最初に気づいたのは、静けさだった。
世界会議のために、パラディ島側へ与えられた宿舎だった。兵士も技術班も、外交担当も、今はこの宿舎が、パラディ島側の仮の本部になっていた。
明日、世界会議がある。
だから、建物にはもっと人の音があったはずだ。
廊下を行き交う靴音。書類の擦れる音。低く交わされる確認。
そういうものが、突然ふっと薄くなった。
「……何?」
足を止める。
広間では、全員がぴたりと止まっていた。
瞬きを忘れたみたいな顔で、虚空を見ている。
まるで一瞬だけ、世界そのものが息を止めたみたいに。
違う全員じゃない。
窓の外を見る。
止まってる人を怪訝に見ながら去っていく者。気に止めずに欠伸を繰り返す者。
止まってるのは、エルディア人だけだ。
――やってられない。
その言葉が、喉の奥までせり上がってきて、それでも声にはならない。
次の瞬間、世界は何事もなかったように動き出した。
椅子を引く音。
書類の擦れる音。
誰かの咳払い。
遠くで兵士が「失礼します」と扉を叩く声。
全部、いつも通り。
なのに、さっきまでここにあったものが、根こそぎ別の何かに差し替わった感覚だけが、私の皮膚の内側に残っていた。
指先が冷える。
私はゆっくりと息を吐いた。
吐いたはずなのに、肺の奥のざらつきが消えない。
周囲を見回す。
誰も彼も普通の顔をしていた。
困惑も混乱もない。
不自然なくらい、何もない。
……そう。
そういうこと。
これは、違和感が残る類の改変じゃない。
残ったら失敗なのだ。
――何が変わった?
私なら……。
胸の奥で、何かが冷たく嗤った。
「ジラ?」
呼ばれて顔を上げる。
少し離れた場所に、フロックがいた。
怪訝そうに眉を寄せている。
だが、その顔に何かが起きた気配はない。
私は近づく。
「……フロック」
「なんだ」
いつも通りの声音。
少し苛立っていて、少し面倒そうで、それでもちゃんとこちらを見る声。
それが逆に、ぞっとする。
「巨人、壁、エルディア人、パラディ島、マーレ、戦争」
「分からない単語はある?」
フロックの眉間の皺が深くなった。
「は?」
「答えて」
「……全部分かる」
思い出すような返事だった。
私は喉の渇きを無視して続ける。
「最近使ってない言葉は?」
「――巨人だけ、浮いてんな」
戸惑い。いや、戸惑いというより、意味の分からない比喩を聞かされた時みたいな顔。
私は瞬きを一つした。
「壁の中の人類は何と戦ってきたの?」
「は?」
「壁の外には何がいたの?」
フロックの目が細くなる。
警戒だ。
けれどそれは、秘密を共有する仲間への警戒ではなく、急におかしくなった相手を見る目だった。
胃の奥が冷える。
私は一歩近づいた。
「答えて。大事な質問なの」
フロックは訝しげにしながらも、一つ一つ確かめるように声に出した。
「壁の外には巨人がいた。
人類はそいつらから身を守る為に壁の中に引きこもった」
「――大昔の話だろ」
これは、
生きた記憶じゃなく知識だ。
その後も教科書をなぞるように、
1つずつ。
「技術が発展して、人類が勝った」
「巨人は絶滅した」
「今俺たちは、差別を無くすために、戦争にさせないために足掻いてる」
作りものめいた不自然さがない。
演技でもない。
忘れたのではなく、最初からそうだと、信じている。
数秒の沈黙。
フロックは、そこで初めて薄く苛立ちを滲ませた。
「お前、さっきから何なんだよ」
私は答えない。
答えられない。
だって、質問の方がおかしいのだ。
今の彼にとっては。
フロックはじっと私を見た。
その目の奥で、別の思考が生まれるのが分かる。
何を確認してる。
何に焦ってる。
何を知っていて、自分は何を知らない。
そういう顔。
私は唇を噛みそうになるのを堪えた。
「……ねぇ」
「だから何だよ」
「あなた、外の世界をどう思ってる?」
「どうって」
「壁の外の人たちを」
「エルディア人を巨人だって疑って、差別してくる人間だろ」
「最近やっと、そんなのデタラメじゃないかって話のわかるやつが出てきた」
「……お前がやったんだろ?」
私は、そこで目を伏せた。
ああ。
そこまで、綺麗に。
そこまで、都合よく。
綺麗に、完璧に、上から塗り潰された。
私の流した噂に、整合性を取るように。
笑いそうになる。
笑ったら、多分もう止まらない。
フロックの声が少しだけ近づく。
「おい」
返事をしない私に、今度は本気で不審を抱いたらしい。
足音が一歩分、近くなる。
「ジラ」
低い声。
怒っているわけではない。
ただ、こちらの異常を測っている。
私は顔を上げた。
「……何もおかしいと思わなかった?」
「思ってるよ」
間髪入れずに返る。
「お前がだ」
言い切られて、妙に納得した。
そう。
そうなる。
彼らにとっては、私は最初から知りようのない話を勝手に確かめて、勝手に青ざめている女だ。
私だけ、違う。
フロックの目が、少しだけ鋭くなる。
「何があった」
その問いは、記憶を失った人間の問いだった。
だが同時に、彼なりの正しさでもあった。
自分は何も変だと思っていない。
けれど私がここまでおかしいなら、自分たちに何かあったのかもしれない。
そう、逆から理解し始めている。
私はそのことに、ほんの少しだけ救われる。
「……ありがと」
かすれた声が出た。
フロックの表情が、ゆっくりと変わる。
理解できてない。
当たり前だ。
だが、芝居じゃないことだけは分かる。
そこそこ長い付き合いだものね。
「――何があった。言え」
私は口を開く。
閉じる。
説明したところで。
もう終わったようなものだ。
書類は。
記録は。
人の会話は。
身体の感覚は。
どこまで残っているのだろうか。
それを確認したい。
もうここまで来たら、ただの興味だ。
私はどこまで使われたんだろう。
けれど、頭に浮かんだことに、足元がぐらついた。
ジャン。
胸の奥が、ひやりと冷える。
怖い。
その感情が、想像以上にはっきりした形で出てきて、自分で一瞬遅れる。
フロックが変わっていた。
変えられていた。
ジャンは、どこまで変わってる?
無い。個人的な記憶を消す必要なんて。
だから覚えてるはず。
変わってない。
分かってる。
もし、変わってたら、
――耐えられる?
無理だ。
即座に返ってきた自分の答えに、少し笑いそうになる。
ああ、そう。
そこは駄目なのね、私。
フロックがじっと見ている。
「……説明しない気か?」
フロックの目が、そこでわずかに細くなる。
察した。
何をかは分かっていない。だが、私が何を怖がったかだけは分かった顔。
「お前」
「うるさい」
思ったより鋭い声が出た。
フロックが一瞬黙る。
私は額に手を当てた。
頭の奥が鈍く痛む。
怒りでも恐怖でもなく、徒労に似た痛みだ。
ここまでやって。
これだけ手を伸ばして。
噂を流し、国を動かし、人を使い、嫌われることすら飲み込んで、整えようとしていた世界が。
綺麗に書き換わった。
人間が必死に作った段取りも、理屈も、汚れも、全部まとめて鼻で笑うみたいに。
「……やってられないのよ」
ぽつりと零れた。
フロックが眉を寄せる。
「何がだよ」
顔を上げる。
「全部」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
泣きもしない。
怒鳴りもしない。
ただ、熱が全部抜け落ちたみたいな声。
フロックはしばらく黙っていた。
やがて、低く問う。
「俺たちは、何を忘れてる」
私は答えなかった。
答えられないのではない。
今ここで言葉にしてしまうと、何かが本当に終わる気がした。
代わりに、ゆっくりと息を吐く。
「……少し、確かめる」
私は目を閉じた。
「今は、まだ、少し、待ってて」
それだけ言う。
フロックは何も返さなかった。
返せなかったのだろう。
沈黙の中で、遠くの廊下を誰かが走っていく音がした。
兵士たちの話し声。
紙を運ぶ音。
世界はもう、平然と動いている。
私だけを置いて。
私は爪が食い込むくらい強く、自分の手を握りしめた。
ジャンのところへ行くのは、まだ怖かった。