壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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――前話の続き。


73.ジャン視点

 

フロックの足音が遠ざかっていく。

 

その音だけが、やけに鮮明に聞こえた。

 

俺は廊下の真ん中に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

何を言われたのか、全部ちゃんと聞いていたはずなのに、頭の中で繋がらない。

 

 

ジラは人で遊ぶ。

地下でも、前からそうだった。

必要な時だけじゃない。楽しいからやる。

それを、フロックは知っていた。

 

――俺とジラ、キスしてんだよ。

 

 

喉の奥がひどく乾く。

息を吸っても、胸のあたりが全然落ち着かない。

 

視線だけが、目の前の扉に吸い寄せられた。

 

あの向こうにいる。

 

聞こえていたはずだ。

フロックの声は、隠す気なんかなかった。

 

扉の向こうにいる。

 

 

――最低だ。

 

そう思った瞬間、今度は別の声が頭の奥で返してきた。

 

――それでも好きなんだろ。

 

 

舌打ちしたくなった。

誰にだ。自分か。フロックか。ジラか。全部か。

 

 

分からないまま、手だけが先に動いた。

扉の取っ手を掴む。乱暴に引く。

 

軋んだ音と一緒に、薄暗い部屋の空気が流れ出てくる。

 

ジラは、すぐそこに立っていた。

 

扉のすぐ脇。

寄りかかっていたわけでもない。逃げる準備をしていたわけでもない。

ただ、そこで待っていたみたいに、静かにこっちを見る。

 

 

「……聞いてたのか」

 

自分でも驚くくらい、低い声が出た。

 

ジラは一度だけ瞬きをして、少し首を傾けた。

 

「ええ」

 

否定もしない。

 

「聞いてたわ」

 

その言い方に、また腹の底が熱くなる。

 

俺は扉を閉めた。

狭い部屋の中、逃げ道が一つ減る。

 

ジラはそれを見ても、別に怯えた様子はなかった。

 

「……怒ってるのね」

 

「当たり前だろ」

 

吐き捨てる。

 

ジラの目が、ほんの少し細くなる。

面白がってるわけじゃない。かといって困ってるわけでもない。

何だ、その顔。

 

「フロックが言ったこと、どこまで本当だ」

 

聞いた瞬間、自分で馬鹿だと思った。

どこまで、じゃない。あいつはあんな場面で嘘を盛るようなやつじゃない。

少なくとも今は。

 

それでも聞かずにいられなかった。

 

ジラはすぐには答えない。

視線を俺から外さずに、ほんの少しだけ考えるように間を置いてから、口を開いた。

 

「……全部、本当よ」

 

胃の奥がきしんだ。

 

「……っ、」

 

「ただ少し、足りない、かしら」

 

その落ち着いた言い方に、頭の中で何かが切れた。

 

「足りない?」

 

一歩、詰める。

 

「人を痛めつけてんの見て面白い、殺したって楽しい、そういう話に何が足りねぇんだよ」

 

ジラの睫毛がわずかに揺れる。

 

「……面白いのは事実よ」

 

その瞬間、視界が一気に狭くなった。

 

気づいたら、ジラの肩を掴んでいた。

細い。なのに、腹が立つくらい逃げない。

 

 

「お前――」

 

そのまま強く押す。

ジラの背中が壁に当たって、鈍い音がした。

 

それでもジラは声を上げない。

ほんの少し眉を寄せただけで、俺を見上げた。

 

 

距離が近い。

息がかかる。

こんなに近くにいるのに、こいつが何考えてるのか、今まで何一つ分かってなかったのかと思うと、吐き気がした。

 

「何で、そんな顔してられるんだよ」

 

俺の声が震える。

 

怒ってるからか。

違う。怒りだけじゃない。多分もっと、みっともないものが混ざってる。

 

 

「フロックにあんなこと言われて、俺にこんな顔されて、それでも平然としてられるのかよ」

 

ジラは少しだけ眉を寄せて、それから口元だけで笑った。

 

「平然とはしてないわ」

 

「嘘つけ」

 

「嘘じゃない」

 

静かに言う。

 

「少し困ってるもの」

 

「何にだよ」

 

「ジャンが、思ったより怒ってくれるから」

 

 

喉が詰まった。

 

何だ、それ。

俺が怒ることは予想してたのか。

じゃあ何だ。最初から分かってて、こうなってもいいと思ってたのか。

 

 

「……最低だな」

 

絞り出すみたいに言うと、ジラは小さく息をついた。

 

「今さらね」

 

挑発でも開き直りでもない、ただの事実みたいな声だった。

 

余計に腹が立つ。

 

「今さらで済むかよ。俺は……」

 

言いかけて止まる。

何だ、俺は。

 

俺は何だ。

 

怒ってる。

呆れてる。

怖い。

気持ち悪い。

それなのに、目の前のこいつから目を逸らせない。

 

しかも頭のどこかでは、さっきからずっと、フロックの言葉がこびりついて離れない。

 

 

――俺とジラ、キスしてんだよ。

 

知らなくてよかった。

そんなもの。

いや、違う。知りたくなかった。

 

なのに知った。

 

知ったせいで、今、ジラの口元から目が離せない自分がいる。

 

 

最低なのはどっちだ。

 

俺か。

こいつか。

それとも、こんな時にそんなこと考える頭の中か。

 

ジラが俺を見上げる。

少しだけ首を傾けた。

 

「ジャン」

 

呼ばれる。

いつもの声で。柔らかくもない、冷たくもない、あの測るみたいな声で。

 

「何だよ」

 

「……痛いわ」

 

はっとして、掴んでいた肩に余計な力が入っていたことに気づく。

手を離す――つもりだった。

 

 

だが離れない。

 

離したら、多分少し距離が戻る。

その距離を戻したくなかった。

 

自分でも意味が分からないまま、顔を近づける。

 

ジラの表情が、そこで初めて少しだけ変わった。

ほんの僅かに、目が見開かれる。

 

近い。

 

あと少しで触れる。

そのくらい。

 

頭の中では、もうめちゃくちゃだった。

 

 

上書きしたい。

そんな子供みたいな言葉が浮かぶ。

フロックに触れられたことを。知ってしまったことを。さっき聞いた全部を。

何もかも、ぐちゃぐちゃにして見えなくしたい。

 

でも同時に、別の感情が喉元を掴む。

 

今ここでキスしたら、何になる。

こいつのやってることを責めながら、自分もその中に飛び込むのか。

フロックの言う通り、こいつの世界に足を突っ込むのか。

 

 

唇が触れる寸前で、止まる。

 

自分の呼吸がうるさい。

ジラの呼吸も、近すぎて分かる。

 

 

数秒。

いや、一瞬だったのかもしれない。

 

ジラが、かすかに笑った。

 

「……しないの?」

 

その言い方は、ひどく静かだった。

 

煽ってるようでもあったし、本当に確認してるだけにも聞こえた。

 

俺は歯を食いしばった。

 

 

「……今やったら」

 

声が掠れる。

 

「お前、全部終わらせるだろ」

 

ジラの目がわずかに揺れる。

今度は、本当に少しだけ。

 

笑うかと思った。

もっと見下したような顔をするかと思った。

 

でも違った。

 

ジラはしばらく黙って、それから小さく言った。

 

「そうね」

 

その肯定が、妙に真っ直ぐで、胸に刺さった。

 

逃げない。

誤魔化さない。

本当に最低だ。

 

「じゃあ、やっぱしねぇよ」

 

「そう……」

 

「お前、自分が何したか分かってんのか」

 

「……」

 

少し間が空く。

ジラの視線が、真っ直ぐ俺に刺さる。

 

「ジャンに嫌われたくなかったのは、本当よ」

 

言葉が止まる。

 

 

それを今言うのか。

それを言われたら、どうしろっていうんだ。

 

嫌われたくなかったから?

だから技術者を返した?

だから結果としてもっと酷いことになった?

 

馬鹿げてる。

ふざけてる。

でも、ジラなら本当にそういう歪み方をしている気がした。

 

俺は壁に手をついたまま、額がぶつかりそうな距離でうつむいた。

 

「……何なんだよ、お前」

 

絞り出す。

 

「ほんとに何なんだよ……」

 

ジラは答えない。

 

答えられないんじゃない。

多分、今ここで言葉にしたら軽くなるから、しないだけだ。

 

それが分かるのが、また腹立たしい。

 

しばらくそのまま、沈黙が落ちた。

 

狭い部屋の中、聞こえるのは互いの呼吸だけだ。

 

 

やがて、俺はゆっくり身体を離した。

壁についた手を引く。ジラの肩からも手を離す。

 

離れた途端、頭の中に冷たい空気が入ってくる気がした。

 

ジラは壁に背を預けたまま、俺を見る。

髪が少し乱れている。肩のあたりに、俺が掴んだ跡が残ってるかもしれない。

 

それを見て、自己嫌悪が込み上げた。

 

 

「……悪い」

 

思わず口から出た。

 

ジラが目を瞬く。

 

「何が?」

 

「押したこと」

 

「別に」

 

「別にじゃねぇよ」

 

吐き捨てるように言って、顔を逸らす。

 

最低だと罵っておいて、壁に押しつけて、キスしかけて、結局止まって。

何一つ格好よくない。

むしろ最悪だ。

 

それでも、さっきより少しだけ息ができた。

 

 

ジラが静かに口を開く。

 

「ジャン」

 

「何だよ」

 

「……嫌いになった?」

 

 

その問いに、すぐには答えられなかった。

 

なってたら楽だった。

本当に。

 

嫌いになれたら、

俺が引いて、終わりだ。

 

でも、終わらない。

 

 

目の前にいるこいつは最低で、歪んでいて、平気で人を傷つけて、それでも時々、どうしようもなく人間くさい顔をする。

 

 

俺はゆっくり顔を上げた。

 

「……なれたら、楽だったな」

 

それだけ言う。

 

ジラの瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。

気のせいかもしれない。

 

 

俺は扉に手をかける。

もうここにいたら駄目だと思った。これ以上いたら、今度こそ何をするか分からない。

 

扉を開ける前に、振り返らずに言う。

 

 

「次、同じことやったら」

 

自分でも驚くほど低い声だった。

 

「本当に、嫌うからな」

 

背後で物音はしなかった。

ジラは黙って聞いている。

 

 

返事はない。

 

それでよかった。

 

俺は扉を開けて、廊下へ出た。

冷えた空気が顔に当たる。

 

後ろ手に扉を閉める。

今度はさっきみたいに乱暴な音はしなかった。

 

数歩歩いてから、足を止める。

 

胸の奥はまだめちゃくちゃだ。

フロックへの苛立ちも消えてない。

ジラへの怒りも、嫌悪も、何一つ片付いてない。

 

それでも一つだけ、はっきりしたことがある。

 

俺はまだ、あいつを手放せない。

 

最低だと思う。

狂ってるとも思う。

それでも、好きだ。

 

認めたくなくても、もうそれは消えない。

 

俺は目を閉じて、短く息を吐いた。

 

「……くそったれ」

 

誰に向けたのかも分からない悪態を残して、今度こそ歩き出す。

 

足音だけが、長い廊下に乾いて響いた。

 

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