ジラが来たのは、昼過ぎだった。
いつもみたいに気づいたらすぐ隣にいるんじゃなくて、今日はちゃんと入口のところで立ち止まっていた。入るでもなく、帰るでもなく、ただ、そこにいる。
それだけで胸の奥がざわつく。
「……何だよ」
声をかけると、ジラが顔を上げた。
目が合う。けど一瞬だけで、すぐ逸れる。
嫌な感じがした。
最近のあいつは、前みたいに露骨にくっついてくることは減っていた。話せば普通に話すし、目も合わせる。避けられてるわけじゃない。
でも、近いようで遠い。その妙な距離がずっと続いている。
だから、こういうふうに妙に改まられると、ろくなことを考えない。
「……今日は、その」
ジラが口を開く。
歯切れが悪い。
余計に嫌な予感がした。
「会いに来たんじゃないの」
一瞬、意味が分からなかった。
いや、言葉の意味は分かる。分かるけど、頭の中ではそれが一番悪い方にしか繋がらない。
「……は?」
間抜けな声が出た。
会いに来たんじゃない。
じゃあ何しに来た。
喉の奥が急に乾く。
また何かあるのか。
どこか行くのか。
それとも、もうやめるって話か。
「お前、そういう言い方……」
やめろよ、と続けるつもりだったのに、最後まで出なかった。
声が硬くなる。
ジラは少し困ったみたいに眉を寄せた。
その顔が余計にこっちを焦らせる。
「ちゃんと言えよ」
少しきつくなった声に、ジラの肩がほんの少し揺れる。
しまったと思ったのに、もう引っ込められない。
ジラは視線をうろうろさせたまま、小さな紙を差し出した。
当番表の写しだった。
休みの日に印がついている。
「……この日」
紙の端を指先で折りながら、ジラが言う。
「ジャン、休みよね」
「……ああ」
反射で答える。
答えて、余計に意味が分からなくなる。
「私も」
そこで一回言葉が切れた。
喉が動く。視線はまだ俺をちゃんと見ない。
「私も、その日、時間……空けたから」
胸の奥が変な跳ね方をする。
「会いましょう……?」
頭の中が、そこで止まった。
会う。
その日に。
時間を空けた。
こいつが。
俺のために?
理解が遅れて落ちてきた。
空いたから来たんじゃない。
来れたから顔を出すんじゃない。
会うために、先に空けた。
そこまで繋がった瞬間、さっきまで冷えてた胸の内側が、急に熱くなる。
「……お前」
やっとそれだけ口から出た。
「何だよ、それ……」
「何って」
「いや、だから」
うまく言えない。
嬉しいとか、安心したとか、そんな言葉の前に、まださっきの肝の冷え方が残ってる。
「最初の言い方、最悪だろ」
思わずそう言うと、ジラが少し目を瞬いた。
「……そう?」
「そうだよ。
会いに来たんじゃないとか言われたら、普通に変な話かと思うだろうが」
「変な話じゃないわ」
「結果的にはな!」
返した声が少し上ずる。
くそ。落ち着け。
ジラはようやく少しだけこっちを見た。
その目が、珍しく不安そうで、妙に息が詰まる。
「……だめ?」
小さく聞かれて、喉が詰まる。
だめなわけあるか。
あるわけないだろ、そんなの。
でもすぐ頷くのも何か悔しい。
いや悔しいって何だ。意味分かんねぇだろ。
結局、違う言葉が先に出た。
「……なんで急に」
ジラが少しだけ固まる。
「何なんだよ、その空けるって。
お前、今までそんなふうに来たことねぇだろ」
「……」
「誰かに何か言われたのか?」
その瞬間、ジラの目がわずかに泳いだ。
図星かよ。
「おい」
「……」
「誰だよ」
問い詰めるつもりはなかったのに、声が勝手に低くなる。
嬉しいのに、変なところが引っかかる。
自分でも面倒くせぇと思う。
ジラは少し拗ねたみたいに口を引き結んで、それから小さく言った。
「……マルコ」
一瞬、頭が止まる。
なんでそこであいつの名前が出るんだよ
「マルコが、そうしてみてって」
今度はもう少しはっきり。
でもやっぱり不服そうな言い方だった。
マルコ。
よりによって、マルコかよ。
いや、分かる。分かるけど。
あいつならそういうこと、言いそうだけど。
でも同時に、妙な気持ちになる。
ジラが、俺とのことを、マルコに相談したのか。
そこまで考えて、胸の奥がまた変に熱くなる。
「……マルコかよ」
やっとそれだけ言うと、ジラが少しだけむっとした。
「何よ」
「いや……」
なんであいつなんだ、と言いたい。
でも俺本人に聞きに来れる話でもないのは分かる。
分かるから余計に、むず痒い。
「……あいつ、余計なことまで言っただろ」
「別に」
「別にって顔してねぇよ」
「ジャンが、まだ私の事好きだって言ってたわ」
思わず額を押さえたくなる。
マルコ、お前……。
いや、だいたい分かるけど。
胸の奥が、じわじわ熱くなる。
もうだいぶだめだった。
「……ほんとに空けたのか」
結局、また確認みたいなことを言ってしまう。
ジラは不満そうに眉を寄せる。
「空けたわ」
「後からやっぱ無理とか言うなよ」
「言わない」
「他の用事入れるなよ」
「入れない」
真面目な顔で返される。
そのやりとりが妙に嬉しい。
くそ。ほんとにだめだ。
顔を逸らす。
逸らさないと、今どんな顔してるか分かったもんじゃない。
「……会うよ」
やっとそう言うと、ジラの目が少しだけ開いた。
嬉しそう、というより、ちゃんと伝わったことに安心したみたいな顔だった。
「その代わり」
つい口が動く。
「その日、ちゃんと最初から最後まで俺に使え」
言った瞬間、自分で何言ってんだと思った。
重い。重すぎる。
引っ込めたいのに、引っ込めたくない。
たぶん今、顔を見られたら終わる。
ジラは一瞬きょとんとしたまま、俺を見上げた。
「……一日?」
その反応に、こっちが逆に止まる。
「……そうだよ。一日だ」
何だその聞き返し方。
まるで今ここで、初めて一日の長さをちゃんと飲み込んだみたいな顔しやがって。
ジラは少しだけ視線を落とした。
何かを数えるみたいに、頭の中で予定を並べ替えてる顔だった。ああ、と思う。
こいつ、最初から丸一日のつもりじゃなかったな。
胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。
やっぱりそうか、と思う自分がいる。
そりゃそうだ。急にそんな綺麗な話になるわけがない。数時間空けて、それで会おうくらいのつもりだったんだろう。
なのに。
「ジャンと一日、いていいの……?」
その声は、確認みたいだった。
嫌そうでも、困ってるわけでもない。
ただ、本当にそうしていいのか、みたいな顔。
頭の中が、そこで変なふうにひっくり返る。
いいに決まってるだろ。
何だよ、その聞き方。
そんなの、俺の方が聞きたいくらいだ。
ジラはまだ何か考えていた。
指先が小さく動く。目線が落ちて、上がって、また落ちる。
その間に、こいつの中で何かが組み替わっていくのが分かった。
ああ、これ。
今、増やしたな。
数時間だけ空けてた予定を。
俺が一日って言ったから、その場で一日に変えようとしてる。
そこまで分かった瞬間、さっきまでの小さな冷えなんて、どうでもよくなった。
むしろ逆に、胸の奥が熱くなる。
最初から完璧に用意されてたわけじゃない。
でも、俺が欲しがったから、こいつは今ここで予定を動かしてる。
俺のために。
……駄目だろ、それ。
「……お前」
低く呼ぶと、ジラが顔を上げる。
珍しく少しだけ気まずそうな顔だった。
「最初から一日じゃなかったな?」
責めるつもりで言ったわけじゃない。
なのに声が少し低くなる。
ジラは一瞬だけ目を逸らした。
「……数時間は、空けてたわ」
やっぱりか。
やっぱりだったのに、その続きが落ち着かない。
「でも」
小さく息を吸ってから、ジラが続ける。
「ジャンが一日欲しいなら、そうする」
何なんだよ、ほんとに。
そんなに簡単に言うな。
簡単に見えるだけで、こいつの中じゃたぶん全然簡単じゃないくせに。
「……そういうの」
喉の奥が少し熱い。
顔を逸らしたくなるのを堪える。
「反則だろ」
心臓に悪い。
本当に悪い。
何なんだよ。
何でそういう返しを、そんな顔でできるんだ。
でも、平然じゃない。
よく見ると耳のあたりが少し赤い。目もまだ落ち着いてない。
こいつも緊張してたのか、と今さら分かって、余計にだめだった。