと思い出したみたいに、そっちへほんの少しだけ顔を向けて、でもまた俺へ戻る。
いや、戻るな。
戻るなよ。
気持ちは嬉しいけど、今は戻るな。
「お、おい、もう行けって」
言うと、ジラがちょっとだけ拗ねた顔になる。
そういう顔するな、と思うのに目が離せない
俺の服の裾を掴む。おい。
そのまま兵長の方を向かずに、
「私、一番働いたんだから、今くらい良くないですか」
拗ねた。
兵長の目が細くなる。
ハンジ分隊長がとうとう吹き出して、モブリットが頭を抱えた。
「良くねぇ」
兵長がイライラと声を返す。
ジラは明らかに不満そうに口を尖らせ、それから
――俺の背中側にまわった。
服が引かれる。
体が跳ねた。
おい。
おい待て。
何してんだお前。
「おい、てめぇ何隠れてやがる」
「隠れてません」
ジラは俺の背中から言う。
「壁にしてるだけです」
「もっと悪い」
兵長の怒りの声に、今度はハンジ分隊長がはっきり声を上げて笑いだした。
俺はもうずっと、何にどう反応していいか分からない。兵長に怒られるのも怖いし、ジラに背中に寄られてるのも心臓に悪い。
「お、おい。ジラ……離れろって」
「いやよ」
「いやよ、じゃねぇよ!」
「ジャンは私の味方じゃないの?」
「そ、そういうことじゃねぇだろ!」
言い返すと、ジラはほんの少しだけむっとして、それでも離れなかった。
兵長が深く息を吐く。
本気で呆れている時の顔だ。
「ハンジ」
「はいはい、分かってるよリヴァイ」
ハンジさんがまだ笑いを引きずったまま手を振る。
「ジラ。せめて最低限だけ済ませてからにしてくれないか。帰りの気球で好きなだけくっついてていいからさ」
「……好きなだけ」
ジラが小さく繰り返す。
おい、そこ拾うな。
ハンジ分隊長は、笑いを堪えきれていない顔のまま頷く。
「うん、好きなだけ。だから今は一回戻っておいで。最低限の報告と確認だけ。ね?」
「……行きます」
俺の服から、名残惜しげに手が離れる。
離れた。
離れたけど、今度は離れたことに俺の方が妙な物足りなさを感じて、余計に自分に腹が立った。
「……あとで、ね?」
ジラが、また不安げに俺を見て言った。
「お前な……」
それだけしか言えない。
ジラは少しだけ困ったみたいに笑って、それからようやくハンジ分隊長の方へ歩き出した。歩き出して、二歩目でまた振り返る。
また俺を見る。
何なんだほんとに。
ハンジ分隊長がそれを見てまた笑った。
「いやぁ、これは重症だ」
「茶化してんじゃねぇ」
兵長が言う。
でもさっきまでよりは少しだけ本気の怒りが薄い。
モブリットさんが気球の準備を確認しながら、疲れ切った顔でこっちを見た。
「ジャン、交代のタイミングじゃないかもしれないけど、帰路は同じ気球で」
「あっ。はい……」
◇
やがて気球が上がる。
高台を離れ、壁内へ戻る長い道のりが始まる。
結局、高台から壁内へ戻る気球の中で、俺たちは並んで座ることになった。
他にも人はいる。完全に二人きりじゃない。だから逆に助かった。そうじゃなかったら、たぶんもっとどうしていいか分からなかった。
ジラは乗ってしばらく、ほんとに静かだった。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、時々こっちを見て、視線がぶつかると逸らす。
なのに、少ししてから。
不意に手が伸びてきて、俺の腕を取った。
「……おい」
言うより早く、そのまま腕ごと抱え込まれる。
体温が近い。
柔らかい感触が服越しに伝わって、頭が一瞬で真っ白になった。
何してんだこいつ。
いや、本当に何してんだ。
他にも人はいる。
完全に二人きりじゃない。
そういうの、さっき兵長に怒られたばっかだろうが。
でもジラは、そんなこと知らないみたいな顔で俺の腕に頬を寄せたまま、ちらっとだけこっちを見る。
心臓に悪い。
本当に悪い。
「……お前、ほんと何なんだよ」
やっとそれだけ言うと、ジラは少しだけ目を細めた。
「好きにくっついていい、でしょ?」