壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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――前話の続き。


66.

 

 ジャンの体温は、服越しでもちゃんと温かかった。

 

 その温度に頬を押しつけたまま、息を吐く。

 胸の奥に張っていたものが、少しずつほどけていく。

 

 ――安心する。

 

 そう思った瞬間、身体の力が抜けた。

 

 気球は一定の揺れで空を進み、足元から伝わる振動が、じわじわと意識を緩めていく。

 眠りたくなんてないのに、瞼が勝手に重くなる。

 

 私は抱え込んだジャンの腕に、頬を押しつける。

 

 目が自然と落ちる。

 思考が、まとまらないまま漂っていく。

 

 

 マーレは確かに楽しかった。

 

 知らない土地。知らない規律。

 批評する目。値踏みする声。

 こちらを悪魔と呼ぶ空気。

 

 そこに入り込んで、言葉を置いて、相手の頭の中を覗いて、

 少しずつ盤面をずらしていくのは、どうしようもなく心が躍った。

 

 

 でも、今は考えられなかった。

 今はこの温度の方がずっといい。

 

 

「おい……ジラ、眠いのか?」

 

 低い声が、すぐ近くで落ちてくる。

 耳に触れて、そのまま胸の奥へ沈んだ。

 

 好き。

 

 もっと聞いていたい。

 この声で、もっと呼ばれたい。

 呆れた声も、困った声も、私に向けられるなら全部好き。

 

「……好き。もっと」

 

 自分でも何を言っているのか、半分くらい曖昧だった。

 ただ、もっと欲しかった。

 

「……っ」

 

 抱え込んだ腕が、わずかに身じろいで、

 反射的に指先に力が入った。

 

 だめ。

 これは私の。

 

 腕に胸を押しつけるようにして、もっと深く抱え込む。

 離れないように。逃がさないように。

 

「……お前なぁ」

 

 呆れたみたいな声。

 でも、本気で振り払う気配はない。

 

 視線だけが、周囲を窺うみたいに動いているのが分かった。

 他にも人がいる。気球の中だ。分かってる。

 分かっているけれど、だから何だという気分でもあった。

 

 別にいいじゃない。

 

 ――邪魔するなら、消してやる。

 

 

 一瞬だけそんな事が頭を過ぎる。

 でもそれすら、ジャンの体温に触れているとどうでもよくなった。

 

 瞼が重い。

 持ち上げるのも億劫なくらい重い。

 それでも今のジャンの顔が見たくて、少しだけ目を開けた。

 

 ジャンはこっちを振り向きかけて、その途中で止まっていた。

 何か言おうとして、やめたらしい口元が固い。

 目は合わせたのに、すぐ逸れる。

 

 耳だけが赤い。

 

 

 頬が自然と緩んだ。

 こうやって笑うのいつぶりだろう。

 

 

「……なぁに?」

 

「なぁに、じゃねぇよ」

 

 返ってきた声は低いのに、少し掠れていた。

 

 

 好き。

 

 もっと困ればいいのに。

 でも、困らせすぎたら嫌われてしまう。

 

 私は腕に頬を押しつけたまま、少しだけ目を伏せる。

 

 

「……手も、繋いでいい?」

 

 欲張りすぎかな。ダメかな。

 くっついてるのを剥がされないだけ、好かれてるのが分かる。

 

 私はジャンの腕に自分の腕を絡めたまま、手のひらを差し出す。

 顔をあげると、ジャンの眉がまた寄った。

 

 そのまま黙る。困ってる。

 

 ……ダメ、かな。

 うん。大丈夫。

 

 そう思って、指先を引きかけた、その時。

 

 

「……お前さ」

 

 低い声と一緒に、差し出しかけた手を先に掴まれた。

 少し乱暴なくらい雑な握り方。

 でも、ちゃんと包み込むみたいに離さない。

 

「今さらそこ聞くかよ」

 

 大きい。

 温かい。固い。

 

 ちゃんと、握られてる。

 

 指先を少しだけ動かすと、ジャンの手が反応するみたいに、わずかに力を返してきた。

 

 

 ――嬉しい。

 

 私はそのまま、繋いだ手ごと胸元へ引き寄せる。

 抱え込む。

 

 私のモノ。返さないんだから。

 

 

「ジャン」

 

「何だよ」

 

 呼べば返ってくる。

 

 それだけで胸の奥が、じわっと柔らかくなる。

 もっと、欲しがってもいいかな。

 

 

「……もう一回」

 

「……は?」

 

「名前、呼んで」

 

 

 また、少し黙る気配。

 

 視線は合わないまま、ジャンの喉だけが小さく動いた。

 

「……ジラ」

 

 

 ぶっきらぼうで、低くて、でもちゃんと私にくれる声。

 

 好き。

 

 思わず笑うと、ジャンが露骨に嫌そうな顔をした。

 嫌そうなくせに、手は離さない。

 

 

 目を閉じる。

 

 瞼の裏に、高台で私を見つけた時のジャンの顔が浮かぶ。

 

 あの、どうしていいか分からないみたいな顔。

 嬉しそうとも違うのに、隠しきれていなかった顔。

 

 見た瞬間、気づいた瞬間に、

 どうしようもなく、好きが溢れた。

 

 

 ジャンが居る。ここに。

 会うの、久しぶり。

 好き。嬉しい。

 

 

 ……考えないようにしてたから、反動が来たのかもしれない。

 頭が上手く回ってない気がする。

 

 

「……迎えに来てくれたの?」

 

 口に出してから、自分で少しだけ笑いそうになる。

 帰ってくる日なんて教えてない。

 迎えなんて出来ないのに。

 

 でも、そうだったらいいのに、と思った。

 

 

 ジャンの手を握る。

 腕も、ぎゅっと抱え込む。

 目を閉じると、ジャンの体温と匂いに包まれている気分だった。

 

「……そうだといいなぁ」

 

 掠れた声は、たぶんほとんど吐息だった。

 

 

 ダメだ。

 このままだと寝てしまう。

 

 ジャンの指に自分の指を絡める。

 骨ばった感触で、少しだけ意識を繋ぎ止める。

 

 それでも瞼は重くて、頬はジャンの腕にもうずっとくっついたままだ。

 

 

「……そんなに眠ぃなら、寝ろよ」

 

「いやよ」

 

 ほとんど反射みたいに返す。

 起きていたい。まだ。

 せっかく会えたのに。

 

 かろうじて少しだけ目を開けると、ジャンは眉を寄せたまま視線をあさっての方へ投げた。

 

 それから、小さく舌打ちして、少しだけ自分の肩を寄せてくる。

 

「……ほら」

 

「?」

 

「腕だと痺れんだよ。肩使え」

 

 そう言いながら、私の頭が預けやすい位置へ、自分の身体を合わせてくる。

 文句の形をしているのに、やってることは甘い。

 

 私は肩に額を預ける。

 さっきより楽で、もっと落ち着く。

 

 だめ。

 これだと本当に寝てしまう。

 

「……や」

 

「や、じゃねぇよ」

 

「起きてたいの」

 

「何でだよ」

 

「ジャン、いるから」

 

 今度こそ、ジャンが黙った。

 

 気球の揺れと、風の音だけが耳に残る。

 少しして、握られた手にだけ、ほんの少し強く力が返ってきた。

 

「……そういうの、今言うな」

 

 低い声だった。

 困ってる時の声。

 

 私は少しだけ笑って、そのまま肩へ擦り寄る。

 

「でも、ほんと」

 

「うるせぇ」

 

「うん」

 

 素直に返すと、ジャンはまた何か言いかけて、やめた。

 

 そのまま、何もしない。

 離そうともしない。

 肩も、手も、そのまま貸してくれる。

 

 ジャンの体温に包まれて、風の揺れに揺られて、意識が沈んでいく。

 

 もっと見ていたいのに、瞼が重力に負けていく。

 

 落ちる寸前、頭に触れる気配があった。

 ほんの一瞬、髪を払うみたいな、不確かな感触。

 

 夢かもしれないと思った。

 

「……」

 

 ぼそっとした声が、すぐ上から降ってくる。

 

 ずるい。

 優しい。

 好き。

 

 重くなった瞼は、もう持ち上がらなかった。

 

 最後に感じたのは、

 風ではなく、ジャンの体温だった。

 

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