壁も巨人も、世界は私のために変われ!   作:an-ryuka

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――前話の続き。


82.

 

「……行くぞ」

 

ジャンは繋いだ手を離さないまま歩き出した。

その手は強かった。

乱暴じゃない。

でも、離したら私がどこかへ消えると、本気で思っているみたいな握り方だった。

 

廊下では兵士たちがいつも通り動いていた。

報告書を抱えて通り過ぎる足音。

壁際で交わされる低い声。

遠くで誰かが笑う。

 

世界は平然としている。

何も失っていないみたいな顔で。

 

私だけが違う。

私だけが、綺麗に塗り潰された盤面の前に立ち尽くしたままだ。

 

負けたのだと思う。

それも、ひどく綺麗に。

 

もう崩す意味もない。

戻す熱もない。

世界はもういい。

 

そう思っているのに、ジャンの手だけはまだ惜しい。

 

 

「部屋でいいだろ」

 

「ジャンの?」

 

「嫌なら別のとこ探す」

 

「嫌じゃないわ」

 

答えるとジャンの喉が小さく動いた。

 

その反応だけで、胸の奥が少しやわらかくなる。

こんな時でもまだ、私は彼が揺れるのを見るのが好きらしい。

 

 

 

部屋に着く。

扉が開く。

先に中へ入れられて、あとからジャンが入ってくる。

 

かちり、と鍵の音がした。

 

小さな音なのに、妙に耳に残った。

閉じ込められた、と思うより先に、少しだけ安心した自分がいて、心の中で笑う。

本当にどうしようもない。

 

部屋は簡素だった。

机、椅子、棚、寝台。

整ってはいるけれど、飾り気がない。

 

「つまらない部屋ね」

 

「寝るだけの場所に何求めてんだよ」

 

「あなたらしいけど」

 

そう言って窓際へ歩く。

月の光はまだ薄く、部屋の輪郭だけを静かに浮かせていた。

 

「座れよ」

 

振り返る。

 

私は椅子ではなく寝台の端に腰を下ろした。

少しだけ沈む感触。

ジャンの眉がほんの少し寄る。

 

困らせたかったのかもしれない。

実際に困った顔をされると、胸が少しだけ熱くなる。

 

ジャンは少し離れた椅子を引いて座った。

正面。

近すぎず、遠すぎず。

見張るつもりなのだろう。

 

 

「……そこなのね」

 

私は小さく笑った。

 

沈黙が落ちる。

 

気まずくはない。

ただ、濃い。

少し触れれば、どちらかが何かをこぼしてしまいそうな沈黙だった。

 

 

しばらくして、私はぽつりと口を開く。

 

「ほんとに、しないのね」

 

ジャンの目がすっと細くなる。

 

「まだ言うのかよ」

 

声は思ったより静かだった。

挑発のつもりなのに、ただ事実を言ったみたいな声になる。

 

「……寝るなら寝ろ」

 

「ジャンは?」

 

「寝ねぇよ」

 

「見張るの?」

 

「悪いか」

 

「少し嬉しい」

 

私は寝台に片手をついて、少しだけ上を向く。

視線が動く気配がする。

ジャンが慌てて逸らしたのも分かった。

 

可愛い、と思ってしまう。

こんな時なのに。

 

 

「ジャン」

 

「何だよ」

 

「こっち来て」

 

少し間があって、返事。

 

「嫌だ」

 

「でも来たいでしょ?」

 

「うるせぇ」

 

私は少し黙って、それから彼を見る。

ジャンもこっちを見ていた。

 

不器用なくらい真っ直ぐな目。

欲もある。

迷いもある。

苛立ちもある。

なのに、全部抱えたままこちらを見る目。

 

好き、と思う。

本当に、どうしようもないくらい。

 

だから口が勝手に動いた。

 

 

「……ジャンは、私を選ばない」

 

その瞬間、彼の顔が止まった。

 

刺さった。

分かる。

ちゃんと刺した。

 

言わなければよかったと思うのに、言わずにはいられなかった。

 

 

「世界とか」

「正しさとか」

「そういうので動くの、もう疲れたの」

 

窓の外で風が鳴る。

かた、と小さく窓枠が揺れた。

 

 

「ジャンに、止めてほしかったの」

 

言ってしまうと、胸が少し軽くなって、同時にひどく惨めになる。

 

私は優しさで止まりたいわけじゃない。

理解されたいわけでもない。

もっと乱暴に、もっと身勝手に、理屈ごと奪うみたいに止めてほしかった。

 

行くな、と。

俺が嫌だからやめろ、と。

そういう言葉で。

 

選ばれたいんじゃない。

攫われたい。

 

そんなもの、言葉にしたら醜いだけだ。

 

 

「……は?」

 

ジャンの声が落ちる。

綺麗に理解した顔じゃなかった。

ちゃんと困って、ちゃんと腹を立てて、どう受け取ればいいか分からない顔。

 

その顔の方が、ずっとジャンらしくて、少しだけ救われる。

 

 

「お前、それ……」

 

言いかけて、止まる。

舌打ちしそうな顔。

でもしない。

代わりに、こっちを睨むみたいに見る。

 

 

「そういう言い方すんな」

 

低い声だった。

 

私は目を細める。

 

「どうして?」

 

「どうしてじゃねぇだろ」

 

一気に立ち上がる。

椅子が小さく鳴った。

 

 

一歩、二歩。

あっという間に寝台の前まで来る。

 

見下ろされる。

空気が近くなる。

さっきまでの距離が、ただの我慢だったのだと分かる。

 

 

「俺にどうしろってんだよ」

 

その声は苛立っていた。

でも怒りじゃない。

もっと、どうにもならないものに近い。

 

「行くなって言ったら、ほんとにやめんのかよ」

 

私は答えなかった。

 

答えたら、たぶんもっと駄目になる。

 

ジャンの呼吸が少し荒い。

目が揺れている。

ちゃんと欲しがっている顔だった。

それが嬉しくて、ひどく困る。

 

「……そういう顔で言うな」

 

吐き捨てるみたいに言われる。

 

私は少しだけ首を傾げる。

 

「どんな顔?」

 

「知らねぇよ」

「でも、そういうの」

「俺に向けんな」

 

言葉が足りない。

でも、足りないまま必死で掴もうとしている。

その感じが、この人だと思う。

 

 

「止めてほしかったの」

 

もう一度言うと、ジャンの顔が歪んだ。

 

「馬鹿かよ……」

 

掠れた声だった。

 

「そんなので止まるなら、とっくに止まってるだろ」

 

「そうかもね」

 

「じゃあ言うなよ」

 

「言いたかったの」

 

「何でだよ」

 

 

「分からない?」

 

問い返すと、ジャンは顔をしかめた。

 

「分かるかよ」

「分かりたくねぇよ、そんなの」

 

その返しに、胸が少し熱くなる。

綺麗に受け止めない。

優しく飲み込まない。

そういうところが好きだ。

 

 

ジャンの手が伸びてきて、髪に触れた。

さらりと指が流れる。

耳にかかった髪をどけられる。

 

小さく息が揺れた。

 

その反応に、ジャンの目がますます苛立ったように熱くなる。

 

 

「……なぁ」

 

低い声。

 

「明日、お前が行くの」

「俺、ほんとに嫌だ」

 

ああ。

そういう言い方をするのだ、この人は。

 

綺麗じゃない。

飾らない。

ただ、自分が嫌だと真っ直ぐ言う。

 

それだけで、足元が揺らぐ。

 

 

「分かってるわ」

 

「分かってねぇよ」

「分かってたら、そんな平気な顔しねぇだろ」

 

「平気じゃないわ」

 

「見えねぇ」

 

 

言いながら、ジャンの指先が耳のあたりをかすめる。

そこに熱が残る。

 

「……見せたら、困るでしょう」

 

「もう困ってるっつってんだろ」

 

吐き捨てるみたいな声だった。

でも、その声がたまらなく嬉しい。

 

困ってる。

私のことで。

行ってしまう私を、ちゃんと嫌がっている。

 

胸の奥の冷えたところに、少しだけ熱が戻る。

 

 

「お前が思ってるより、ずっと困ってる」

「だから、これ以上わけわかんねぇこと言うな」

 

私は少し黙ってから、小さく言う。

 

「ごめんなさい」

 

自分でも驚くくらい素直な声だった。

 

「私、そうやってしか、生きられない」

 

試して、

揺らして、

相手がどこまで来てくれるか見ないと安心できない。

そういう、面倒で、可愛くない生き方しかできない。

 

 

ジャンは嫌そうに眉を寄せた。

けれど手は引かない。

 

「知ってるよ」

 

ぶっきらぼうな声。

 

「知ってるけど」

「だからって、俺が何もねぇみたいに言うな」

 

胸が詰まる。

 

 

「俺だって」

「お前にそういうこと言われたら、普通に嫌なんだよ」

 

そこで言葉が止まる。

喉が動く。

言うか迷っているのが分かる。

 

それでも、絞るみたいに出してくる。

 

 

「……好きなんだから、余計だろ」

 

息が止まる。

 

ああ、本当に。

この人はいつも少し遅い。

でも、その遅さごと欲しくなる。

 

胸が苦しい。

嬉しい。

もっと欲しい。

足りない。

 

だからまた、私はつつく。

 

 

「なのに、キスはしてくれないの、おかしくない?」

 

ジャンが顔をしかめる。

 

「お前な……」

 

「したいくせに」

 

「したいよ」

 

 

少し目を見開く。

 

ジャンは自分でも言ってしまったと思ったらしい。

一瞬だけ目を逸らして、でもすぐ戻す。

 

「したいに決まってんだろ」

「でも今したら、絶対ろくなことになんねぇからしてねぇんだよ」

 

その言い方が、あまりにもジャンらしくて、少し笑いそうになる。

 

綺麗じゃない。

格好よくもない。

でも本音だ。

 

私は頬が熱くなるのを感じながら、少しだけ笑った。

 

 

「……そう」

 

「その顔すんな」

 

「どの顔?」

 

「嬉しそうな顔」

 

だって嬉しいのだから仕方ない。

 

本当に、この人はずるい。

欲しい時にはくれないくせに、いらない時に限って、心臓に直接刺さるものばかり寄越してくる。

 

 

ジャンの手が頬から離れる。

惜しい。

でも、その離れ方が優しすぎなくて、少しだけほっとする。

未練を断つみたいに、ちゃんと乱暴に離れるから。

 

 

「横になれ。もう寝ろ」

 

私は少しだけ笑って、素直に足を上げる。

壁際に寄って横になる。

シーツがひやりと冷たい。

髪が広がる。

 

ジャンは靴を脱がないまま、寝台の外側に腰を下ろした。

 

「……そこにいるの?」

 

「いる」

 

「朝まで?」

 

「いる」

 

短い。

でも迷いがない。

 

その返事だけで、胸の奥がじんわり熱を持つ。

 

「眠れないかも」

 

「寝なくていい」

 

「ジャンも眠いでしょう」

 

「お前がいなくなるより、いい」

 

少し言い直した。

でも十分だった。

 

私は目を閉じる。

 

 

ずるい。

本当にずるい。

 

世界はもういい。

諦めた。

塗り潰された盤面に未練はない。

戻す熱もない。

 

 

なのに、この人だけは駄目だ。

 

もういらないはずなのに、まだ欲しい。

終わらせるつもりなのに、この人の前だと終わりきれない。

 

好きだ。

ひどく好きだ。

世界より、正しさより、明日より、今はこの人の方が惜しいと思ってしまうくらい。

 

困る。

本当に困る。

 

沈黙が落ちる。

風の音。

遠くの足音。

夜が少しずつ深くなる。

 

ジャンがそこにいる。

見えるところに。

手を伸ばせば届く距離に。

 

寝台がごくわずかに軋む。

起きるほどじゃない。

でも分かる。

ジャンが、まだそこにいる。

 

本当に、そのつもりなのだろう。

 

意識が沈みかけたところで、指先にかすかな温度が触れた。

そっと。

確かめるみたいに。

起こさないように。

 

 

その温度を抱いたまま、私は静かに眠りへ沈んだ。

 

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