壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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――前話の続き。


81.ジャン視点

 

――今日は、俺の見えるとこにいろ。

そう言った俺に、ジラは指を絡めたあと首を傾げた。

 

 

「――今日、だけ?」

 

その一言で、喉の奥が詰まる。

 

明日。

 

その言葉だけで、空気が冷える。

明日になれば、こいつは行く。

止められない場所へ、一人で。

俺の手の届かない方へ。

 

「明日は――」

 

言いかけて、止まる。

 

止まった間を見て、ジラが少しだけ笑った。

 

「無理よね」

 

「……分かってる」

 

吐き捨てるみたいに返す。

嫌になるくらい分かってる。

 

俺らエルディア人は、会場に入れない。

 

だから、今夜くらい離したくない。

 

手に力が入ったらしい。

繋いだ指先が少し強くなる。

ジラは痛がるでもなく、ただ目を細めた。

 

「そんなに嫌?」

 

「嫌だよ」

 

即答だった。

 

ジラの目が、ほんの少しだけ揺れる。

 

「何が?」

 

「お前が一人で行くのが」

 

言ってから、自分でも妙に腹が立った。

会議が嫌なわけじゃない。

必要なのも、やらなきゃいけないのも分かってる。

でも、お前が一人で行くのが嫌だ。

 

ただ、それだけだ。

 

ジラはしばらく黙っていた。

それから、静かに息を吐く。

 

嫌な予感がした。

 

こいつがこういう顔をする時、ろくなことにならない。

静かで、妙に綺麗で、たぶん何か決めてる顔。

 

なのに次に寄越してくるのは、大抵こっちが断れないものだ。

 

「……じゃあ」

 

ほら来た。

 

 

「――キスしてくれたら、やめてもいいわ」

 

時間が止まる。

 

意味は分かる。

さっきの延長線だ。

……こいつ諦めてねぇ。

 

 

喉がひどく乾く。

 

「……しねぇって言っただろ」

 

やっと出た声は、情けないくらい掠れていた。

 

 

ジラはまばたき一つせず、俺を見ている。

 

「キスしてくれたら、やめる」

「明日のことも」

「その先も」

「私の言ってない計画も、全部」

 

「やめてあげる」

 

静かな声だった。

 

からかってるわけじゃない。

試してる。

それが分かる。

 

分かるのに、腹の底が熱くなる。

 

 

「そういう言い方、すんな」

 

声が低く落ちる。

 

ジラの睫毛が少し揺れた。

 

「どうして?」

 

「どうして、じゃねぇだろ」

 

喉が焼ける。

 

「お前、それ、自分で分かって言ってんのかよ」

 

「分かってるわ」

 

ジラは少しだけ口元を緩める。

笑っているわけじゃない。

でも、俺がどれだけ揺れたか、たぶん見えてる顔だった。

 

こいつ、わざとだ。

 

本気でやめるつもりがあるのかないのか、そこは分からない。

でも、俺が欲しがるのを見たがってる。

 

そんな顔だ。

 

 

「ただの取引」

 

あっさり言われて、頭の奥が白くなりかける。

 

「あなたは私に行ってほしくない」

「私は、ジャンのためならやめてもいい」

「それなら――」

 

「釣り合ってねぇよ」

 

噛みつくみたいに返した。

釣り合う。ジラがよく言う言葉だ。

 

 

「何でそうなるんだよ」

「何でそこで、それを出してくんだよ」

 

一歩詰める。

ジラは退かない。

少し顎を上げて、受けるみたいな顔をする。

 

その顔が駄目だ。

 

気づけば手が動いていた。

ジラの頬に触れる。

少し冷たい肌。

でも指先だけ馬鹿みたいに熱い。

 

距離が一気に詰まる。

 

ジラの呼吸が、かすかに揺れた。

 

目が合う。

 

こいつ、拒まない。

 

それどころか、少し嬉しそうですらある。

その事実が甘くて、死ぬほどまずい。

 

 

フロックの声が、嫌なタイミングで頭の奥に蘇った。

 

――お前がいたから、ジラはこんなことやったんだよ。

――お前、ジラにとって、世界と同じ位置にいるの分かってんのか?

 

うるせぇよ。

 

頭の中で吐き捨てる。

でも消えない。

 

今ここで受けたら、本当にそうなる。

俺が欲しがったから、こいつの行き先が変わる。

俺が手を伸ばしたから、こいつが世界ごと投げる。

 

そんなもの、受け取れるか。

 

 

「……喜ぶなよ」

 

低く言うと、ジラの眉が少し寄った。

 

「まだ何もしてないわ」

 

「顔だよ」

「その顔、すんな」

「受け入れられると、余計おかしくなるだろ」

 

ジラは少し黙って、それから小さく言う。

 

「嬉しいもの」

 

胸の奥で何かがどっと暴れた。

 

くそ。

分かってた。

こいつはそう言う。

 

嫌がってくれた方がどれだけ楽か。

でもこいつは、こういう時に限って、平気な顔でこっちへ落ちてくる。

 

 

「……だから駄目なんだよ」

 

もう一度言う。

今度は、自分に言い聞かせるみたいに。

 

「お前、今まともじゃねぇだろ」

 

「そうね」

 

「普通そこ認めるかよ……」

 

ジラは少しだけ目を細めた。

 

 

「でも、本気よ」

 

落ち着いた声だった。

その静かさが逆に刺さる。

 

「ジャンが欲しがってくれるなら」

「もう、やめてもいいかなって」

 

 

呼吸が止まりかける。

 

「……お前な」

 

「だって」

「世界はもういい」

「でも、あなたは欲しい」

 

真正面から言われて、頭がぐらつく。

 

「そんなふうに言うなよ……」

 

掠れた声が落ちた。

 

ジラは俺を見たまま、少しだけ首を傾げる。

 

 

ジラの目が、熱を持つ。

その顔がまた駄目だ。

 

「いいわよ」

 

静かに言う。

 

「閉じ込めてくれるなら、それでも」

 

背筋に冷たいものが走る。

 

本気だ。

それが分かる。

冗談でも、甘えでもない。

 

今ここで俺が頷けば、こいつは本当に捨てる。

俺のために。全部か?

全部ってなんだよ。

 

 

頭の中が一瞬、真っ白になる。

 

 

「……本気かよ」

 

やっと出た声は、自分でも驚くくらい低かった。

 

「ええ」

 

即答だった。

 

腹の底がぞくっとする。

 

「分かってねぇな」

 

「何が?」

 

「俺がどれだけしたいかも」

「どれだけ連れて逃げたくなってるかも」

「分かってねぇだろ」

 

ジラは黙って俺を見る。

分かってるのかもしれない。

分かってて言ってるのかもしれない。

 

だから腹が立つ。

 

「お前が欲しいの、分かってる」

「止めたいのも分かってる」

「それで差し出してくる」

「そんなの受けたら――」

 

息が荒くなる。

うまく整わない。

 

 

「俺が一番嫌なやつになるだろ」

 

ジラの表情が少しだけ揺れた。

ほんの少しだ。

でも、やっと綺麗な顔にひびが入った。

 

「優しくしなくていいのに……」

 

その一言で頭に血が上った。

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

思ったより強い声が出る。

ジラの肩が小さく跳ねる。

 

すぐに少しだけ後悔した。

でも引っ込められない。

 

頬に触れたまま、親指に少し力が入る。

逃がさないためみたいな触り方になる。

 

 

「優しいとか、そういう話じゃねぇんだよ」

「今のお前から貰っても、駄目なんだよ」

「欲しいけど」

「嬉しいけど」

「だから駄目なんだよ……っ」

 

 

ジラは黙って聞いていた。

それから、ほんの少しだけ目を伏せる。

 

「……本当に、欲しいのね」

 

「当たり前だろ」

 

吐き捨てる。

 

「好きなやつにそんなこと言われて」

「欲しくねぇわけ、あるかよ」

 

顔が熱い。

今さらどうしようもなく熱い。

 

 

でも嘘はつけなかった。

 

ジラはその熱を見つめるみたいに、じっと俺を見た。

その目の奥に、さっきまでとは違う揺れがある。

 

試すための光じゃない。

もっと静かで、もっと危ないやつだ。

 

 

「……嬉しい」

 

小さく落ちる。

 

その声が、妙に弱かった。

初めて少しだけ、本音の方が先にこぼれた声に聞こえた。

 

くそ。

 

そういうのが、一番駄目なんだよ。

 

気づけば額がくっついていた。

唇じゃなく、額。

熱い。近い。息が混ざる。

あと少しで触れられる距離で、必死に止まる。

 

 

「キスすれば」

「ほんとにやめるのかよ」

 

低く落とすと、ジラの呼吸がわずかに止まる。

 

「……やめるわ」

 

返事は静かだった。

迷いがない。

だから逆に、ぞっとする。

 

 

誰も来ない廊下を抜ける。

俺の部屋に押し込んで、鍵をかける。

キスして、行くなって言って、そのまま朝まで抱え込む。

会議なんか放っておいて、外がどれだけ騒ごうが知るかって顔して、こいつを自分の腕の中にだけ閉じ込める。

 

できる。

 

 

違う。

そうじゃない。

 

「だから駄目なんだよ」

 

掠れた声が落ちる。

 

「お前の全部、そんなふうに貰いたくねぇんだよ」

 

ジラが目を上げる。

その目がわずかに見開かれる。

 

 

「世界が駄目だから、俺でいいみてぇに言うな」

「俺が欲しがったから、そっちに転ぶな」

「そういうんじゃねぇだろ……」

 

最後の方は少し震えた。

 

ジラはしばらく何も言わない。

その沈黙が長い。

 

やがて、小さく息を吐いて、囁くみたいに言った。

 

「……じゃあ、どうしてほしいの?」

 

その問いに、すぐ答えられなかった。

 

行くな。

ここにいろ。

俺だけ見てろ。

明日なんか来るな。

抱きしめさせろ。

キスさせろ。

全部やめて、俺のためだけに生きろ。

 

そんなもの、全部本音だ。

 

でも。

 

 

 

「……行けよ」

 

喉を裂くみたいに、やっと出す。

 

ジラの目が揺れた。

 

「行って」

「帰ってこいよ」

 

言った瞬間、胸が痛くなる。

 

「ちゃんと帰ってきて」

「そのあとで、同じこと言え」

「その時に、もう一回言えよ」

 

呼吸が荒い。

自分でも何を言ってるのか、ぎりぎりで分かるくらいだ。

 

「明日終わって」

「全部済んで」

「それでもまだ」

「俺が欲しいとか」

「閉じ込めていいとか」

「そういう馬鹿なこと言うなら――」

 

そこで言葉が詰まる。

 

 

ジラがじっと待っている。

その顔が静かすぎて、余計に苦しい。

 

 

「……その時は」

 

喉がひどく乾く。

 

 

「逃がさねぇかもしれねぇ」

 

 

言った瞬間、ジラの目がわずかに見開かれた。

そのあと、ほんの少しだけ、唇の端が上がる。

 

「……脅し?」

 

「違ぇよ」

 

 

ジラが、ふっと息を漏らす。

笑ったのか、笑いかけてやめたのか、よく分からない曖昧な音だった。

 

でもその曖昧さの奥に、何か別のものが沈んでいる気がした。

笑ってるのに、少しだけ遠い。

 

 

嫌な感じがした。

 

額を離す。

一歩だけ距離を取る。

 

離れた途端、冷たい空気が間に入り込む。

今までどれだけ近かったのか、そこで初めて分かった。

 

 

ジラは俺を見る。

少し乱れた呼吸のまま。

頬に、さっきまで俺の手があった場所だけ、かすかに熱が残ってるみたいに見えた。

 

 

視線が唇に吸い寄せられる。

 

駄目だ。

見るな。

 

 

「……今日は俺の見えるとこにいろ」

 

もう一度言う。

今度は最初より低く、重く。

 

 

「今夜だけでいい」

「明日までは、せめて俺の目の届くとこにいろ」

 

ジラは少し黙った。

ほんの少しだけ。

その間が、妙に長く感じた。

 

それから、静かに頷く。

 

 

「うん」

 

その返事だけで、少しだけ息ができるようになる。

少しだけだ。

全然足りない。

 

「約束しろよ」

 

「何を?」

 

「帰ってくるって」

 

ジラは俺を見たまま、少しだけ目を細めた。

何を考えてるのか分からない顔。

いや、分かりたくない顔だった。

 

 

それでも次の瞬間には、ちゃんといつもの静けさに戻して言う。

 

「……帰ってくる」

 

その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。

なのに同時に、理由のない寒気も走る。

 

 

たぶん、俺は何かを見落としてる。

 

でも今ここで、それを掘り返したくなかった。

掘り返したら、この時間まで壊れそうだった。

 

俺はようやく手を下ろした。

指先がまだ熱い。

頬に触れていただけなのに、そこだけいつまでも残ってる。

 

 

ジラが俺を見たまま、ぽつりと言う。

 

「……キス、しないのね」

 

その一言で、また腹の底が熱くなる。

 

 

「するわけねぇだろ」

 

反射で返した。

でも声が少し掠れて、自分で舌打ちしたくなる。

 

ジラは少しだけ首を傾げる。

 

「したかったくせに」

 

「うるせぇよ」

「したいに決まってんだろ」

「だからしてねぇんだよ」

 

言い切ってから、目を逸らす。

顔が熱い。

ほんとに、何言わせてんだ。

 

 

ジラは少し黙って、それから静かに笑った。

 

さっきまでみたいな、試す笑いじゃない。

もう少し柔らかい、妙に静かな笑い方だった。

 

その笑い方が、嫌だった。

 

柔らかいのに、どこか諦めている。

こっちを揺らして楽しむ笑いじゃない。

もう結果を知っているみたいな顔だった。

 

胸の奥が、鈍く軋む。

 

 

「……行くぞ」

 

これ以上ここに立っていたら、また余計なことを言わせられる気がした。

いや、違う。

余計なことをする。

たぶん、今度こそ止まれない。

 

ジラは小さく目を瞬かせてから、素直に頷いた。

 

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