先に手が動いた。
「先、借ります」
ジラの細い腕を乱暴に掴む。
驚いたように肩が跳ねたが、構わず立たせ、そのまま引きずるように歩き出した。
握っている力が強すぎるのは、分かってる。
「おい!」
すぐ背後で椅子が軋み、ジャンの声が飛ぶ。振り返りもせず、俺は横目だけ向けて睨みつけた。
ジャンの身体が一瞬止まる。
背中に団長達の視線が突き刺さるのを感じたが、無視した。
俺が先だ。
掴んだときのジラの顔は、心底驚いたように目を丸くしていたくせに、数歩も歩けば顔が作られる。
口の端だけが、面白そうにわずかに上がった。
クソッ。
俺か。
俺のせいかよ、これ。
◇
人通りのない廊下の奥、ほとんど使われてない部屋の扉を蹴るみたいに開けて、ジラを中へ押し込む。
手を離し、軋む音を背中で聞きながら扉を閉めた。
ジラは少しふらつきながらも姿勢を直し、こちらへ首を傾げる。
いつもの人を値踏みする角度で。
「……どうしたの、フロック?」
その声音が妙に落ち着いていて、逆に苛立ちが増した。
「なぁ、ジラ」
喉が熱い。言葉を選ぶ余裕なんかない。
「分かってんのか?」
「なにが?」
本当に分かってねぇ顔。
とぼけてるのか、素で気づいてねぇのか、一瞬判断に迷う。
「線、超えてんだよ。お前」
「線?」
首を傾げたまま、薄く笑う。
その笑いが、今は心底ムカついた。
「人を数字で見てるのは前からだ。
人が苦しんで、混乱してるの見て、楽しくて仕方ねぇ顔してんのも、前から知ってる」
一歩詰める。
「でもな。
それだけのやつじゃなかっただろ」
ジラの睫毛が、不満そうに一瞬だけ揺れた。
「自分の趣味だけで人を潰したいなら、貴族の飾りのままでもやれただろ。
わざわざ調査兵団なんかまで出てきてねぇよ」
呼吸が荒くなる。
それでも言葉は止まらない。
「お前は、悪いって分かっててやってんだよ。
今までは、利益や得がある時しか自分の趣味は通さなかった」
絞り出すように言う。
「だから、まだギリギリ許せたんだよ。
俺も、団長も、他のやつらも。
お前が必要だからって線ギリ攻めてるだけだって、思い込んで誤魔化してきた」
ジラと目が合う。
瞬き。何度も。
――あのジラが、本気で、驚いてる?
「……楽しいから、だと思ってたのだけれど」
(……マジで、気づいてなかったのかよ)
笑えてくる。
ほんとに俺のせいか?これ。
気づいてなかったとか、分かるかよ、んな事。
「……あの技術者返して、得したやつ、誰だよ」
静かに問いかける。
ジラは俯く。
「――私。楽しかったわよ?」
「ジャンの信頼裏切ってまで、欲しいもんかよそれ」
最初は皆、喜んだ。
ジャンだって、ちょっとだけ救われたような顔してた。
お前は、嫌われなかったとホッとしただけだ。
技術者が殺されたって、自分は楽しめる。
返すのを決めたのはジャン本人。
自分は嫌われないって、
そんなヌルい、ボケた予測しやがって。
――俺らのこと、バカにしすぎだろ。
返した技術者は、本島で被害者に仕立てられた。
新聞はパラディ島を悪魔の国だって喚き立ててる。
「こうなるなら、ジャンも無理に返さなかった」
喉の奥が焼ける。
「――お前は、最初からこうなる可能性、見えてたんだろ」
こいつだったら読めてたはずだ。
それくらい、俺らはもう分かってる。
それでも、面白そうだからって天秤にかけて、世界の方選んだ。
そう思い込んだ。ジャンが絡んだから、バカになってんだこいつの予測が。
「お前は今回、
ジャンを取ったつもりで、
ジャンでもなく、俺ら人類でもなく」
「――自分の楽しみをとった」
線を、超えた。
――お前が止まらなくなったら。
――その時は、俺が、殺す。
訓練兵の頃、ジャンを殺そうとしたこいつに、俺は言った。
止まるかこいつ?
止まれ。止まるよな?
ジラは俯いたまま。
表情が影になって、見えない。
――廊下の向こうから、焦ったような靴音が近づいてくる。
舌打ちが漏れた。
「……チッ」
俺は扉を開け、自分だけ外へ出る。
背中で扉を押さえ、ジラを部屋に閉じ込める。
「やっぱりお前か」
案の定、ジャンが歩いてきた。
眉間に皺寄せて、まっすぐ俺を睨んでいる。
「俺だって、ジラに話する権利くらいあるだろ」
「悪いけど、無ぇよ」
短く切り捨てる。
ジャンの目が一瞬ギラッと光き、次の瞬間、俺の胸ぐらを掴んできた。
「退け」
低い声。喉の底で震えてる。
俺は笑った。鼻で。
「自分のせいでこうなったって、思ってんのか?」
「あ?」
「これはな、ジラの悪癖だ」
胸ぐらを掴まれたまま、顔を近づけて言う。
「お前が知らなかっただけで、地下じゃ日常茶飯事だったことだ」
「貴族の書物を漁った時に邪魔だったやつ」
「必要な情報をどれだけ痛めつけても吐かねぇやつ」
「新しい薬を試して、そのまま動かなくなる身体」
「新装置の実験で転がる死体」
言葉は荒くなっていく。
「その場に、いつもジラはいた。
手ぇ下してた時もあれば、椅子に座って見てただけの時もある」
思い出すのは、あいつの目だ。
追い詰められたやつの絞り出す感情を。
死んだやつらを見る、俺らを。
楽しそうに、観察してくる目。
「胸糞悪いだろ。俺だってそう思うよ」
鼻で笑う。
「それでも俺らは飲み込んだ。
それが一番早くて、俺らに足りねぇのは時間だったからだ」
俺の言葉に、ジャンの手が少しだけ緩む。
胸元を掴む力が弱くなった瞬間、心の中で別の声が囁いた。
(なんでこんなやつに)
なんで俺なんかに、ジラのことを説明しなきゃならねぇんだ。
なんでここまで言ってやんなきゃ、こいつは分かんねぇんだ。
今度は俺が、ジャンの胸ぐらを掴み返す。
布越しに伝わる体温が、やけに熱い。
「ついでに、もう1つ教えてやろうか?」
目を細めて言うと、ジャンがわずかにたじろぐ。
「……な、なんだよ」
喉が震えている。声が掠れている。
知りたくねぇけど、もう後戻り出来ねぇって顔だ。
「――俺とジラ、キスしてんだよ」
ジャンの動きが、ピタッと止まった。
時間まで止まったみてぇに、あたりが静かになる。
廊下を吹き抜ける風の音だけが、遠くでかすかに鳴っていた。
「は?」
間抜けな声が漏れる。
胸ぐらを掴んだまま、俺は嘲りの笑みを浮かべた。
知ったことか。
もう、全部ぶちまけてやる。
「お前ら、あんだけ、好き好き言っときながら、キスしてないんだってな」
わざとらしく肩をすくめてみせる。
「何歳だよ。ガキかよ、お前ら」
ジャンの肩が震える。
俺の胸ぐらを掴んでいる手も、震えている。
怒りか、ショックか、その両方か。
「……いつだよ」
声まで震えてる。
当たり前だ。好きな女の口が、別の男に取られてた話なんて聞きたくなかっただろうに。
「訓練兵の時だ。お前、ボロ泣きさせただろ」
俺の脳裏に、あの夜の倉庫が蘇る。
泣き腫らした目で、ぐしゃぐしゃな顔で、扉を開けてきたジラ。
「忘れたなんて言わせねぇぞ?」
「あれは……!」
ジャンが俺を睨みつける。顔が近すぎて鬱陶しい。
掴んでいた胸ぐらを突き放すように手を離した。
同時に、ジャンの手も滑り落ちる。
「何があったかなんて、どうでもいい」
吐き捨てる。
「あいつはボロボロのまま俺のとこ来て、キスしろって言い出した」
喉の奥から苦笑が漏れた。
「……俺が拒否出来ると思うか?」
あの目で見上げてきて、あの声で頼まれて。
……俺には、無理だった。動けなかった。
「拒否、しろよ」
ジャンが低く言う。
睨みつけながら、歯の奥で言葉を噛み砕いて。
「無理だっつの。あいつの方から舌突っ込んできたんだぞ」
わざと下品に言ってやる。
顔をしかめたのはジャンだけじゃない。俺もだ。
いまだに、ふとした時に思い出す。
柔らかい感触と、熱と、後味の悪さ。
「……それが、今と何の関係がある」
ジャンの声が、さっきより低くなる。
付き合ってられねぇって顔してるな。
残念。
「大ありだよ」
間髪入れずに返す。
「お前は、調査兵団なんか来るべきじゃなかった」
ジャンの目が大きく開く。
「お前がいたから、ジラはこんなことやったんだよ」
「は?」
「お前がいなきゃ、技術者返還なんて話、ジラの却下の一言で終わってた」
言葉を突き立てる。
「お前が食い下がったんだ。
殺さなくて済むなら、その方がいい、なんて綺麗事で殴りかかって」
俺は見ていた。
あの時、ジャンの拳が震えてたのも。
その横で、ジラが迷った顔をしたのも。
「ジラは、お前に嫌われたくなくて頷いた」
扉の向こうのジラを、見ないまま。
「その結果が、今だ。
返された技術者は本島で道具にされて、パラディ島は、また新聞で悪魔扱い」
ジャンの拳が、ぎりっと握りしめられる。
節が白く浮き出て、震えが腕ごと伝わってくる。
「ジラは、人で遊ぶのが好きな最低な女だ」
そこは誤魔化さない。
「お前より先に、俺とキスしてるようなやつだ」
それも事実だ。
「それでも、世界を相手に戦えるようなやつだ」
「世界をあいつの手1つで敵に回せるようなやつだ」
言いながら、自分でも何をしてるのか分からなくなる。
「ジャン」
名を呼ぶ。
「お前、ジラにとって、
世界と同じ位置にいるの分かってんのか?」
目を見る。
「――それでも、ジラのこと、好きか?」