――今日は、俺の見えるとこにいろ。
そう言った俺に、ジラは指を絡めたあと首を傾げた。
「――今日、だけ?」
その一言で、喉の奥が詰まる。
明日。
その言葉だけで、空気が冷える。
明日になれば、こいつは行く。
止められない場所へ、一人で。
俺の手の届かない方へ。
「明日は――」
言いかけて、止まる。
止まった間を見て、ジラが少しだけ笑った。
「無理よね」
「……分かってる」
吐き捨てるみたいに返す。
嫌になるくらい分かってる。
俺らエルディア人は、会場に入れない。
だから、今夜くらい離したくない。
手に力が入ったらしい。
繋いだ指先が少し強くなる。
ジラは痛がるでもなく、ただ目を細めた。
「そんなに嫌?」
「嫌だよ」
即答だった。
ジラの目が、ほんの少しだけ揺れる。
「何が?」
「お前が一人で行くのが」
言ってから、自分でも妙に腹が立った。
会議が嫌なわけじゃない。
必要なのも、やらなきゃいけないのも分かってる。
でも、お前が一人で行くのが嫌だ。
ただ、それだけだ。
ジラはしばらく黙っていた。
それから、静かに息を吐く。
嫌な予感がした。
こいつがこういう顔をする時、ろくなことにならない。
静かで、妙に綺麗で、たぶん何か決めてる顔。
なのに次に寄越してくるのは、大抵こっちが断れないものだ。
「……じゃあ」
ほら来た。
「――キスしてくれたら、やめてもいいわ」
時間が止まる。
意味は分かる。
さっきの延長線だ。
……こいつ諦めてねぇ。
喉がひどく乾く。
「……しねぇって言っただろ」
やっと出た声は、情けないくらい掠れていた。
ジラはまばたき一つせず、俺を見ている。
「キスしてくれたら、やめる」
「明日のことも」
「その先も」
「私の言ってない計画も、全部」
「やめてあげる」
静かな声だった。
からかってるわけじゃない。
試してる。
それが分かる。
分かるのに、腹の底が熱くなる。
「そういう言い方、すんな」
声が低く落ちる。
ジラの睫毛が少し揺れた。
「どうして?」
「どうして、じゃねぇだろ」
喉が焼ける。
「お前、それ、自分で分かって言ってんのかよ」
「分かってるわ」
ジラは少しだけ口元を緩める。
笑っているわけじゃない。
でも、俺がどれだけ揺れたか、たぶん見えてる顔だった。
こいつ、わざとだ。
本気でやめるつもりがあるのかないのか、そこは分からない。
でも、俺が欲しがるのを見たがってる。
そんな顔だ。
「ただの取引」
あっさり言われて、頭の奥が白くなりかける。
「あなたは私に行ってほしくない」
「私は、ジャンのためならやめてもいい」
「それなら――」
「釣り合ってねぇよ」
噛みつくみたいに返した。
釣り合う。ジラがよく言う言葉だ。
「何でそうなるんだよ」
「何でそこで、それを出してくんだよ」
一歩詰める。
ジラは退かない。
少し顎を上げて、受けるみたいな顔をする。
その顔が駄目だ。
気づけば手が動いていた。
ジラの頬に触れる。
少し冷たい肌。
でも指先だけ馬鹿みたいに熱い。
距離が一気に詰まる。
ジラの呼吸が、かすかに揺れた。
目が合う。
こいつ、拒まない。
それどころか、少し嬉しそうですらある。
その事実が甘くて、死ぬほどまずい。
フロックの声が、嫌なタイミングで頭の奥に蘇った。
――お前がいたから、ジラはこんなことやったんだよ。
――お前、ジラにとって、世界と同じ位置にいるの分かってんのか?
うるせぇよ。
頭の中で吐き捨てる。
でも消えない。
今ここで受けたら、本当にそうなる。
俺が欲しがったから、こいつの行き先が変わる。
俺が手を伸ばしたから、こいつが世界ごと投げる。
そんなもの、受け取れるか。
「……喜ぶなよ」
低く言うと、ジラの眉が少し寄った。
「まだ何もしてないわ」
「顔だよ」
「その顔、すんな」
「受け入れられると、余計おかしくなるだろ」
ジラは少し黙って、それから小さく言う。
「嬉しいもの」
胸の奥で何かがどっと暴れた。
くそ。
分かってた。
こいつはそう言う。
嫌がってくれた方がどれだけ楽か。
でもこいつは、こういう時に限って、平気な顔でこっちへ落ちてくる。
「……だから駄目なんだよ」
もう一度言う。
今度は、自分に言い聞かせるみたいに。
「お前、今まともじゃねぇだろ」
「そうね」
「普通そこ認めるかよ……」
ジラは少しだけ目を細めた。
「でも、本気よ」
落ち着いた声だった。
その静かさが逆に刺さる。
「ジャンが欲しがってくれるなら」
「もう、やめてもいいかなって」
呼吸が止まりかける。
「……お前な」
「だって」
「世界はもういい」
「でも、あなたは欲しい」
真正面から言われて、頭がぐらつく。
「そんなふうに言うなよ……」
掠れた声が落ちた。
ジラは俺を見たまま、少しだけ首を傾げる。
ジラの目が、熱を持つ。
その顔がまた駄目だ。
「いいわよ」
静かに言う。
「閉じ込めてくれるなら、それでも」
背筋に冷たいものが走る。
本気だ。
それが分かる。
冗談でも、甘えでもない。
今ここで俺が頷けば、こいつは本当に捨てる。
俺のために。全部か?
全部ってなんだよ。
頭の中が一瞬、真っ白になる。
「……本気かよ」
やっと出た声は、自分でも驚くくらい低かった。
「ええ」
即答だった。
腹の底がぞくっとする。
「分かってねぇな」
「何が?」
「俺がどれだけしたいかも」
「どれだけ連れて逃げたくなってるかも」
「分かってねぇだろ」
ジラは黙って俺を見る。
分かってるのかもしれない。
分かってて言ってるのかもしれない。
だから腹が立つ。
「お前が欲しいの、分かってる」
「止めたいのも分かってる」
「それで差し出してくる」
「そんなの受けたら――」
息が荒くなる。
うまく整わない。
「俺が一番嫌なやつになるだろ」
ジラの表情が少しだけ揺れた。
ほんの少しだ。
でも、やっと綺麗な顔にひびが入った。
「優しくしなくていいのに……」
その一言で頭に血が上った。
「そういう問題じゃねぇ!」
思ったより強い声が出る。
ジラの肩が小さく跳ねる。
すぐに少しだけ後悔した。
でも引っ込められない。
頬に触れたまま、親指に少し力が入る。
逃がさないためみたいな触り方になる。
「優しいとか、そういう話じゃねぇんだよ」
「今のお前から貰っても、駄目なんだよ」
「欲しいけど」
「嬉しいけど」
「だから駄目なんだよ……っ」
ジラは黙って聞いていた。
それから、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……本当に、欲しいのね」
「当たり前だろ」
吐き捨てる。
「好きなやつにそんなこと言われて」
「欲しくねぇわけ、あるかよ」
顔が熱い。
今さらどうしようもなく熱い。
でも嘘はつけなかった。
ジラはその熱を見つめるみたいに、じっと俺を見た。
その目の奥に、さっきまでとは違う揺れがある。
試すための光じゃない。
もっと静かで、もっと危ないやつだ。
「……嬉しい」
小さく落ちる。
その声が、妙に弱かった。
初めて少しだけ、本音の方が先にこぼれた声に聞こえた。
くそ。
そういうのが、一番駄目なんだよ。
気づけば額がくっついていた。
唇じゃなく、額。
熱い。近い。息が混ざる。
あと少しで触れられる距離で、必死に止まる。
「キスすれば」
「ほんとにやめるのかよ」
低く落とすと、ジラの呼吸がわずかに止まる。
「……やめるわ」
返事は静かだった。
迷いがない。
だから逆に、ぞっとする。
誰も来ない廊下を抜ける。
俺の部屋に押し込んで、鍵をかける。
キスして、行くなって言って、そのまま朝まで抱え込む。
会議なんか放っておいて、外がどれだけ騒ごうが知るかって顔して、こいつを自分の腕の中にだけ閉じ込める。
できる。
違う。
そうじゃない。
「だから駄目なんだよ」
掠れた声が落ちる。
「お前の全部、そんなふうに貰いたくねぇんだよ」
ジラが目を上げる。
その目がわずかに見開かれる。
「世界が駄目だから、俺でいいみてぇに言うな」
「俺が欲しがったから、そっちに転ぶな」
「そういうんじゃねぇだろ……」
最後の方は少し震えた。
ジラはしばらく何も言わない。
その沈黙が長い。
やがて、小さく息を吐いて、囁くみたいに言った。
「……じゃあ、どうしてほしいの?」
その問いに、すぐ答えられなかった。
行くな。
ここにいろ。
俺だけ見てろ。
明日なんか来るな。
抱きしめさせろ。
キスさせろ。
全部やめて、俺のためだけに生きろ。
そんなもの、全部本音だ。
でも。
「……行けよ」
喉を裂くみたいに、やっと出す。
ジラの目が揺れた。
「行って」
「帰ってこいよ」
言った瞬間、胸が痛くなる。
「ちゃんと帰ってきて」
「そのあとで、同じこと言え」
「その時に、もう一回言えよ」
呼吸が荒い。
自分でも何を言ってるのか、ぎりぎりで分かるくらいだ。
「明日終わって」
「全部済んで」
「それでもまだ」
「俺が欲しいとか」
「閉じ込めていいとか」
「そういう馬鹿なこと言うなら――」
そこで言葉が詰まる。
ジラがじっと待っている。
その顔が静かすぎて、余計に苦しい。
「……その時は」
喉がひどく乾く。
「逃がさねぇかもしれねぇ」
言った瞬間、ジラの目がわずかに見開かれた。
そのあと、ほんの少しだけ、唇の端が上がる。
「……脅し?」
「違ぇよ」
ジラが、ふっと息を漏らす。
笑ったのか、笑いかけてやめたのか、よく分からない曖昧な音だった。
でもその曖昧さの奥に、何か別のものが沈んでいる気がした。
笑ってるのに、少しだけ遠い。
嫌な感じがした。
額を離す。
一歩だけ距離を取る。
離れた途端、冷たい空気が間に入り込む。
今までどれだけ近かったのか、そこで初めて分かった。
ジラは俺を見る。
少し乱れた呼吸のまま。
頬に、さっきまで俺の手があった場所だけ、かすかに熱が残ってるみたいに見えた。
視線が唇に吸い寄せられる。
駄目だ。
見るな。
「……今日は俺の見えるとこにいろ」
もう一度言う。
今度は最初より低く、重く。
「今夜だけでいい」
「明日までは、せめて俺の目の届くとこにいろ」
ジラは少し黙った。
ほんの少しだけ。
その間が、妙に長く感じた。
それから、静かに頷く。
「うん」
その返事だけで、少しだけ息ができるようになる。
少しだけだ。
全然足りない。
「約束しろよ」
「何を?」
「帰ってくるって」
ジラは俺を見たまま、少しだけ目を細めた。
何を考えてるのか分からない顔。
いや、分かりたくない顔だった。
それでも次の瞬間には、ちゃんといつもの静けさに戻して言う。
「……帰ってくる」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
なのに同時に、理由のない寒気も走る。
たぶん、俺は何かを見落としてる。
でも今ここで、それを掘り返したくなかった。
掘り返したら、この時間まで壊れそうだった。
俺はようやく手を下ろした。
指先がまだ熱い。
頬に触れていただけなのに、そこだけいつまでも残ってる。
ジラが俺を見たまま、ぽつりと言う。
「……キス、しないのね」
その一言で、また腹の底が熱くなる。
「するわけねぇだろ」
反射で返した。
でも声が少し掠れて、自分で舌打ちしたくなる。
ジラは少しだけ首を傾げる。
「したかったくせに」
「うるせぇよ」
「したいに決まってんだろ」
「だからしてねぇんだよ」
言い切ってから、目を逸らす。
顔が熱い。
ほんとに、何言わせてんだ。
ジラは少し黙って、それから静かに笑った。
さっきまでみたいな、試す笑いじゃない。
もう少し柔らかい、妙に静かな笑い方だった。
その笑い方が、嫌だった。
柔らかいのに、どこか諦めている。
こっちを揺らして楽しむ笑いじゃない。
もう結果を知っているみたいな顔だった。
胸の奥が、鈍く軋む。
「……行くぞ」
これ以上ここに立っていたら、また余計なことを言わせられる気がした。
いや、違う。
余計なことをする。
たぶん、今度こそ止まれない。
ジラは小さく目を瞬かせてから、素直に頷いた。