壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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――数ヶ月後。世界会議前日。


79.

 

最初に気づいたのは、静けさだった。

 

世界会議のために、パラディ島側へ与えられた宿舎だった。兵士も技術班も、外交担当も、今はこの宿舎が、パラディ島側の仮の本部になっていた。

 

明日、世界会議がある。

 

だから、建物にはもっと人の音があったはずだ。

廊下を行き交う靴音。書類の擦れる音。低く交わされる確認。

 

そういうものが、突然ふっと薄くなった。

 

 

「……何?」

 

足を止める。

 

広間では、全員がぴたりと止まっていた。

瞬きを忘れたみたいな顔で、虚空を見ている。

 

まるで一瞬だけ、世界そのものが息を止めたみたいに。

 

違う全員じゃない。

窓の外を見る。

止まってる人を怪訝に見ながら去っていく者。気に止めずに欠伸を繰り返す者。

 

 

止まってるのは、エルディア人だけだ。

 

――やってられない。

 

 

その言葉が、喉の奥までせり上がってきて、それでも声にはならない。

 

 

次の瞬間、世界は何事もなかったように動き出した。

 

椅子を引く音。

書類の擦れる音。

誰かの咳払い。

遠くで兵士が「失礼します」と扉を叩く声。

 

全部、いつも通り。

 

なのに、さっきまでここにあったものが、根こそぎ別の何かに差し替わった感覚だけが、私の皮膚の内側に残っていた。

 

指先が冷える。

 

私はゆっくりと息を吐いた。

吐いたはずなのに、肺の奥のざらつきが消えない。

 

周囲を見回す。

誰も彼も普通の顔をしていた。

困惑も混乱もない。

不自然なくらい、何もない。

 

……そう。

そういうこと。

 

これは、違和感が残る類の改変じゃない。

残ったら失敗なのだ。

 

――何が変わった?

 

私なら……。

胸の奥で、何かが冷たく嗤った。

 

「ジラ?」

 

呼ばれて顔を上げる。

 

少し離れた場所に、フロックがいた。

怪訝そうに眉を寄せている。

だが、その顔に何かが起きた気配はない。

 

私は近づく。

 

「……フロック」

 

「なんだ」

 

いつも通りの声音。

少し苛立っていて、少し面倒そうで、それでもちゃんとこちらを見る声。

 

それが逆に、ぞっとする。

 

「巨人、壁、エルディア人、パラディ島、マーレ、戦争」

「分からない単語はある?」

 

フロックの眉間の皺が深くなった。

 

「は?」

 

「答えて」

 

「……全部分かる」

 

思い出すような返事だった。

私は喉の渇きを無視して続ける。

 

「最近使ってない言葉は?」

 

「――巨人だけ、浮いてんな」

 

戸惑い。いや、戸惑いというより、意味の分からない比喩を聞かされた時みたいな顔。

 

私は瞬きを一つした。

 

「壁の中の人類は何と戦ってきたの?」

 

「は?」

 

「壁の外には何がいたの?」

 

フロックの目が細くなる。

警戒だ。

けれどそれは、秘密を共有する仲間への警戒ではなく、急におかしくなった相手を見る目だった。

 

胃の奥が冷える。

 

私は一歩近づいた。

 

「答えて。大事な質問なの」

 

フロックは訝しげにしながらも、一つ一つ確かめるように声に出した。

 

「壁の外には巨人がいた。

 人類はそいつらから身を守る為に壁の中に引きこもった」

 

「――大昔の話だろ」

 

これは、

生きた記憶じゃなく知識だ。

 

その後も教科書をなぞるように、

1つずつ。

 

「技術が発展して、人類が勝った」

「巨人は絶滅した」

「今俺たちは、差別を無くすために、戦争にさせないために足掻いてる」

 

 

作りものめいた不自然さがない。

演技でもない。

忘れたのではなく、最初からそうだと、信じている。

 

数秒の沈黙。

 

 

フロックは、そこで初めて薄く苛立ちを滲ませた。

 

「お前、さっきから何なんだよ」

 

私は答えない。

 

答えられない。

 

だって、質問の方がおかしいのだ。

今の彼にとっては。

 

フロックはじっと私を見た。

その目の奥で、別の思考が生まれるのが分かる。

 

何を確認してる。

何に焦ってる。

何を知っていて、自分は何を知らない。

 

そういう顔。

 

私は唇を噛みそうになるのを堪えた。

 

「……ねぇ」

 

「だから何だよ」

 

「あなた、外の世界をどう思ってる?」

 

「どうって」

 

「壁の外の人たちを」

 

「エルディア人を巨人だって疑って、差別してくる人間だろ」

 

「最近やっと、そんなのデタラメじゃないかって話のわかるやつが出てきた」

「……お前がやったんだろ?」

 

 

私は、そこで目を伏せた。

 

ああ。

そこまで、綺麗に。

 

そこまで、都合よく。

 

 

綺麗に、完璧に、上から塗り潰された。

 

私の流した噂に、整合性を取るように。

 

 

笑いそうになる。

笑ったら、多分もう止まらない。

 

 

フロックの声が少しだけ近づく。

 

「おい」

 

返事をしない私に、今度は本気で不審を抱いたらしい。

足音が一歩分、近くなる。

 

「ジラ」

 

低い声。

怒っているわけではない。

ただ、こちらの異常を測っている。

 

私は顔を上げた。

 

「……何もおかしいと思わなかった?」

 

「思ってるよ」

 

間髪入れずに返る。

 

「お前がだ」

 

言い切られて、妙に納得した。

 

そう。

そうなる。

 

彼らにとっては、私は最初から知りようのない話を勝手に確かめて、勝手に青ざめている女だ。

 

私だけ、違う。

 

 

フロックの目が、少しだけ鋭くなる。

 

「何があった」

 

その問いは、記憶を失った人間の問いだった。

だが同時に、彼なりの正しさでもあった。

 

自分は何も変だと思っていない。

けれど私がここまでおかしいなら、自分たちに何かあったのかもしれない。

そう、逆から理解し始めている。

 

私はそのことに、ほんの少しだけ救われる。

 

 

「……ありがと」

 

かすれた声が出た。

 

 

フロックの表情が、ゆっくりと変わる。

 

理解できてない。

当たり前だ。

だが、芝居じゃないことだけは分かる。

そこそこ長い付き合いだものね。

 

 

「――何があった。言え」

 

私は口を開く。

閉じる。

 

説明したところで。

もう終わったようなものだ。

 

 

書類は。

記録は。

人の会話は。

身体の感覚は。

どこまで残っているのだろうか。

 

それを確認したい。

もうここまで来たら、ただの興味だ。

私はどこまで使われたんだろう。

 

 

けれど、頭に浮かんだことに、足元がぐらついた。

 

ジャン。

 

胸の奥が、ひやりと冷える。

 

怖い。

 

その感情が、想像以上にはっきりした形で出てきて、自分で一瞬遅れる。

 

フロックが変わっていた。

変えられていた。

 

ジャンは、どこまで変わってる?

 

無い。個人的な記憶を消す必要なんて。

だから覚えてるはず。

変わってない。

分かってる。

 

もし、変わってたら、

 

――耐えられる?

 

無理だ。

 

 

即座に返ってきた自分の答えに、少し笑いそうになる。

ああ、そう。

そこは駄目なのね、私。

 

 

フロックがじっと見ている。

 

「……説明しない気か?」

 

フロックの目が、そこでわずかに細くなる。

察した。

何をかは分かっていない。だが、私が何を怖がったかだけは分かった顔。

 

「お前」

 

「うるさい」

 

思ったより鋭い声が出た。

 

フロックが一瞬黙る。

 

私は額に手を当てた。

頭の奥が鈍く痛む。

怒りでも恐怖でもなく、徒労に似た痛みだ。

 

ここまでやって。

これだけ手を伸ばして。

噂を流し、国を動かし、人を使い、嫌われることすら飲み込んで、整えようとしていた世界が。

 

綺麗に書き換わった。

 

人間が必死に作った段取りも、理屈も、汚れも、全部まとめて鼻で笑うみたいに。

 

「……やってられないのよ」

 

ぽつりと零れた。

 

フロックが眉を寄せる。

 

「何がだよ」

 

顔を上げる。

 

「全部」

 

自分でも驚くほど、声は静かだった。

 

泣きもしない。

怒鳴りもしない。

ただ、熱が全部抜け落ちたみたいな声。

 

フロックはしばらく黙っていた。

やがて、低く問う。

 

「俺たちは、何を忘れてる」

 

私は答えなかった。

答えられないのではない。

今ここで言葉にしてしまうと、何かが本当に終わる気がした。

 

代わりに、ゆっくりと息を吐く。

 

「……少し、確かめる」

 

 

私は目を閉じた。

 

「今は、まだ、少し、待ってて」

 

それだけ言う。

 

フロックは何も返さなかった。

返せなかったのだろう。

 

沈黙の中で、遠くの廊下を誰かが走っていく音がした。

兵士たちの話し声。

紙を運ぶ音。

世界はもう、平然と動いている。

 

私だけを置いて。

 

私は爪が食い込むくらい強く、自分の手を握りしめた。

 

ジャンのところへ行くのは、まだ怖かった。

 

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