心の底は妙に静かだった。
怒っているわけじゃない。
喚きたいわけでもない。
何かに当たり散らしたいほど、まだ期待していたわけでもない。
ただ、負けたのだと思った。
それも、ひどく綺麗に。
調べた。
記憶、身体、書類、外の人との違い。
違和感に気づく人はいた。
それでも、
世界は、何事もなかったみたいな顔をしている。
その程度の誤差で済んだ。
済むように、私が整えたから。
空を見上げて、息をついた。
空は変わらない。
当然だ。変わったのはエルディア人だけなのだから。
世界を変えたかった。
皆に、私と同じものを見せたかった。
壁の内側で守られているだけの世界じゃなくて、もっと広くて、もっと醜くて、もっと息苦しくて、それでも目を逸らせない世界を。
私だけが知っているのが、嫌だった。
私だけが外れているのが、嫌だった。
だから始めた。
地下で技術を掘り起こして、人を動かして、人を壊して、海を見つけて、島の外へ手を伸ばして、世界の喉元に少しずつ指をかけていった。
だんだんと近づいていた。
私が、私でいられて、それでも皆と同じ世界を見られる場所に。
皆。
エルディア人だ。
線が引かれたようだった。
私だけ残された。
記憶は塗り替えられ、巨人は過去になった。
巨人薬が、効果を示さなかった。
それは巨人がいないことの実証だった。
皆は、あっさり新しい世界に馴染んでいく。
最初からそうだったみたいな顔で。
上手い。
そう思う。
感心するほど、見事だった。
自分の上を行かれたのだと分かった。
だったらもう、仕方がない。
私の楽しいことが、他人にとっては嫌なことだと知っている。
だから好きにやる時は、必ず何かしら相手側の利益と抱き合わせにしてきた。
善人だからではない。
その方が釣り合いが取れるからだ。
今の世界は、
崩すことに利益がない。
私がどう動かしたって、他のルートは、型落ちだ。
だから崩さない。
私には、崩せない。
こんな世界、楽しくない。
私の好きな世界に戻すほどの熱量が、私には、もう無い。
だから、これでいい。
「……やってられないわ」
口に出した声は、自分で思ったよりも柔らかかった。
◇
背後で足音が止まる。
迷いのない足音だった。
探して、見つけて、ようやく辿り着いた足音。
「こんなところにいたのか」
振り向かなくても分かる。
振り向く。
ジャンがいた。
眉間に皺が寄っている。
でも、それだけじゃない。
明らかに私を探していた顔をしていた。
胸の奥が、少しだけやわらかくなった。
あぁ、と思う。
まだ少しだけ、自分のものが残っている。
「探してたの?」
そう聞くと、ジャンは口元をわずかに歪めた。
「……悪いかよ」
「全然」
彼は私の方へ歩いてきて、手を伸ばせば届くところで止まる。
近すぎず、遠すぎず。
その半端な距離が、いかにもジャンらしい。
「フロックが……」
そこでジャンは言葉を飲み込んだ。
「……会ったの?」
「会った」
やがて低い声で言った。
「任せたって、言いやがったんだよあいつ」
眉を顰めたまま、声に出す。
「胸騒ぎが止まんねぇんだよ。
何する気だ」
私は少しだけ笑った。
「恋じゃない?」
「お前のことはとっくに好きだよ」
息が、わずかに止まる。
本当に、この男はこういう時だけ真っ直ぐだ。
言ってほしい時には言わないくせに、欲しくない時に限って躊躇なく心臓を刺してくる。
困る。
でも、嬉しい。
「……私も好きよ?」
「おう」
短い返事。
それだけで充分だった。
風が吹く。
窓が鳴る。
私はジャンを見る。
ジャンも私を見る。
もう多くはいらない。
盤面は終わった。
だったら、残り少ない自分のものを、少しだけ大事にしたい。
「じゃあ」
そう口にすると、ジャンの眉が動いた。
「……キスしても、いい?」
ジャンの動きが止まる。
分かりやすいくらいだった。
逡巡。葛藤。迷い。
目を逸らした。喉が動く。手が、ほんの少し震えている。
……そうよね。
分かってた。
私の視線が自然と落ちる。
今さらだ。
本当に、今さらすぎる。
好きだの何だの散々やってきて、まだそこだけは越えていない。
越えなかったから保てたものも、たぶんある。
静かに時間が流れる。
風の音。
窓枠の鳴る音。
遠くの気配。
やがて、ジャンが動いた。
手がゆっくり伸びてきて、私の頬に添えられる。
あたたかい、と思った。
その手つきはひどく慎重だった。
触れたいくせに、壊したくはないみたいな手。
顔が少し上がる。
目が合う。
ジャンの目は、相変わらず不器用なくらい真っ直ぐだった。
欲もある。迷いもある。怯えもある。
それでも、どれか一つに飲まれてはいない目だった。
好き。
本当に、好き。
顔が近づいてくる。
私は目を閉じた。
息遣いを感じる。
あと少し。
たぶん、触れる寸前まで来て、
止まった。
思わず少し笑いそうになる。
あぁ、この人は本当にこういう人。
「――何する気だ」
低い声が、近くで落ちる。
……こういう時だけ勘が効くのね。
目を開ける。
近すぎて焦点が少しぼやける。
でも、ジャンが近い。触れられてる。それだけで嬉しい。
だから笑う。
「キス、してくれないの?」
そう言うと、頬に触れている指先がわずかに強張った。
キス。
この距離なら、私が動けば奪える。
したい。
それくらい貰ってもいいでしょう、と思う。
私はゆっくり顔の角度を傾ける。
ジャンが固まった。
今ここで、
私からキスしても、多分、嫌われない。
そう思う。
思うけれど。
――私はゆっくりと身を引いた。
離れる。
頬の手が滑り落ちる。
ジャンの目が揺れる。
戸惑いと、不満と、少しの焦り。
分かりやすい。
私はその手を取った。
指をきゅっと握る。
ジャンは遅れて握り返してくれた。
その遅れ方が、らしいと思う。
ゆっくりと手を持ち上げる。
ジャンの目を見る。
それから、ジャンの手の甲にキスをした。
訓練兵の時を思い出す。
あの頃も、私たちはこういう触れ方をした。
唇までは行かない、でも何もなかったことにはしない触れ方。
子供っぽくて、妙に丁寧で、今思えばずいぶん不格好だった。
うん。
後悔はしてない。
私はやれるだけのことをやった。
始めてなかったら、ジャンに会えてなかった。
今の状況を招いた原因は分かってない。
誰が、どうやって、ここまで綺麗に盤面をひっくり返したのか。
それでも。
「――好き。大好き」
記憶が変わってたって。
例え私のこと忘れてたって、きっと。
手の甲に向けて言うと、ジャンの手が握りしめられた。
次の瞬間、腕が引かれる。
手がぐいっと持ち上げられる。
ジャンの口元に。
私の手の甲に、ジャンの唇があたる。
数秒。そのまま。
訓練兵の時と同じ場所。
でも、同じではない。
あの頃より、ずっと重い。
ずっと静かで、
ずっと後戻りがない。
ジャンの目が閉じられている。
胸が震えた。
好き。
目がゆっくり開く。
唇が離れる。
手は、繋がれたまま。
「……言えねぇのか?」
低い声だった。
私は少しだけ笑った。
「言えないんじゃない、言わないの」
ジャンの眉間に皺が寄る。
予想通り、そこで引かない。
「何でだよ」
「そう決めたから」
「ふざけんな」
「ふざけてないわ」
「だったら、ちゃんと言え」
声が少し強くなる。
でも怒鳴らない。
怒鳴ったら壊れるって、どこかで分かってるのだろう。
そのくせ、退かない。
「お前、また勝手に決めてんのか」
その言葉に、私は目を細めた。
また。
そのまたには、いろんなものが混ざっている。
技術者のこと。
地下のこと。
フロックに突きつけられたこと。
自分だけが後から知ること。
ジャンは全部を言わない。
でも、全部が消えたわけでもない。
「ええ」
「ええ、じゃねぇだろ」
「だって、そうでしょう」
「そうじゃねぇよ」
ジャンの声は低い。
怒鳴ってはいないのに、押し返す力だけは強い。
「……俺がいるだろ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
本当に、この男はそういうことを言う。
逃げ道みたいに差し出される優しさじゃない。
綺麗事でもない。
ただ、そこにいると言う。
自分を勘定に入れろと、まっすぐ言ってくる。
私はジャンを見た。
彼も私を見ている。
逃がす気のない顔だった。
まっすぐ返ってくる。
ほんとうに、こういう人だ。
残ったものを抱えて進む人。
納得できなくても、傷が残っていても、それでも前を向く人。
今の世界だって、きっとそうやって受け入れてしまう。
失ったものを数えながらでも、生きていく方を選ぶ。
だから好きになった。
だから、困る。
「ジャンがいるから」
そう言うと、ジャンの眉がぴくりと動いた。
私は少しだけ笑った。
「全部どうでもよくなった。
でも、ジャンだけ、まだ惜しいの」
ジャンの顔が強張る。
その表情が、少しだけ可笑しかった。
もう決めたのだ。
世界が綺麗に上書きされた以上、私が崩す意味はない。
崩したところで、誰の得にもならない。
私が見たいものは、もう失われた。
だったら終わりだ。
終わりのはずなのに。
ジャンがいると、終わり切らない。
「……私はこんな世界、認めたくない」
ぽつりと落とす。
「でも、崩せない」
「崩したって、前より悪くなるだけだもの」
ジャンは黙って聞いていた。
口を挟まない。
たぶん全部は分かっていない。
それでも、黙って受け止めようとする。
そういうところも、ずるい。
「全部、私の都合よ」
「ジャンは何も悪くない」
「一人で決めんな」
すぐに返ってくる。
間髪入れずに。
ジャンは少しだけ苛立った顔をした。
「お前が勝手に終わらせようとすんの、もう見飽きたんだよ」
その言葉に、息が少し止まる。
見飽きた。
そう言われるくらいには、何度もやってきたのだろう。
自分で決めて、自分で切って、自分だけ納得して先へ行く。
たしかに、そうだ。
「ねぇ、ジャン」
「何だよ」
「私のこと、好き?」
「今さら何聞いてんだよ」
呆れたように言いながら、視線は逸らさない。
「好きだよ」
心臓が、ひどく静かに沈む。
嬉しい。
困る。
もっと欲しくなる。
「……私も好き」
声が、自分で思ったより柔らかかった。
ジャンの喉がわずかに動く。
けれど、言葉は何も出てこなかった。
私は明日、世界会議に行く。
私だけで。
会談場にエルディア人は入れない。
それは、もっと前に決まって、もう覆らなかったことだ。
そして私は、もう決めた。
誰の盤面かは知らないけれど、多分きっと望んでいることをしてあげる。
だって私は、それが綺麗だと思う。
それなのに。
――もっと欲しい。
ゆっくり顔を上げる。
「……もうちょっとだけ、そばにいて」
ジャンの目が揺れる。
命令じゃない。
懇願でもない。
ただ、今だけは離れたくないという、ずいぶんみっともない本音だった。
ジャンは少し黙って、それから低く返した。
「ちょっとじゃねぇよ」
「え?」
「今日は、俺の見えるとこにいろ」
その言葉に、思わず笑いそうになる。
ああ、本当に。
「……独占欲?」
「うるせぇ」
吐き捨てるみたいに言って、でも手は離さない。
私はその熱を確かめるみたいに、指を絡めた。
足りない。
全然、足りないと、そう思った。