マーレから帰還した日から、壁の外の世界地図は、少しずつ埋められていった。
そして×の印が増えていく。
ここにはもう必要ない、という印。
◇
夜。
雲のない空に、星の代わりに煙があがる。
遠くの国の軍港。
港湾施設の灯りが、波に揺れて滲んでいる。
兵舎の窓には明かり。中では、きっと誰かが退屈そうにカードを切っている時間。
その上を、黒い影が滑っていく。
立体機動のアンカーが、よその国の倉庫の壁に突き刺さる音は、ここでも同じだった。
鎖の唸りも、ガスの噴き出す鈍い音も。
違うのは、相手が巨人じゃないことだけ。
私が選んだ人達が、既に慣れたように効率よく散っていく。
このことは団長しか知らない。
……リヴァイ兵長くらいは知ってるかしらね。
「四番。書類室を確認。技術書、押収しました」
「了解。一旦戻れ。
火、回る前にこっちへ寄越せ!」
フロックの声が、夜気を裂いた。
私は別の屋根の上で、海風に髪を煽られながら、静かに状況を見下ろしていた。
扉をこじ開け、中から書類の束や試作品のようなものを手際よく回収していく。
こちらを見つけた兵士の口を、悲鳴をあげる前に閉ざす。
その隙に、別の兵士が地下階段を駆け下りていく。
一番の狙いは、いつも同じだ。
設計図。記録。
そして、それらを書いた「頭」。
「いたぞ。設計主任!」
中年男が地下から引きずり出されてくる。
目は恐怖で見開かれ、言葉にならない悲鳴が喉で絡まっていた。
私は屋根から飛び降り、石畳に膝を曲げて着地する。
男の前に歩み寄ると、彼の視線が私に縋りついてきた。
「た、助け――」
「静かに」
笑って、指を一本立てる。
「命は保証する。少なくとも、今すぐ殺すつもりはないわ」
男の喉が、ひゅ、と鳴った。
私はそのまま彼の目の前にしゃがみ込む。
「あなたの頭が欲しいの。あなたが生きててくれないと、私達はとても困る」
言葉の意味を、彼はすぐには理解できないようだった。
ただ、何かが変わったと悟ったのか、震えは少しだけ弱くなる。
「で、でも、私はこの国の……」
「この国の技術者。戦争を前に進める仕事をしてきた」
私は彼の頬に軽く指を触れた。
汗と血と恐怖の匂い。
「今度は、戦争を止めるために働いてもらうわ」
「……止め、る?」
「ええ。あなたの技術で、世界から戦争がなくなるのよ」
男の表情が目を見開く。
後ろで、フロックが鼻で笑った。
「先生方は毎回これで固まるよな」
「夢のある言い方をしてあげてるのよ」
「どこがだよ」
フロックは呆れたように言いながら、男の腕を乱暴に引き上げ、立体機動のハーネスに括りつける。
男の命綱は、彼の腰のベルトと、私達が握っているロープだけ。
この数ヶ月、私達はこれを繰り返した。
マーレから提供された技術に、更に奪った他国の技術を繋ぎ合わせる。
砲兵。鉄道。通信。爆薬。
各国の戦争の牙を、根元ごとちぎって壁の中に持ち帰る。
誰がやったか分からない敵がいる。
それだけを世界に理解させるための、地道で派手な泥棒。
――足りない、まだ。
世界を、私の思い通りにするためには、
まだ、足りない。
◇
地下の施設に、急ごしらえの部屋割りが追加された。
元々の入り組んだ廊下に加え、中からは出られないように鍵のかかった部屋を幾つも通る。
扉にはそれぞれ番号と、担当者の名前。
研修室と呼ばれている一室を覗くと、ジャンが椅子に腰掛けていた。
向かいの簡易ベッドに座っているのは、最近連れてきたばかりの技術者。
「だからさ、あんたのとこの砲って、こっちのより装填が早ぇんだろ? その仕組みをもうちょい、こう……」
「ふ、ふむ……。いや、あなた達のものも、決して悪くはない。むしろ、素材の質がいいのはそちらだ」
白髪混じりの男が、身振り手振りを交えて語っている。
ジャンは真剣に聞きながら、時々冗談を挟む。
◇
――本当に、いつの間にかだった。
エレンやミカサのように、表側の方に置いていたのに。
いつの間にか地下のメンバーに入り込んでいた。
ジャンは私に言った。
「もうここでお前が何やってるかは、だいたい知ってる。
表側に戻したりしないだろ?」
そう言って、泥を飲み込んだような顔をした。
知ってるなら、戻せない。
ここが知られても、
――まだ、嫌われてない。
「……好きにして」
その時は、そうとしか言えなかった。
◇
「へぇ、褒められると悪い気はしないね」
技術者の男が苦笑した。
眉間に深い皺を刻みながら、少し肩を落とす。
「外では悪魔だなんだと言われているが……」
「……」
「君も、廊下ですれ違う兵も。厨房で働く娘も。皆、家族の話をする。仕事の愚痴も言う。笑う。怒る。……悪魔と呼ぶには、あまりにも、普通だ」
ジャンの喉が、僅かに上下した。
「……ありがとな」
「そして君は、いい人だ」
男は静かに続けた。
「エルディア人にも、いい人はいる。――そう言ったら、笑われるかもしれないがね」
ジャンは少しだけ視線を逸らし、天井を見上げた。
「笑わねぇよ」
自嘲みたいな笑い方で、でも確かな声でそう言った。
その横顔を、廊下の影から少しだけ覗き見る。
私と違って、ジャンはちゃんと人を見ている。
攫ってきた技術者を、
私が「道具」としか見ていないものを、ジャンはちゃんと「人」として扱ってしまう。
私にはできない。理解もできない。
でも、好き。
「――覗きなんて趣味悪いな」
すぐ後ろで囁かれて、私は肩をすくめた。
振り返れば、フロックが壁にもたれて腕を組んでいる。
「んー。任務中の兵士の様子確認?」
「はぁ? ただの監視だろ」
「そんなこと言わないで」
「じゃあなんて言うんだよ。
お前最近あいつと目ぇ合わせねぇくせに」
目を伏せる。
話したい。でも、あの目で見られたくない。
先延ばしにし続けている。
「……次のお客様、来たんでしょう。
行きましょう?」
「いいけどな。俺は」
◇
尋問室は、余計なものを一切排除した部屋だ。
入れる人も限られるし、他の部屋からも離した。
椅子と机、鎖。
壁に埋め込まれた灯り。
外への扉は分厚い鉄。
中央に座らされているのは、別の国の通信技術者だ。
まだ若い。二十代前半。
手首に食い込んだ枷の跡が赤い。
「名前」
「……言ったら、殺されるんだろ」
「言わなくても、殺されるかもね」
彼の目が揺れる。
冗談半分、本気半分。
私は椅子の背に体重を預けて、彼の視線を受け止めた。
「どっちにしても、今すぐじゃない方を選んだ方が得よ」
「……レオン」
「レオン。良い名前ね」
私は机の上に資料を広げる。
連れてきたときに押収した書類。符号表。手書きのメモ。
「率直に言うのだけれど、この技術、すごいわ
この纏まりのない資料で理解できる人は私くらいでしょうけどね?」
「……」
「何故あなたは国に尽くすの?
義理とか心情のものかしら。これ、完成させたくないの?」
淡々と告げると、レオンの眉がきつく歪んだ。
「……」
「国のために作ってる資料に乗せなかったのは何故?
……まぁ、弾圧されそうよね。あの国だと」
机の向こう側に肘をつき、顎を乗せる。
「質問に答えてくれるなら、ここで本を書かせてあげる。あなたの知ってることを全部、教科書にできる。名前も残せる」
「……拒否したら?」
「フロック」
呼びかけると、壁際にもたれていた彼が、面倒くさそうに顔を上げた。
「なんだ?」
「拒否した場合、この子をどうすると思う?」
「どっかの部屋に閉じ込めて、飯と水だけ与えて放置。心折れるまで二、三ヶ月? 折れなかったら、使えねぇから処分」
レオンの顔から血の気が引いた。
「処分って……!」
「選ばせてるだけ、優しい方だろ」
フロックが肩をすくめる。
「ここに連れてこられたってことは、まだ使える可能性があるってことだ。何も言わねぇまま殺された奴だって、山ほどいる」
事実だ。
だからこそ、彼らは私のところに来る。
「ね?」
私はレオンを見た。
「ここで普通に働くか、何もしないまま誰にも知られず消えるか。どっちがいい?」
少しの沈黙。
ぎゅっと結ばれていた唇が震えて、やがて開く。
その瞬間が、好きだ。
自分の頭が、誰かの世界を変えてしまうと理解した人の顔が、たまらなく好きだ。
彼の技術は、そこまでのものなんかじゃない。
折れる場所は、人によって違う。
◇
奪った物を返すつもりなんて、なかった。
技術を搾り取って、知っていることを全部紙の上に吐かせたら、それで用途は終わる。
外に返せば、いつか必ず敵として戻ってくる。
遠い未来、誰かの手に渡って、別の形で私達を刺す。
そんな面倒で確実なリスクを、わざわざ抱えてあげる理由なんて、どこにもない。
でも。
「……返したいって言ってきた人達の名簿が、これ」
薄暗い別棟の部屋で、私は机の上に紙束を置いた。
フロックがそれを拾い上げ、ざっと目を通す。
「こいつら、技術者と直接話してる連中か」
「そう」
――名簿には、ジャンも入ってる。
「それでもやるのか?」
「やる」
人の心なんてどうでもいい、と言いたいところだけれど、それだと現場は回らない。
帰りたいという言葉を直接聞いたら、自分が何とか出来るかもしれないならば、動きたくなるものなのだ。人は。
できないと落とせば、勝手に動き出すのが目に見えている。
「……表向きには、それぞれの国に返す。
船に乗せて、送り出す」
「表向きには、な」
フロックの声は乾いている。
「実際には、国に帰り着くことはない。」
この場所じゃない。
誰も見ていないところで。
証拠も残さず、名前も残さず。
フロックは眉を寄せたまま、小さく声を出す。
「……ジャンが知ったら、ぶちギレるぞ」
知ってる。
ジャンだけじゃない。これは士気に関わる。
だから
「私とあなただけ」
「他の人は
――知る必要ないの」
部屋の空気が微かに揺れた気がした。
「……俺が止めろって言ったら?」
フロックの声が、少しだけ低くなった。
私は笑って、彼を見た。
「あなたが止めてくれるなら、それはそれで面白いけど」
「ジラ」
「何?」
「……いや。やっぱ、今はいい」
彼は紙束をぱさりと戻し、代わりに一本のペンを机の上に置いた。
「俺は、お前が決めたやり方を、最後まで見届けるって決めた。
途中で折れたら、その時はその時だ」
折れたら殺す。
以前、そう言われたのを思い出して、思わず口元が緩んだ。
「頼もしいわ、さすが私だけの味方ね」
「味方って言葉、便利に使いすぎなんだよ、お前」
フロックが呆れた声のまま、扉に手をかける。
――ドアの隙間から、薄い影が見えた。