フロックが部屋を出て行った後、残ったのは静寂だった。
その中で私は、目の前の少年――アルミンに問いかけた。
「ここまでは、君の見た通りか」
アルミンは少しだけ息を飲み、それから頷いた。
「……はい」
短く、それだけ答えたあと、彼は続ける。
「未来の僕が選んだ。
そして、今の僕もその未来を選びました」
その言葉で十分だった。
◇
あの時のレイス家の礼拝堂は、地上の喧騒から切り離されたように静かだった。
ケニーとリヴァイは途中で退席し、
残っていたのは、祭壇前のフリーダとヒストリア、そして横に立つ少年アルミンだけだった。
未来を見たと、彼は言った。
人類にとって、どの地獄を採るかという選択。
これは、ある意味自由を奪う処置だった。
だからこそ、問われていたのは一つだけだった。
――どの地獄を通すか。
「……いいだろう」
私がそう言うと、アルミンの瞳が初めて揺れた。
「この話を採る。そして――」
「採用した時点で、これは我々の責任だ」
◇
アルミンは、今、あの日と同じ目で立っていた。
私は椅子から立ち上がる。
世界会議は中断された。
ジラの書いていた筋書きを修正する。
これは選択だ。
「残りは我々が引き受ける」
この選択により死んだ者もいる。
この選択が正しかったとは言わない。
だが、ここで止まるという選択を、私が採ることはない。
「作戦を続行する」
◇
爆発から十日。
病室の前に立つと、扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
中にいるのは二人だと報告は受けている。
フロックと、ジラだ。
私は扉を開ける前に、一度だけ呼吸を整える。
崩れた会談場の処理、各国への説明、島内の統制、調査兵団側の配置転換。
事態はまだ収束にはほど遠い。だが、初動の混乱は過ぎ去った。
私は扉を二度、軽く叩いた。
返事はない。
だが中で、椅子が小さく鳴った。私はそのまま扉を開ける。
病室には薬品の匂いと、まだ新しい包帯の白さが満ちていた。
窓際の椅子にフロックが座っている。手には新聞。
既に読まれた後だろう。
寝台の上にはジラ。
左腕は吊られ、肩から腹にかけて包帯が厚く巻かれている。
顔色は悪い。唇の色も薄い。
それでも、目だけはひどくよく動いていた。
彼女が喉の奥で笑う。
「……なんの用かしら。今更」
乾いた声だった。
部屋に入ると、フロックは持っていた新聞を脇へと置き、立ち上がる。
彼には既に連絡を通していた。
短く頷く。
「少し二人で話したい」
「はい」
フロックは一瞬だけジラを見ると、そのまますれ違い、扉へ向かった。
「しばらく戻らなくていい」
彼は立ち止まらずに答えた。
「分かってます」
扉が閉まる。
部屋が急に広くなった気がした。
ジラはようやく1度だけこちらを見る。
驚きはない。警戒も薄い。来たのが誰であれ、大して変わらないとでも言いたげな、疲れ切った無関心だけがそこにあった。
すぐにそらされる。
彼女の目線は、脇に置かれた新聞。
パラディ島兵士、各国代表を救うため死亡。
理性ある島の可能性。
再考されるべき対パラディ政策。
エルディア人差別への反対勢力の声。
その新聞たちを見たまま、彼女が言う。
「フロック、持ってくる物も、待ち方も、
露骨だったとは思ったのよ」
「私が頼んだ」
「そうでしょうね」
私は寝台のそばまで歩き、机の上の新聞を一瞥した。
「どう思う?」
彼女は答える。
「人ってほんと、死んだ人間に意味を貼るのが上手ですね」
「不満か」
「まさか」
その返答は、あまりに軽かった。
「感心してるの。
爆発は起きた。死人も出た。1人だけ。
なのに、その死んだのが止めた側の兵士なら、それだけで話は別になる」
そこで小さく咳き込む。傷に響いたのだろう、眉が寄る。だがそれでも、笑みは消さない。
「……私、生き残ってるし」
その一言で、彼女の口元が僅かに笑ってる理由が見えた気がした。
ジャンが英雄になったからではない。
自分の終わり方を、勝手に書き換えられたから。
なのかもしれない。
いや、ここは。
「君の計画は失敗した」
私ははっきり言う。
「そしてジャンの行動は成功した」
ジラの睫毛が、ほんのわずかに揺れた。
「世界は今、島を怪物でしかないものとして断じ切れずにいる。
会談の生き残りも、新聞も、各国の使節も、その方向へ動き始めた」
「……でしょうね」
彼女は視線を紙面へ戻す。
私は続ける。
彼女を盤面に戻さなくてはならない。
「君は人類に、地獄を選ばせたいと言ったな」
新聞を押さえていた彼女の指が止まる。
「君自身が地獄を選ばないのは、不公平ではないだろうか」
ジラは黙っている。
だが、否定しない。
「人類に取って、どちらが正しいのかは私には分からない」
「君は、盤面を壊し公平な世界を作り自分はそこで降りるつもりだった。
その方が良かった可能性も、当然あるだろう」
ジラが、ほとんど息だけで笑う。
「……よく分かってますね」
私は淡々と続ける。
「君は以前、こうも言っていたな」
私は彼女を見る。
「それしか選べませんでした、という顔をされるのは、死ぬほど嫌だと」
ジラの視線が動く。
「……言いましたね」
「ならば今度は君が選べ」
私は続けた。
「君は生き残った。ジャンは死んだ」
彼女は答えない。
「君は彼を知っているはずだ。
彼は、自分の死を君の退場の言い訳にされて喜ぶか」
そこで初めて、彼女の顔から笑みが消えた。
なにかに思い至ったかのように。
「……ジャン」
掠れた声が漏れる。
「……ジャンは、そういうの、嫌がりそうね」
ジラは目を開けない。
病室に沈黙が落ちる。
長い沈黙だった。
やがて彼女が、喉の奥で小さく笑う。
最初に聞いたのとは違う音だった。乾いてはいたが、今度は少しだけ、痛みが混じっていた。
「本当に、団長って、性格悪いですね」
「君に言われるとはな」
ジラは天井を見たまま、言葉を零す。
「……ジャンのために、働けってことかしら」
ジャンの死に貼られた意味。
外との交渉。島の延命。世界の行く末。その全部。
彼女は島のためには有用だ。
働いてもらわねばならない。
私は数秒だけ考え、それから答えた。
「そうだ。
彼のために働いてくれ」
彼女にとっての地獄が、そこにはあるだろう。