ジャンの体温は、服越しでもちゃんと温かかった。
その温度に頬を押しつけたまま、息を吐く。
胸の奥に張っていたものが、少しずつほどけていく。
――安心する。
そう思った瞬間、身体の力が抜けた。
気球は一定の揺れで空を進み、足元から伝わる振動が、じわじわと意識を緩めていく。
眠りたくなんてないのに、瞼が勝手に重くなる。
私は抱え込んだジャンの腕に、頬を押しつける。
目が自然と落ちる。
思考が、まとまらないまま漂っていく。
マーレは確かに楽しかった。
知らない土地。知らない規律。
批評する目。値踏みする声。
こちらを悪魔と呼ぶ空気。
そこに入り込んで、言葉を置いて、相手の頭の中を覗いて、
少しずつ盤面をずらしていくのは、どうしようもなく心が躍った。
でも、今は考えられなかった。
今はこの温度の方がずっといい。
「おい……ジラ、眠いのか?」
低い声が、すぐ近くで落ちてくる。
耳に触れて、そのまま胸の奥へ沈んだ。
好き。
もっと聞いていたい。
この声で、もっと呼ばれたい。
呆れた声も、困った声も、私に向けられるなら全部好き。
「……好き。もっと」
自分でも何を言っているのか、半分くらい曖昧だった。
ただ、もっと欲しかった。
「……っ」
抱え込んだ腕が、わずかに身じろいで、
反射的に指先に力が入った。
だめ。
これは私の。
腕に胸を押しつけるようにして、もっと深く抱え込む。
離れないように。逃がさないように。
「……お前なぁ」
呆れたみたいな声。
でも、本気で振り払う気配はない。
視線だけが、周囲を窺うみたいに動いているのが分かった。
他にも人がいる。気球の中だ。分かってる。
分かっているけれど、だから何だという気分でもあった。
別にいいじゃない。
――邪魔するなら、消してやる。
一瞬だけそんな事が頭を過ぎる。
でもそれすら、ジャンの体温に触れているとどうでもよくなった。
瞼が重い。
持ち上げるのも億劫なくらい重い。
それでも今のジャンの顔が見たくて、少しだけ目を開けた。
ジャンはこっちを振り向きかけて、その途中で止まっていた。
何か言おうとして、やめたらしい口元が固い。
目は合わせたのに、すぐ逸れる。
耳だけが赤い。
頬が自然と緩んだ。
こうやって笑うのいつぶりだろう。
「……なぁに?」
「なぁに、じゃねぇよ」
返ってきた声は低いのに、少し掠れていた。
好き。
もっと困ればいいのに。
でも、困らせすぎたら嫌われてしまう。
私は腕に頬を押しつけたまま、少しだけ目を伏せる。
「……手も、繋いでいい?」
欲張りすぎかな。ダメかな。
くっついてるのを剥がされないだけ、好かれてるのが分かる。
私はジャンの腕に自分の腕を絡めたまま、手のひらを差し出す。
顔をあげると、ジャンの眉がまた寄った。
そのまま黙る。困ってる。
……ダメ、かな。
うん。大丈夫。
そう思って、指先を引きかけた、その時。
「……お前さ」
低い声と一緒に、差し出しかけた手を先に掴まれた。
少し乱暴なくらい雑な握り方。
でも、ちゃんと包み込むみたいに離さない。
「今さらそこ聞くかよ」
大きい。
温かい。固い。
ちゃんと、握られてる。
指先を少しだけ動かすと、ジャンの手が反応するみたいに、わずかに力を返してきた。
――嬉しい。
私はそのまま、繋いだ手ごと胸元へ引き寄せる。
抱え込む。
私のモノ。返さないんだから。
「ジャン」
「何だよ」
呼べば返ってくる。
それだけで胸の奥が、じわっと柔らかくなる。
もっと、欲しがってもいいかな。
「……もう一回」
「……は?」
「名前、呼んで」
また、少し黙る気配。
視線は合わないまま、ジャンの喉だけが小さく動いた。
「……ジラ」
ぶっきらぼうで、低くて、でもちゃんと私にくれる声。
好き。
思わず笑うと、ジャンが露骨に嫌そうな顔をした。
嫌そうなくせに、手は離さない。
目を閉じる。
瞼の裏に、高台で私を見つけた時のジャンの顔が浮かぶ。
あの、どうしていいか分からないみたいな顔。
嬉しそうとも違うのに、隠しきれていなかった顔。
見た瞬間、気づいた瞬間に、
どうしようもなく、好きが溢れた。
ジャンが居る。ここに。
会うの、久しぶり。
好き。嬉しい。
……考えないようにしてたから、反動が来たのかもしれない。
頭が上手く回ってない気がする。
「……迎えに来てくれたの?」
口に出してから、自分で少しだけ笑いそうになる。
帰ってくる日なんて教えてない。
迎えなんて出来ないのに。
でも、そうだったらいいのに、と思った。
ジャンの手を握る。
腕も、ぎゅっと抱え込む。
目を閉じると、ジャンの体温と匂いに包まれている気分だった。
「……そうだといいなぁ」
掠れた声は、たぶんほとんど吐息だった。
ダメだ。
このままだと寝てしまう。
ジャンの指に自分の指を絡める。
骨ばった感触で、少しだけ意識を繋ぎ止める。
それでも瞼は重くて、頬はジャンの腕にもうずっとくっついたままだ。
「……そんなに眠ぃなら、寝ろよ」
「いやよ」
ほとんど反射みたいに返す。
起きていたい。まだ。
せっかく会えたのに。
かろうじて少しだけ目を開けると、ジャンは眉を寄せたまま視線をあさっての方へ投げた。
それから、小さく舌打ちして、少しだけ自分の肩を寄せてくる。
「……ほら」
「?」
「腕だと痺れんだよ。肩使え」
そう言いながら、私の頭が預けやすい位置へ、自分の身体を合わせてくる。
文句の形をしているのに、やってることは甘い。
私は肩に額を預ける。
さっきより楽で、もっと落ち着く。
だめ。
これだと本当に寝てしまう。
「……や」
「や、じゃねぇよ」
「起きてたいの」
「何でだよ」
「ジャン、いるから」
今度こそ、ジャンが黙った。
気球の揺れと、風の音だけが耳に残る。
少しして、握られた手にだけ、ほんの少し強く力が返ってきた。
「……そういうの、今言うな」
低い声だった。
困ってる時の声。
私は少しだけ笑って、そのまま肩へ擦り寄る。
「でも、ほんと」
「うるせぇ」
「うん」
素直に返すと、ジャンはまた何か言いかけて、やめた。
そのまま、何もしない。
離そうともしない。
肩も、手も、そのまま貸してくれる。
ジャンの体温に包まれて、風の揺れに揺られて、意識が沈んでいく。
もっと見ていたいのに、瞼が重力に負けていく。
落ちる寸前、頭に触れる気配があった。
ほんの一瞬、髪を払うみたいな、不確かな感触。
夢かもしれないと思った。
「……」
ぼそっとした声が、すぐ上から降ってくる。
ずるい。
優しい。
好き。
重くなった瞼は、もう持ち上がらなかった。
最後に感じたのは、
風ではなく、ジャンの体温だった。