空気が、きしんだ。
「今の話、本気か」
ジャンが、ドアの影から姿を表した。
その声は、乾いているのに、どこか熱かった。
部屋の狭さが、一気に息苦しくなる。
机の上の名簿の文字が、急に読めなくなった。
――聞かれてた。
自分の声が届く経路を、この部屋の場所を頭の中で逆再生する。
扉の隙間。壁の厚さ。この部屋までに通る扉、見張り。
計算が、甘かった?
そんなわけない。なんでここにジャンがいるの。
――違う。
――そんなの後。
顔は自然と切り替わった。
慣れた顔で微笑む。
「……どうしたの?」
そう言いながら、ジャンを見る。
立っていた。
扉のところに。
逃げるでもなく、踏み込んでくるでもなく、ただ、そこに立っている。
そのジャンの顔を見た瞬間、少しだけ失敗したと思った。
「とぼけるな」
低い声だった。
「返すふりして殺すって、そういう事だろ」
言葉が出て、来ない。
頭が一気に回らなくなった。
……ごまかせる?
ジャンの喉が一度だけ強く鳴るのが見えた。
――怒ってる。私に。
「誤魔化すなよ」
低い。
怒鳴っているわけじゃない。なのに、部屋の空気が張りつく。
「返すって言っただろ」
言った。
名簿を受け取った。
そう言わないと、貴方達は次の手を打つだけだから。
「信じたんだぞ、あいつらは。
自分の役目が終われば帰れるって」
嘘だと、バレてはいけない。
それが大前提だった。
「それを、最初から殺すつもりで使ってたのかよ」
ジャンが部屋に踏み込む。
私は、目を逸らした。
言葉が、出てこない。
理屈なんて、いくらでもあるはずなのに。
壁際にもたれていたフロックが、ゆっくり背を離す。
「――おい、ジャン」
「黙ってろ」
その一言で切られて、フロックが口を閉ざす。
「……ふざけんなよ」
ジャンが一歩、踏み込む。
背中が机に当たる。逃げ場がなくなった。
「お前だって、あいつらと飯食ってただろ」
「話もしてただろ」
「家族の話まで聞いて、それでも殺すのかよ」
あいつら。
私が「道具」として連れてきた、使えると思った人達。
「それでも、殺すのかよ」
「……前提が、違うんだもの」
私は、私のために、
今はこの島のために動いてる。
そいつらのためじゃない。
それに。
「外に返したら、いつか必ず誰かが利用する。
私のような人は、外にいくらでもいる」
この島に敵対する人に、そんな分かりやすい手土産をあげる義理なんてないもの。
合ってる。私は間違ってない、はずだ。
頭が回らない。正解は分からない。
「――じゃあ俺は?」
かぶせるようにジャンが言った。
「俺も、お前にとっちゃいつか敵になる可能性のある人間か?」
心臓が、一瞬止まった気がした。
思わず顔をあげる。
「……何よ、その話」
「同じだろ」
ジャンが、机に手をついた。
指の節が白くなるくらい力が入っている。
「お前にとっちゃ、俺だって同じだろ」
「いつ裏切るか分かんねぇ、邪魔になるかもしれねぇ駒だ」
「違うって言うなら、言えよ」
「違う」
思わず、声が荒くなった。
「ジャンは、違う」
「どこがだよ!」
机が揺れた。紙が何枚か床に滑り落ちる。
ジャンの声は掠れているのに、ひとつひとつの言葉が刺さった。
「お前が殺そうとしてるあいつらと、何が違うんだよ。
兵士として、技術者として、世界のどっかで戦ってきた人間って意味じゃ、同じだろ」
「……」
「違うって言うなら言えよ」
「俺だけは切らねぇって」
「全部知っても、邪魔になっても、俺だけは殺さねぇって言えよ」
喉が乾く。
言葉が、ひとつも出てこない。
――ジャンのこと、殺そうかな
私が昔、訓練兵時代に零した言葉を思い出した。
唇を噛む。
こうなるって、分かってた。
私の好きな世界と、私の好きなジャンが。
釣り合わなくなる日が、来ただけだ。
沈黙。
自分の心臓の音だけが、やけに響いて聞こえた。
「……殺さない」
やっと絞り出した声は、思っていたよりずっと小さかった。
「ジャンは、絶対に、殺さない」
自分の中の天秤が、傾く。
フロックが息を詰めた気がした。
ジャンが一瞬だけフロックを見た。
すぐにまた私に視線が戻ってくる。
「口だけなら、いくらでも言える」
「証明しろ」
ジャンの目が、真っ直ぐに突き刺さる。
「俺を殺さねぇって言うなら、あいつらも殺すな」
「俺が残したいって思うもの、全部、お前が切り捨てるって言うなら、俺はお前の隣にはいられねぇ」
――嫌われる。
震えそうな手を握りしめる。
何とかして口を開く。
「……それ、脅してるの?」
「そうだよ」
あっさり認められて、思わず笑いそうになった。
私に効くの、分かってやってるのね。
「お前にとって世界が大事なのは分かってる。
でも、俺にとって大事なのは、今、俺が関わってる人間だ」
ジャンが、少しだけ視線を落とす。
「攫ってきちまったのは、もう取り返しつかねぇ。
でも、ここまで来て、やっぱ殺しますは、違ぇだろ」
机の上の名簿。
名前が並んでいる。
帰りたい技術者と、
返しても大丈夫だと推薦する、その担当者達。
私はその全ての顔を、覚えている。
食堂で一緒にご飯を食べたことも、家族の話を聞いたこともある。
同時に、私は連れ去った本人であり、脅しも拷問もする。
私は、彼らを「駒」としか見ていない。
ジャンは、「人」として見ていた。
頭が動かない。
どうするべきなのか、道が途中で途切れてる。
無数にあるはずの仮説が、何一つ思い浮かばない。
それでも。
長い沈黙のあと、ようやく唇が動く。
「……全員は、無理よ」
「無理で済ませる気かよ」
「……済ませたら、嫌われるんでしょう?」
私は困ったように、無理やり笑みを作る。
「返せるように、計画を変えるわ」
フロックが、壁際で小さく息を吐いた。
「……返すのは決定か」
乾いた声だった。
ジャンはホッとしたように息をついた。
それなのに、目の奥の硬さは消えない。
フロックの言葉に振り返る余裕すらないみたいに、
ただ、私だけを見ていた。