フロックの足音が遠ざかっていく。
その音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
俺は廊下の真ん中に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
何を言われたのか、全部ちゃんと聞いていたはずなのに、頭の中で繋がらない。
ジラは人で遊ぶ。
地下でも、前からそうだった。
必要な時だけじゃない。楽しいからやる。
それを、フロックは知っていた。
――俺とジラ、キスしてんだよ。
喉の奥がひどく乾く。
息を吸っても、胸のあたりが全然落ち着かない。
視線だけが、目の前の扉に吸い寄せられた。
あの向こうにいる。
聞こえていたはずだ。
フロックの声は、隠す気なんかなかった。
扉の向こうにいる。
――最低だ。
そう思った瞬間、今度は別の声が頭の奥で返してきた。
――それでも好きなんだろ。
舌打ちしたくなった。
誰にだ。自分か。フロックか。ジラか。全部か。
分からないまま、手だけが先に動いた。
扉の取っ手を掴む。乱暴に引く。
軋んだ音と一緒に、薄暗い部屋の空気が流れ出てくる。
ジラは、すぐそこに立っていた。
扉のすぐ脇。
寄りかかっていたわけでもない。逃げる準備をしていたわけでもない。
ただ、そこで待っていたみたいに、静かにこっちを見る。
「……聞いてたのか」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
ジラは一度だけ瞬きをして、少し首を傾けた。
「ええ」
否定もしない。
「聞いてたわ」
その言い方に、また腹の底が熱くなる。
俺は扉を閉めた。
狭い部屋の中、逃げ道が一つ減る。
ジラはそれを見ても、別に怯えた様子はなかった。
「……怒ってるのね」
「当たり前だろ」
吐き捨てる。
ジラの目が、ほんの少し細くなる。
面白がってるわけじゃない。かといって困ってるわけでもない。
何だ、その顔。
「フロックが言ったこと、どこまで本当だ」
聞いた瞬間、自分で馬鹿だと思った。
どこまで、じゃない。あいつはあんな場面で嘘を盛るようなやつじゃない。
少なくとも今は。
それでも聞かずにいられなかった。
ジラはすぐには答えない。
視線を俺から外さずに、ほんの少しだけ考えるように間を置いてから、口を開いた。
「……全部、本当よ」
胃の奥がきしんだ。
「……っ、」
「ただ少し、足りない、かしら」
その落ち着いた言い方に、頭の中で何かが切れた。
「足りない?」
一歩、詰める。
「人を痛めつけてんの見て面白い、殺したって楽しい、そういう話に何が足りねぇんだよ」
ジラの睫毛がわずかに揺れる。
「……面白いのは事実よ」
その瞬間、視界が一気に狭くなった。
気づいたら、ジラの肩を掴んでいた。
細い。なのに、腹が立つくらい逃げない。
「お前――」
そのまま強く押す。
ジラの背中が壁に当たって、鈍い音がした。
それでもジラは声を上げない。
ほんの少し眉を寄せただけで、俺を見上げた。
距離が近い。
息がかかる。
こんなに近くにいるのに、こいつが何考えてるのか、今まで何一つ分かってなかったのかと思うと、吐き気がした。
「何で、そんな顔してられるんだよ」
俺の声が震える。
怒ってるからか。
違う。怒りだけじゃない。多分もっと、みっともないものが混ざってる。
「フロックにあんなこと言われて、俺にこんな顔されて、それでも平然としてられるのかよ」
ジラは少しだけ眉を寄せて、それから口元だけで笑った。
「平然とはしてないわ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
静かに言う。
「少し困ってるもの」
「何にだよ」
「ジャンが、思ったより怒ってくれるから」
喉が詰まった。
何だ、それ。
俺が怒ることは予想してたのか。
じゃあ何だ。最初から分かってて、こうなってもいいと思ってたのか。
「……最低だな」
絞り出すみたいに言うと、ジラは小さく息をついた。
「今さらね」
挑発でも開き直りでもない、ただの事実みたいな声だった。
余計に腹が立つ。
「今さらで済むかよ。俺は……」
言いかけて止まる。
何だ、俺は。
俺は何だ。
怒ってる。
呆れてる。
怖い。
気持ち悪い。
それなのに、目の前のこいつから目を逸らせない。
しかも頭のどこかでは、さっきからずっと、フロックの言葉がこびりついて離れない。
――俺とジラ、キスしてんだよ。
知らなくてよかった。
そんなもの。
いや、違う。知りたくなかった。
なのに知った。
知ったせいで、今、ジラの口元から目が離せない自分がいる。
最低なのはどっちだ。
俺か。
こいつか。
それとも、こんな時にそんなこと考える頭の中か。
ジラが俺を見上げる。
少しだけ首を傾けた。
「ジャン」
呼ばれる。
いつもの声で。柔らかくもない、冷たくもない、あの測るみたいな声で。
「何だよ」
「……痛いわ」
はっとして、掴んでいた肩に余計な力が入っていたことに気づく。
手を離す――つもりだった。
だが離れない。
離したら、多分少し距離が戻る。
その距離を戻したくなかった。
自分でも意味が分からないまま、顔を近づける。
ジラの表情が、そこで初めて少しだけ変わった。
ほんの僅かに、目が見開かれる。
近い。
あと少しで触れる。
そのくらい。
頭の中では、もうめちゃくちゃだった。
上書きしたい。
そんな子供みたいな言葉が浮かぶ。
フロックに触れられたことを。知ってしまったことを。さっき聞いた全部を。
何もかも、ぐちゃぐちゃにして見えなくしたい。
でも同時に、別の感情が喉元を掴む。
今ここでキスしたら、何になる。
こいつのやってることを責めながら、自分もその中に飛び込むのか。
フロックの言う通り、こいつの世界に足を突っ込むのか。
唇が触れる寸前で、止まる。
自分の呼吸がうるさい。
ジラの呼吸も、近すぎて分かる。
数秒。
いや、一瞬だったのかもしれない。
ジラが、かすかに笑った。
「……しないの?」
その言い方は、ひどく静かだった。
煽ってるようでもあったし、本当に確認してるだけにも聞こえた。
俺は歯を食いしばった。
「……今やったら」
声が掠れる。
「お前、全部終わらせるだろ」
ジラの目がわずかに揺れる。
今度は、本当に少しだけ。
笑うかと思った。
もっと見下したような顔をするかと思った。
でも違った。
ジラはしばらく黙って、それから小さく言った。
「そうね」
その肯定が、妙に真っ直ぐで、胸に刺さった。
逃げない。
誤魔化さない。
本当に最低だ。
「じゃあ、やっぱしねぇよ」
「そう……」
「お前、自分が何したか分かってんのか」
「……」
少し間が空く。
ジラの視線が、真っ直ぐ俺に刺さる。
「ジャンに嫌われたくなかったのは、本当よ」
言葉が止まる。
それを今言うのか。
それを言われたら、どうしろっていうんだ。
嫌われたくなかったから?
だから技術者を返した?
だから結果としてもっと酷いことになった?
馬鹿げてる。
ふざけてる。
でも、ジラなら本当にそういう歪み方をしている気がした。
俺は壁に手をついたまま、額がぶつかりそうな距離でうつむいた。
「……何なんだよ、お前」
絞り出す。
「ほんとに何なんだよ……」
ジラは答えない。
答えられないんじゃない。
多分、今ここで言葉にしたら軽くなるから、しないだけだ。
それが分かるのが、また腹立たしい。
しばらくそのまま、沈黙が落ちた。
狭い部屋の中、聞こえるのは互いの呼吸だけだ。
やがて、俺はゆっくり身体を離した。
壁についた手を引く。ジラの肩からも手を離す。
離れた途端、頭の中に冷たい空気が入ってくる気がした。
ジラは壁に背を預けたまま、俺を見る。
髪が少し乱れている。肩のあたりに、俺が掴んだ跡が残ってるかもしれない。
それを見て、自己嫌悪が込み上げた。
「……悪い」
思わず口から出た。
ジラが目を瞬く。
「何が?」
「押したこと」
「別に」
「別にじゃねぇよ」
吐き捨てるように言って、顔を逸らす。
最低だと罵っておいて、壁に押しつけて、キスしかけて、結局止まって。
何一つ格好よくない。
むしろ最悪だ。
それでも、さっきより少しだけ息ができた。
ジラが静かに口を開く。
「ジャン」
「何だよ」
「……嫌いになった?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
なってたら楽だった。
本当に。
嫌いになれたら、
俺が引いて、終わりだ。
でも、終わらない。
目の前にいるこいつは最低で、歪んでいて、平気で人を傷つけて、それでも時々、どうしようもなく人間くさい顔をする。
俺はゆっくり顔を上げた。
「……なれたら、楽だったな」
それだけ言う。
ジラの瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
気のせいかもしれない。
俺は扉に手をかける。
もうここにいたら駄目だと思った。これ以上いたら、今度こそ何をするか分からない。
扉を開ける前に、振り返らずに言う。
「次、同じことやったら」
自分でも驚くほど低い声だった。
「本当に、嫌うからな」
背後で物音はしなかった。
ジラは黙って聞いている。
返事はない。
それでよかった。
俺は扉を開けて、廊下へ出た。
冷えた空気が顔に当たる。
後ろ手に扉を閉める。
今度はさっきみたいに乱暴な音はしなかった。
数歩歩いてから、足を止める。
胸の奥はまだめちゃくちゃだ。
フロックへの苛立ちも消えてない。
ジラへの怒りも、嫌悪も、何一つ片付いてない。
それでも一つだけ、はっきりしたことがある。
俺はまだ、あいつを手放せない。
最低だと思う。
狂ってるとも思う。
それでも、好きだ。
認めたくなくても、もうそれは消えない。
俺は目を閉じて、短く息を吐いた。
「……くそったれ」
誰に向けたのかも分からない悪態を残して、今度こそ歩き出す。
足音だけが、長い廊下に乾いて響いた。