島の空気は、確かに前より少しだけ軽かった。
技術者の返還も少しずつ進んでいる。
地下の技術が、マーレから掠め取ってきた知識が、やっと島の土に根を下ろし始めている。
世界相手でも、負ける一方ではないのかもしれない。
皆がそういう顔をしていた。
私は海近くに作られた建物の窓辺にいた。
港を見下ろしながら、手すりに頬を預ける。
「おい。サボんな」
背後から来た声に、振り返らない。
「別にいいでしょ」
「良くねぇよ」
フロックだった。
隣まで来て、同じように下を見た。
港では兵士と捕虜上がりの技術者が入り混じって動いていた。大きな部品を運ぶ声、荷車のきしむ音、海風。全部が生きている感じで、だから余計に、私には少し白々しかった。
「……浮かれちゃって」
「だからお前が便利に使うんだろ」
「そうね」
それきり、少し黙る。
フロックは私の横顔を見たらしかったが、何も言わなかった。
ただ。
「会談の時間だ」
そう言われて、手すりから頬を離す。
――今日の客は、アズマビト家。
東洋の一族だった。
その言葉だけで少し胸がざわつくのを、私は認めないことにした。
同じ血だとか、同じ顔だとか、そういうものに今さら期待するつもりはない。
つもりは、ない。
◇
応接室は、明るかった。
大きな窓から午後の光が差し込んで、磨かれた机も銀の食器も、何もかもが妙に整って見えた。
こういう部屋は好きじゃない。
何か大事なことが決まる場所ほど、綺麗にしすぎる。
アズマビト家を迎えたのは、調査兵団ではなく、中央の貴族たちが中心だった。
調査兵団所属は私と、ミカサだけだ。
やがて女性と、女性が連れてきた技術者が入室し、会談はそのまま始まった。
資源の話。技術者の保護。港湾整備。向こうが欲しいものと、こちらが欲しいもの。
話の骨組み自体は単純で、むしろその単純さが心地よかった。
数字と条件だけ追っていればいい。
ミカサはほとんど喋らなかった。
◇
会談が終わったあと。
彼女らが自国へと帰る時だった。
ミカサはエレンに促されるまま、腕の布をずらした。
覗いた印を見た瞬間、女の目が変わる。
資源と港の話をしていた人間の顔じゃなかった。
失くしたものを見つけた顔だった
「……その印」
彼女――アズマビト家当主は、思わず立ち止まった。
ミカサの腕のから覗いた印に、分かりやすく視線が吸い寄せられていく。
「間違いありません。あのお方の家の……」
ミカサが固まる。
ミカサはエレンを見る。
エレンはどことなく満足そうだった。
そうじゃないと、彼女は戸惑いの視線をそのまま私へと向ける。
助けて、か。
ミカサは、こういうの苦手だから。
でもアズマビトの女は、
ミカサにだけ、柔らかく微笑みかけた。
「よくご無事で」
――ああ、そう。
私はそれを見て、理解した。
同じ東洋人でも、入口が違う。
ミカサは見つかった人で、私は違うのだろう。
純血かどうかなんて関係なかった。
そこで不意に、視線がこっちへ向いた。
「あなたは」
アズマビトの女が、今度は私を見る。
「たしか、xxx様でしたか」
そう呼ばれても驚きはしない。
貴族どもはいまだに私をその名前で使う。
「貴方も東洋人だと聞いております」
「はい」
私は微笑みを崩さないまま続ける。
「ですが、――普段はジラヴェラで通しています。
良ければそちらでお呼びください」
「……そのお名前は、こちらのものではありませんね」
「私にはこの名前が都合がいいのです」
そう言って微笑む。
いいんだ。元々大事になんてしてなかった。
◇
外は夕方に変わっていた。
建物は黒い影になっていて、その向こうで海が鈍く光っている。
「ジラ」
後ろからフロックの声。
振り返ると、書類の束を抱えてこちらを見ていた。
「お前らしくねぇな」
私は壁に寄りかかる。
「……名前のことかしら?」
「そう」
フロックは数歩近づいてきて、低い声で言った。
「お前、前は元の名前で呼ばれても流してただろ」
xxx。
屋敷での名前。私の本名。
フロックや、中央とも絡むことが多い人達なんかは、私の偽名についてとっくに知っていた。
……ジャンは、知らないはず。
「だって、
ジャンにジラって呼ばれるの、好きなんだもの」
フロックは眉を顰めた後、書類を持ち直す。
「……あっそ」
「心配でもしてくれたのかしら?」
「知るかよ」
そのまま歩き去った。
本名も嫌いじゃなかった。
でも、ジャンの前ではジラで居たかった。
だから、
xxxはもう、要らない。
「――ジラ」
不意に呼ばれて、顔を上げた。
ジャンだった。
フロックが去った方向から、角を曲がって現れた。
「何してんだ?
フロックが俺の事睨んで行ったんだけど」
「……ジャンに名前、呼んで欲しいなって。
惚気けてたのよ」
ジャンは近づいてきて、私の顔を見た途端に眉をひそめた。
「なんかあっただろ」
「ないわ」
「ある時の顔だろ」
雑だ。
なのに、妙に外さない。こういう時ばっかり。
私は笑おうとして、少し失敗した。
「会談が長かっただけ」
「嘘くせぇ」
「失礼ね」
ジャンは私の横に並んで、外を見た。港の方から誰かの怒鳴り声がして、すぐに笑い声に変わる。
「……東洋の客、来てたんだろ」
「面倒だったか」
「話は早い人だった」
ジャンは私の隣の壁にもたれて腕を組んだ。
「で。
なんで名前なんだよ」
「ダメ?」
「何か言われたのか」
そこ、訊くんだ。
訊かないと思っていたのに。
ジャンは待っていた。
急かさない。こういう時だけ、変にちゃんとしている。
「名前」
私が言うと、彼は目だけで続きを促した。
「……私の本名分かる?」
「……ジラヴェラ=ジェネリンド、だろ」
ジャンは不可解そうな顔を隠さない。
やっぱり知らない。
そのことが私は嬉しくて、少し頬を緩ませる。
「東洋人らしくないわねって言われただけよ」
「でもいいの。
ジャンが呼んでくれる名前、私好き」
そう答えた途端、ジャンは少しだけ眉を上げた。
数秒、黙った。
「……そうかよ」
「うん」
「それだけか?」
「もっと呼んで欲しい」
私は1歩近づく。
ジャンは少し視線を逸らした。
耳のあたりが、わかりやすく落ち着かない。
そのまま呟く。
「東洋人だろうが何だろうが、
お前はジラだろ」
私はそこでようやく、会談のあとずっとささくれていた気分が、少しだけほどけるのを感じた。
また少し近づいて、逸らされた顔を覗き込む。
「もっと呼んでよ」
「うるせぇ。呼んだだろ」
「ねぇ、ジャン。お願い」
根負けしたかのように、ジャンの視線が私を向いた。
私は目を逸らさないで、本当に思ってることだけを声に乗せる。
「私、
ジャンにジラって呼ばれるの、本当に好きなの」
さっきまで喉に引っかかっていたものが、少しだけ軽くなる。
ジャンがここにいて、私を見て、私の事をジラって呼んでくれる。
港ではまだ人が動いている。島の空気は上向いていて、皆どこか希望を持ち始めている。
私はその全部をまだ白々しく見ているし、たぶん明日もそうだ。
同じ東洋人だからって、救われるわけじゃない。
血筋があるからって、私の居場所ができるわけじゃない。
それでも。
「……ジラ」
さっきより少し低い声で、ジャンが呼ぶ。
「うん」
「満足か?」
「もっと」
「これ、終わんねぇやつか」
ぶっきらぼうで、雑で、でも勝手にどこかがほどける。
「うん」
そう返すと、ジャンはまた気まずそうな顔をした。
「だからその、素直に返すのやめろ」
「どうして」
「調子狂う」
私はもう一度笑った。
窓の外で、海風が影を揺らす。
同じ血の人間に会っても、何も始まらなかった日だった。
でも、自分で選んだ名前が少しだけ本物になった日ではあった。