「……行くぞ」
ジャンは繋いだ手を離さないまま歩き出した。
その手は強かった。
乱暴じゃない。
でも、離したら私がどこかへ消えると、本気で思っているみたいな握り方だった。
廊下では兵士たちがいつも通り動いていた。
報告書を抱えて通り過ぎる足音。
壁際で交わされる低い声。
遠くで誰かが笑う。
世界は平然としている。
何も失っていないみたいな顔で。
私だけが違う。
私だけが、綺麗に塗り潰された盤面の前に立ち尽くしたままだ。
負けたのだと思う。
それも、ひどく綺麗に。
もう崩す意味もない。
戻す熱もない。
世界はもういい。
そう思っているのに、ジャンの手だけはまだ惜しい。
「部屋でいいだろ」
「ジャンの?」
「嫌なら別のとこ探す」
「嫌じゃないわ」
答えるとジャンの喉が小さく動いた。
その反応だけで、胸の奥が少しやわらかくなる。
こんな時でもまだ、私は彼が揺れるのを見るのが好きらしい。
◇
部屋に着く。
扉が開く。
先に中へ入れられて、あとからジャンが入ってくる。
かちり、と鍵の音がした。
小さな音なのに、妙に耳に残った。
閉じ込められた、と思うより先に、少しだけ安心した自分がいて、心の中で笑う。
本当にどうしようもない。
部屋は簡素だった。
机、椅子、棚、寝台。
整ってはいるけれど、飾り気がない。
「つまらない部屋ね」
「寝るだけの場所に何求めてんだよ」
「あなたらしいけど」
そう言って窓際へ歩く。
月の光はまだ薄く、部屋の輪郭だけを静かに浮かせていた。
「座れよ」
振り返る。
私は椅子ではなく寝台の端に腰を下ろした。
少しだけ沈む感触。
ジャンの眉がほんの少し寄る。
困らせたかったのかもしれない。
実際に困った顔をされると、胸が少しだけ熱くなる。
ジャンは少し離れた椅子を引いて座った。
正面。
近すぎず、遠すぎず。
見張るつもりなのだろう。
「……そこなのね」
私は小さく笑った。
沈黙が落ちる。
気まずくはない。
ただ、濃い。
少し触れれば、どちらかが何かをこぼしてしまいそうな沈黙だった。
しばらくして、私はぽつりと口を開く。
「ほんとに、しないのね」
ジャンの目がすっと細くなる。
「まだ言うのかよ」
声は思ったより静かだった。
挑発のつもりなのに、ただ事実を言ったみたいな声になる。
「……寝るなら寝ろ」
「ジャンは?」
「寝ねぇよ」
「見張るの?」
「悪いか」
「少し嬉しい」
私は寝台に片手をついて、少しだけ上を向く。
視線が動く気配がする。
ジャンが慌てて逸らしたのも分かった。
可愛い、と思ってしまう。
こんな時なのに。
「ジャン」
「何だよ」
「こっち来て」
少し間があって、返事。
「嫌だ」
「でも来たいでしょ?」
「うるせぇ」
私は少し黙って、それから彼を見る。
ジャンもこっちを見ていた。
不器用なくらい真っ直ぐな目。
欲もある。
迷いもある。
苛立ちもある。
なのに、全部抱えたままこちらを見る目。
好き、と思う。
本当に、どうしようもないくらい。
だから口が勝手に動いた。
「……ジャンは、私を選ばない」
その瞬間、彼の顔が止まった。
刺さった。
分かる。
ちゃんと刺した。
言わなければよかったと思うのに、言わずにはいられなかった。
「世界とか」
「正しさとか」
「そういうので動くの、もう疲れたの」
窓の外で風が鳴る。
かた、と小さく窓枠が揺れた。
「ジャンに、止めてほしかったの」
言ってしまうと、胸が少し軽くなって、同時にひどく惨めになる。
私は優しさで止まりたいわけじゃない。
理解されたいわけでもない。
もっと乱暴に、もっと身勝手に、理屈ごと奪うみたいに止めてほしかった。
行くな、と。
俺が嫌だからやめろ、と。
そういう言葉で。
選ばれたいんじゃない。
攫われたい。
そんなもの、言葉にしたら醜いだけだ。
「……は?」
ジャンの声が落ちる。
綺麗に理解した顔じゃなかった。
ちゃんと困って、ちゃんと腹を立てて、どう受け取ればいいか分からない顔。
その顔の方が、ずっとジャンらしくて、少しだけ救われる。
「お前、それ……」
言いかけて、止まる。
舌打ちしそうな顔。
でもしない。
代わりに、こっちを睨むみたいに見る。
「そういう言い方すんな」
低い声だった。
私は目を細める。
「どうして?」
「どうしてじゃねぇだろ」
一気に立ち上がる。
椅子が小さく鳴った。
一歩、二歩。
あっという間に寝台の前まで来る。
見下ろされる。
空気が近くなる。
さっきまでの距離が、ただの我慢だったのだと分かる。
「俺にどうしろってんだよ」
その声は苛立っていた。
でも怒りじゃない。
もっと、どうにもならないものに近い。
「行くなって言ったら、ほんとにやめんのかよ」
私は答えなかった。
答えたら、たぶんもっと駄目になる。
ジャンの呼吸が少し荒い。
目が揺れている。
ちゃんと欲しがっている顔だった。
それが嬉しくて、ひどく困る。
「……そういう顔で言うな」
吐き捨てるみたいに言われる。
私は少しだけ首を傾げる。
「どんな顔?」
「知らねぇよ」
「でも、そういうの」
「俺に向けんな」
言葉が足りない。
でも、足りないまま必死で掴もうとしている。
その感じが、この人だと思う。
「止めてほしかったの」
もう一度言うと、ジャンの顔が歪んだ。
「馬鹿かよ……」
掠れた声だった。
「そんなので止まるなら、とっくに止まってるだろ」
「そうかもね」
「じゃあ言うなよ」
「言いたかったの」
「何でだよ」
「分からない?」
問い返すと、ジャンは顔をしかめた。
「分かるかよ」
「分かりたくねぇよ、そんなの」
その返しに、胸が少し熱くなる。
綺麗に受け止めない。
優しく飲み込まない。
そういうところが好きだ。
ジャンの手が伸びてきて、髪に触れた。
さらりと指が流れる。
耳にかかった髪をどけられる。
小さく息が揺れた。
その反応に、ジャンの目がますます苛立ったように熱くなる。
「……なぁ」
低い声。
「明日、お前が行くの」
「俺、ほんとに嫌だ」
ああ。
そういう言い方をするのだ、この人は。
綺麗じゃない。
飾らない。
ただ、自分が嫌だと真っ直ぐ言う。
それだけで、足元が揺らぐ。
「分かってるわ」
「分かってねぇよ」
「分かってたら、そんな平気な顔しねぇだろ」
「平気じゃないわ」
「見えねぇ」
言いながら、ジャンの指先が耳のあたりをかすめる。
そこに熱が残る。
「……見せたら、困るでしょう」
「もう困ってるっつってんだろ」
吐き捨てるみたいな声だった。
でも、その声がたまらなく嬉しい。
困ってる。
私のことで。
行ってしまう私を、ちゃんと嫌がっている。
胸の奥の冷えたところに、少しだけ熱が戻る。
「お前が思ってるより、ずっと困ってる」
「だから、これ以上わけわかんねぇこと言うな」
私は少し黙ってから、小さく言う。
「ごめんなさい」
自分でも驚くくらい素直な声だった。
「私、そうやってしか、生きられない」
試して、
揺らして、
相手がどこまで来てくれるか見ないと安心できない。
そういう、面倒で、可愛くない生き方しかできない。
ジャンは嫌そうに眉を寄せた。
けれど手は引かない。
「知ってるよ」
ぶっきらぼうな声。
「知ってるけど」
「だからって、俺が何もねぇみたいに言うな」
胸が詰まる。
「俺だって」
「お前にそういうこと言われたら、普通に嫌なんだよ」
そこで言葉が止まる。
喉が動く。
言うか迷っているのが分かる。
それでも、絞るみたいに出してくる。
「……好きなんだから、余計だろ」
息が止まる。
ああ、本当に。
この人はいつも少し遅い。
でも、その遅さごと欲しくなる。
胸が苦しい。
嬉しい。
もっと欲しい。
足りない。
だからまた、私はつつく。
「なのに、キスはしてくれないの、おかしくない?」
ジャンが顔をしかめる。
「お前な……」
「したいくせに」
「したいよ」
少し目を見開く。
ジャンは自分でも言ってしまったと思ったらしい。
一瞬だけ目を逸らして、でもすぐ戻す。
「したいに決まってんだろ」
「でも今したら、絶対ろくなことになんねぇからしてねぇんだよ」
その言い方が、あまりにもジャンらしくて、少し笑いそうになる。
綺麗じゃない。
格好よくもない。
でも本音だ。
私は頬が熱くなるのを感じながら、少しだけ笑った。
「……そう」
「その顔すんな」
「どの顔?」
「嬉しそうな顔」
だって嬉しいのだから仕方ない。
本当に、この人はずるい。
欲しい時にはくれないくせに、いらない時に限って、心臓に直接刺さるものばかり寄越してくる。
ジャンの手が頬から離れる。
惜しい。
でも、その離れ方が優しすぎなくて、少しだけほっとする。
未練を断つみたいに、ちゃんと乱暴に離れるから。
「横になれ。もう寝ろ」
私は少しだけ笑って、素直に足を上げる。
壁際に寄って横になる。
シーツがひやりと冷たい。
髪が広がる。
ジャンは靴を脱がないまま、寝台の外側に腰を下ろした。
「……そこにいるの?」
「いる」
「朝まで?」
「いる」
短い。
でも迷いがない。
その返事だけで、胸の奥がじんわり熱を持つ。
「眠れないかも」
「寝なくていい」
「ジャンも眠いでしょう」
「お前がいなくなるより、いい」
少し言い直した。
でも十分だった。
私は目を閉じる。
ずるい。
本当にずるい。
世界はもういい。
諦めた。
塗り潰された盤面に未練はない。
戻す熱もない。
なのに、この人だけは駄目だ。
もういらないはずなのに、まだ欲しい。
終わらせるつもりなのに、この人の前だと終わりきれない。
好きだ。
ひどく好きだ。
世界より、正しさより、明日より、今はこの人の方が惜しいと思ってしまうくらい。
困る。
本当に困る。
沈黙が落ちる。
風の音。
遠くの足音。
夜が少しずつ深くなる。
ジャンがそこにいる。
見えるところに。
手を伸ばせば届く距離に。
寝台がごくわずかに軋む。
起きるほどじゃない。
でも分かる。
ジャンが、まだそこにいる。
本当に、そのつもりなのだろう。
意識が沈みかけたところで、指先にかすかな温度が触れた。
そっと。
確かめるみたいに。
起こさないように。
その温度を抱いたまま、私は静かに眠りへ沈んだ。