当日、俺は予定より少し早く着いた。
早く着きすぎだろ、と自分でも思う。
でも落ち着かなかったんだからしょうがない。
なのに、いた。
ジラはもう来ていた。
何をするでもなく、入口近くの壁際に立っていた。人を待つのに慣れてないみたいに、手を下ろしたり、組んだり、また下ろしたりしている。
俺に気づいた瞬間、その顔が少しだけ明るくなった。
「ジャン」
ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が変なふうに鳴る。
「早いわね」
「お前こそ」
「……ちゃんと来たかったから」
さらっと言うな。
そういうのを。
「で」
俺は息をひとつ吐いてから言った。
「何したいんだよ」
ジラは少しだけ首を傾げた。
「何って?」
「今日だよ。どこ行くとか、何食うとか、何見るとか」
「……ジャンといる」
「それは分かってんだよ」
少し強く返すと、ジラが目を瞬いた。
責めたいわけじゃない。
でも、胸の奥に引っかかったものがあった。
時間は空けた。
それは分かった。
嬉しい。嬉しいに決まってる。
でも、その時間の中身まで全部こっち任せみたいにされると、少しだけ怖くなる。
空けただけで、終わりにされる気がして。
「一緒がいいのは分かった」
俺はなるべく声を落とした。
「でも、それで終わるな」
ジラの視線が少し揺れる。
「……終わる?」
「お前、マルコに言われたんだろ。会うために時間空けろって」
「ええ」
「じゃあ、その先だよ」
通りの向こうから、焼いた肉の匂いが流れてくる。
鉄板の上で脂が弾ける音。果物を売る女の声。子どもが菓子をねだって、親に袖を引かれている声。
そういう普通のものが、やけに遠く感じた。
「空けた時間の中で、お前が何したいかだよ」
ジラは黙った。
怒った顔じゃない。
困った顔だった。
本気で困ってる顔。
「……分からないわ」
小さく落ちた声に、俺は何も言えなくなる。
「世界をどう動かすかとか、どこと話をつけるかとか、誰に何を見せればいいかとか、そういうのは考えられるの」
「ああ」
「でも」
ジラは自分の指先を見た。
昨日、当番表の紙を持っていた指だ。
俺のために予定を変えた指。
「何を食べたいとか、どこへ行きたいとか、何を買いたいとかは、あまり考えたことがない」
胸の奥に、変なものが落ちた。
欲がないわけじゃない。
こいつは、馬鹿みたいに欲が深い。
世界を変えようとする。盤面を動かす。人の心も、国の立場も、必要なら平気で触る。
なのに、自分の口に入れるものひとつ、欲しがり方が分からない。
「……面倒くせぇな」
つい口から出た。
ジラが少しむっとする。
「私だって困ってるわ」
「だろうな」
俺は歩き出しかけて、やめた。
ジラが俺を見て、目が揺れる。
置いてくわけねぇだろうが。
ジラに向き直る。
「……分かんねぇなら、今日探せ」
「探す?」
「好きなもん。嫌じゃねぇもん。少し気になるもん。何でもいい」
俺は市場の方へ顎をしゃくった。
「俺といるのがいいなら、それはそれでいい。けど、それだけで終わるな」
「……難しいわ」
「知ってる」
ジラはそこで黙った。
何かをゆっくり飲み込んでいる顔だった。
こういう時、こいつは変に素直になる。
反発するくせに、ちゃんと聞いている。
「……分かったわ」
「絶対分かってねぇ顔だな」
「分かったもの」
「じゃあまず、何か選んでみろよ」
そう言って、俺は市場へ足を向けた。
◇
市場は昼の匂いで満ちていた。
焼きたてのパンの甘い匂い。
肉の脂が焦げる匂い。
青い葉野菜の土っぽい匂い。
人の汗と、湿った石畳と、どこかの店先に置かれた花の青臭さ。
ジラは隣を歩いていた。
くっつくわけでもない。離れるわけでもない。
ただ、俺が止まると止まる。俺が横を見ると、少し遅れて同じ方を見る。
店を見てるんじゃない。
俺を見てる。
「……前見て歩け」
「見てるわ」
「見てねぇだろ」
「ジャンが見てるものを見てる」
「それを見てねぇって言うんだよ」
ジラは少しだけ不服そうに唇を結んだ。
けど、すぐに視線を店先へ戻す。
果物。
焼き菓子。
飾り紐。
小さな硝子細工。
袋に詰められた香辛料。
どれを見ても、ジラの目は滑っていく。
「何か欲しいもんねぇのかよ」
「……物は物でしょう?」
「出たよ」
「違うの?」
「違うだろ」
「どう違うの」
真顔で聞かれて、返事に詰まる。
どう違うって言われても。
欲しいから欲しい。
気に入ったから買う。
そういうものをいちいち説明したことなんかない。
俺が黙ったのを見て、ジラが少しだけ目を細めた。
「じゃあ、ジャンの好きなものは?」
「あ?」
「ジャンは分かるんでしょう。好きな物」
「まあ、分かるだろ。普通」
「私は分からないの」
急に面倒な方向に来た。
ジラは少し拗ねたように俺を見ている。
自分ばかり選ばされるのが不満なのか、それとも本当に知りたいのか。
たぶん両方だ。
「ジャンの好きって、何?」
「何って……好きは好きだろ」
俺は視線を逸らした。
「服とか。馬とか。まあ、剣も嫌いじゃねぇし」
ジラはすぐには言い返さなかった。
困ったように眉を寄せて、店先の飴や焼き菓子を見て、それから俺を見る。
何かを探してる顔だった。
言葉の意味じゃなくて、置き場所を探してるみたいな顔。
「ジャンのことは好きよ?」
「……っ」
急に何言ってんだ。
声が出かけて、喉の奥で詰まる。
ジラは俺の反応を見ても、からかってる様子はなかった。
本当に、手持ちの札を順番に並べているだけみたいに続ける。
「人を動かすのも、多分好き」
「盤面が動く瞬間も好き」
黒い目が少しだけ細くなる。
市場の人の流れじゃなく、もっと遠い何かを見ている目だった。
「思った通りに流れが変わる時とか」
「誰かが、私の置いた言葉で違う選択をする時とか」
「国の空気が、ほんの少し変わる時とか」
「……お前な」
思わず低い声が出た。
分かってた。
こいつがそういうものに高揚するのは、分かってたはずだった。
でも、昼間の市場で、飴や焼き菓子の前で聞くと、妙に生々しい。
甘い匂いの中に、刃物の光が混じったみたいで落ち着かない。
ジラはそこで、少しだけ目を伏せた。
「でも」
小さく息を吸う。
「……ジャンが言ってる好きなものは、こういうのと違うのよね?」
声が探り探りだった。
さっきまで世界だの盤面だの言っていたくせに、急に足元の石を確かめるみたいな声になる。
その落差に、胸の奥が変に詰まった。
「たぶん、違う」
ジラは指先で自分の袖口を軽くつまんだ。
「何かを手元に置きたいとか」
「食べたら嬉しいとか」
「見ているだけで少し気分がよくなるとか」
そこで、ほんの少しだけ黙った。
「……難しいわ」
その声が、本当に難しそうで。
呆れるより先に、胸の奥が痛くなった。
「難しく考えすぎなんだよ」
「ジャンは簡単に言う」
「簡単にしていいんだよ、こういうのは」
そう言いながらも、俺自身、どこから手をつければいいのか少し迷っていた。
好きなものを探せ。
嫌じゃないものを選べ。
言うのは簡単だ。
でも、こいつ相手に「好きなものを選べ」なんて、地図も持たせずに森へ放り込むようなもんだろう。
視線を巡らせて、近くの屋台で止まる。
甘い匂いがした。
木箱には丸い焼き菓子が積まれていて、隣には白い粉砂糖をまぶした小さな菓子が並んでいる。干した果物を蜜で固めたもの、薄く焼いた生地に木の実を挟んだもの、瓶に詰められた色付きの飴。
店主の女は慣れた手つきで紙袋を開き、菓子を入れていく。
甘い匂いと、焼けた小麦の香ばしさが、肉の脂の匂いに混ざって流れてきた。
「……あそこ行くぞ」
「どうして?」
「甘いもんは、大体みんな好きだろ」
言ったあとで、雑すぎたかと思った。
でも、ジラは怒らなかった。
ただ、少しだけ考える顔をする。
「みんな?」
「まあ、嫌いな奴もいるだろうけど」
「ジャンは好きなの?」
「嫌いじゃねぇよ」
「好きなのね」
ジラは少しだけ目を細めた。
また何か考えてる顔だ。
俺は屋台の前で足を止めた。
並んだ菓子を前にして、ジラは真剣に黙り込んだ。
戦場の地図でも見るみたいな顔で、焼き菓子、砂糖菓子、干し果物、飴の瓶を順番に見ている。
けど、目が留まらない。
全部を見ているのに、どれも同じ距離に置いている。
物は物。
食べ物は食べ物。
そういう顔だった。
「どうだ」
「……甘いものがたくさんあるわ」
「見りゃ分かる」
「お茶菓子に喜ばれるものとかなら分かるのだけれど」
「お前が、好きなものだ」
俺は少し息を吐いて、屋台に肘でもつきたい気分になるのを堪えた。
「今はお前が選ぶんだよ」
ジラは不満そうに唇を結んだ。
自分ばかり選ばされるのが嫌なのかもしれない。
いや、嫌というより、本当に困ってるんだろう。
「いいか。好きじゃなくていい」
「好きじゃなくていいの?」
「最初から好きまで行こうとすんな」
俺は菓子をいくつか指した。
「これと、これ」
白い砂糖菓子。
蜂蜜を塗った焼き菓子。
「どっちがマシだ」
「マシ」
「どっちでもいいは今日禁止な」
ジラが眉を寄せた。
「難しいのよ」
「お前を甘やかすと全部どっちでもいいになるだろ」
「……甘やかしてくれればいいのに」
小さく拗ねる声が、少し悔しそうだった。
ジラは白い砂糖菓子を見る。
焼き菓子を見る。
また砂糖菓子に戻る。
けれど、どちらにも決まらない。
その目が、ふと横へ流れた。
瓶に詰められた飴の方へ。
赤。薄青。白。琥珀色。濃い茶色。
日の光が瓶の角に当たって、丸い飴の表面で小さく光った。
ジラの視線が、琥珀色の飴の前で止まる。
はっきり、止まった。
「……これ」
「飴か?」
「これがいい」
その声は、さっきまでとは違っていた。
迷ってない。
選んだ声だった。
胸の奥が、変に熱くなる。
「何でだよ」
聞くと、ジラは瓶の中を見つめたまま言った。
「ジャンの目の色と同じ」
心臓が変な跳ね方をした。
「……は?」
「光が入った時の色」
ジラは瓶に少し顔を近づけた。
中の飴がかすかに動いて、から、と小さく鳴る。
「少し金色で、でも茶色で、奥が暗い」
「お前、何をそんな細かく見てんだよ」
「見てるもの」
当然みたいに言われる。
当然じゃねぇだろ。
ジラはしばらく飴を見て、それからこっちを見た。
黒い目が、まっすぐ俺の目に合う。
「……ジャンの目を食べるみたいで、少しゾクゾクするわね」
一瞬、息が止まった。
何なんだよ。
何でそういう言い方をする。
市場のど真ん中で。
甘い菓子の屋台の前で。
「……お前な」
声が低くなる。
低くなったのに、ジラは怯まない。
「嫌?」
「嫌っていうか」
嬉しくないわけじゃない。
むしろ、だいぶ効いてる。
でも、それをそのまま認めたら終わる気がした。
「……怖ぇんだよ、言い方が」
ジラは少しだけ瞬きをした。
それから、ほんの少し笑う。
「でも、これがいいわ」
「味じゃねぇのかよ」
「味に好き嫌い無いもの」
ジラは瓶を指先で軽く叩いた。
こつ、と乾いた音がする。
「選ぶなら、これ」
たったそれだけなのに。
こいつが自分で選んだ、と思うと、それだけで十分な気がした。
「……じゃあ、それにしろ」
俺が店主に声をかけると、店主の女が棚から瓶を下ろした。
蓋を開けた瞬間、砂糖と蜂蜜の匂いが少し強くなる。
小さな金属の匙が、瓶の内側に当たって、かちんと鳴った。
琥珀色の飴がいくつか掬われて、紙袋の中へ落ちる。
からから、と乾いた音がした。
隣の焼き菓子からは、まだ小麦と蜂蜜の匂いがしていた。
ジラはそれには目もくれず、店主の手元をじっと見ている。
瓶の中で光っていたものが、紙袋の中に隠れる。
それを少し惜しむみたいに、ジラの指がわずかに動いた。
俺が金を出そうとすると、ジラが先に手を伸ばした。
「私が買うわ」
「何でだよ」
「私が選んだから」
「……そうかよ」
変なところで律儀だ。
でも、その指先が少しだけ急いでいるのが見えた。
欲しいわけじゃない、から。
欲しいかもしれない、に変わったばかりみたいな手つきだった。
◇
袋を受け取ったジラは、すぐには食べなかった。
歩きながら、紙袋の口を少し開けては、中を覗く。
覗いたところで、さっきみたいに光るわけじゃない。
薄暗い袋の底で、飴が小さく転がるだけだ。
それでもジラは、何度も確かめるみたいに見ていた。
「食わねぇのか」
「食べるわ」
「ずっと見てるだけじゃねぇか」
「見えなくなったから」
「は?」
「瓶の中だと、光ってたでしょう」
ジラは袋の口を指でつまんだまま、少しだけ不満そうに言う。
「袋に入ると、色が分かりにくいわ」
「そりゃ紙袋だからな」
「少し残念」
そんなことを言う顔が、本当に惜しそうで。
俺は一瞬、何も言えなくなった。
飴そのものが欲しかったわけじゃない。
光の中で、俺の目の色に似ていたから。
だから、こいつはそれが隠れたことを残念がっている。
……何なんだよ、ほんとに。
「貸せ」
俺が手を出すと、ジラは袋を少し引いた。
「取らないで」
「取らねぇよ。一個出すだけだ」
「……そう」
素直に袋を渡してくる。
警戒した後で、すぐ信じる。
その落差に、また胸の奥が変になる。
俺は紙袋の口を開けて、琥珀色の飴をひとつ指先で摘まんだ。
外へ出した途端、日の光が飴の表面に乗る。
さっき瓶の中で見た時より少し小さくて、少し歪で、それでも確かに茶色と金色の間みたいな色をしていた。
確かに、俺の目の色に似ている気がした。
そう思った瞬間、急にこっちまで落ち着かなくなった。
「ほら」
差し出すと、ジラは飴と俺の顔を交互に見た。
「ジャンがくれるの?」
「袋から出しただけだろ」
「でも、ジャンがくれるのね」
「……そういうことでいいよ」
ジラは両手で受け取った。
飴ひとつに、そんな持ち方をするな。
それから、ゆっくり口に入れる。
唇が閉じる。
頬がほんの少し動く。
黒い目が、何かを確かめるみたいに細くなった。
「……どうだよ」
聞くつもりはなかったのに、聞いていた。
「甘いわ」
「そりゃ飴だからな」
「少し、花みたいな匂いがする」
「蜂蜜だろ」
「硬い」
「飴だからな」
ジラは口の中で飴を転がした。
こつ、と歯に当たる小さな音がする。
その音が妙に近く聞こえて、俺は視線を逸らした。
何見てんだ、俺は。
「好きかよ」
なるべく普通に聞いた。
普通に聞いたつもりだった。
ジラはすぐには答えなかった。
味を探しているのか。
言葉を探しているのか。
どっちか分からない顔で、少しだけ黙る。
それから、ふっと笑った。
「好き。きっと」
胸の奥が、掴まれた気がした。
「……きっとって何だよ」
「まだ分からない」
「分からないのに好きなのかよ」
「だって、ジャンの色だわ」
ジラは袋を胸の前で持ったまま、当たり前みたいに言う。
「ジャンが選ばせてくれて、ジャンが開けてくれた」
「ジャンと見つけたものだもの」
そう言って、また飴を口の中で転がす。
「だから、きっと好きになるわ」
何なんだよ、それ。
味そのものじゃない。
飴そのものでもない。
俺に繋がってるから、好きになる。
そういう順番でいいのかよ。
普通は逆だろ。
でも、ジラが初めて自分で選んだものが、俺の目の色に似た飴で。
それを大事そうに口の中で転がしている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……お前、ほんと変だな」
「知ってるわ」
「褒めてねぇよ」
「でも、嫌そうじゃない」
言い返せなかった。
ジラはそれを見て、少しだけ満足そうに笑った。
さっきより、ずっと柔らかい顔だった。
俺は鼻で息を吐いて、歩き出す。
「次は、味で選べよ」
「次?」
「今ので終わりにする気かよ。今日探すって言っただろ」
ジラが隣に並ぶ。
紙袋を片手で持って、もう片方の手を少し空ける。
「じゃあ、次も二択にして」
「自分で選ぶ練習だろ」
「最初は手伝って」
さらっと言うな。
そういう頼り方をするな。
でも、悪くなかった。
「……しょうがねぇな」
俺がそう言うと、ジラは小さく笑った。
口の中の飴が、またこつんと鳴る。
市場の人の流れが少しだけ密になる。
ぶつかるほどじゃない。でも、油断すると肩ひとつ分くらい、すぐ距離が空く。
ジラは紙袋を持ち直してから、空いた手を俺の方へ少しだけ差し出した。
「……繋がないの?」
言いながら、こっちを見上げる。
「繋ぎたい」
「だめ?」
何でそんな言い方すんだよ。
心臓の方が先にうるさくなって、俺は返事の代わりにその手を取った。